表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
156/161

普通の人生


 エリス達が次に辿りついた街は、人々の活気に満ちた声が入り混じり、ごく普通の平和な日常の息吹を感じさせる場所だった。


 陽差しが優しく街路を照らし、初夏の風が市場の喧噪を運んでくる場所で、その手にはわずかな食料品が入った小さな麻袋が下げられている。

 袋の中には、小ぶりのじゃがいもとにんじん、玉ねぎ一つ、そしてパンの耳が少し。

 

 必要最小限の食材であり、質素ながらもエリスはそれを大事そうに抱えていた。


「良い状態のお野菜を買うことができて良かったですね。今夜は野菜たっぷりの温かいスープを作りましょう。にんじんと玉ねぎ、それにジャガイモが安かったので、ふんだんに入れますね」


 エリスは微笑み赤い瞳を細める。

 暖かな風が吹き渡り、黒髪はふわりと流れるように靡いていった。


 その時、数人の少女がエリスの横を走り過ぎていく。

 なぜかエリスは、その少女達を目で追ってしまった。

 

「見て、このリボン! 仕事で貯めたお金でようやく買えたんだ!」

「いいな、いいな! けれど、このペンダントもいいと思わない?」

「ほんとだ、素敵! じゃあ次は一緒に合わせてみない? まず、あなたから……」

「お二人さん、先ほど教えたお店に流行りの商品を買いに行くんでしょう? 明日のデートに買うって言ったのはどちらさんでしたっけ?」

「あ、あはは……い、急げー!」

 

 その少女達は、エリスと同年代のようにも見え、群れながら楽しげな笑い声を上げながら走っていく。

 色鮮やかなリボンや、安価だが愛らしい装飾品で飾られ、未来の恋や流行の話に花を咲かせているようだった。


 何の憂いもない、ごく普通の日常の一片だ。


 少女達の会話には、明日の食事の心配も、命の危険に晒される恐怖もない。

 そこに存在するのは些細な悩みと、それ以上に大きな夢と希望だけだ。


 魔王はそれらの少女達を一瞥し、そしてすぐに自分が乗っているエリスの横顔へと戻った。


「…………」

 

 エリスは無意識のうちに、少女達の笑顔を優しい眼差しで追いかけていた。

 しかし、その口元はほんのりと緩んでいたが、その瞳の奥には、寂しげな影が漂っているようにも見える。


 それはまるで、決して己の手が届かないモノを遠くから見つめているようだった。


《……羨ましいか? あの娘達が》


 魔王の口から思わず問いかけが零れてしまい、内心で眉をひそめてしまう。

 余計な問いだったかもしれないが、エリスの寂しげな横顔を見ていると、どうしても聞かずにはいられなかったのだ。


《――もし、あの娘達のように平凡な、友と笑い合える普通の日常を送れていたなら……そう考えていたのではないか?》


 エリスの足がほんの一瞬、止まった。

 赤い瞳は遠くで笑い騒ぐ少女達の群れを捉え、そしてゆっくりと地面に落とされた。


 その表情は、魔王の読めない深い静けさをたたえている。

 数秒の沈黙が流れた後、静かに顔を上げて魔王を見た。

 

「……今こうして旅をしていることを、後悔していますか? とお聞きになりたいのですか?」

 

《……そうだ。余は知りたい》

 

 エリスはしばらく沈黙し、深呼吸を一つしてから再びゆっくりと歩き出した。

 その視線は路上に転がる小石や、店先に並べられた品物、そして通り過ぎる人々の表情を一つ一つ追っているようだった。


 それぞれの顔にはそれぞれの物語があり、それぞれの幸せや苦労がある。

 エリスはそれを慈しむように見つめていた。


「――いいえ。後悔など、一切していません」


 その声は魔王の予想に反して驚くほど明確で、揺るぎない意志を感じさせた。

 深く考え抜かれた末の、確固たる信念に裏打ちされた言葉だった。


「ですが、そうですね……あの子達のように戦いから離れ、誰かと笑い合える日々も時には想像します。それはそれで、とても素敵なことだと思います。時々……ほんの少しだけ、憧れることもあります」


 エリスの掌には、鍛錬の名残が確認できる。

 同年代の少女には、決して刻まれることのない痕であり、別の世界に生きていることが嫌でも理解できてしまう。


 くるりと振り返り、エリスは市場の賑わいと人々の笑顔をゆっくりと見渡した。

 その視線は、一つ一つの幸せの形を眺めるように、そして優しく包み込むように移動する。


 パンを買い求める母親とその裾を掴む子供。

 安物の装飾品を選びあう少女達。

 道端で世間話に興じる老人たち。

 

 ――すべてが、生きる喜びに満ちていた。


「だけど、もし私が勇者という道を選ばなかったら、あの子達の笑顔も、もしかしたらここにはなかったかもしれない」


 エリスはかつて、一人で戦ってきた壮絶な戦いの中での生活を思い出していく。

 

「私が戦わなければもっと多くの人々が悲しみ、苦しみ、笑えなくなっていたかもしれない。街は焼け野原になり、今日この瞬間の平和はどこにも存在しなかったでしょう」


 正面を向き、まっすぐに前を見据えて歩きながら、静かに言葉を続けた。

 その声は市場の喧噪を背景にしながらも、驚くほど鮮明に魔王の耳に届いた。


「私、他者の笑顔が大好きなんです。たとえ自分が笑えなくても、この街中に響く笑い声を聞くと、なんだかとても温かい気持ちになる」


《たとえ自分が傷ついても、苦しんでも、か?》


 魔王が鋭く問い返す。

 その声にはいつもの尊大さではなく、真剣な響きがあった。


「ええ、もちろんです。たとえ私が傷ついても、悲しくても……それでも、誰かが幸せでいられるのなら……それだけで、私は満足なんです」


《お前自身が幸せでなくても、他者が幸せであればいい、と?》


「むしろそれこそが、私の幸せの形なのです」


 エリスは微笑んだ。

 どこか哀しげでありながら、同時に深い達観に満ちた笑顔だった。


「だって、ほら見てください」


 エリスは手に持った食材の入った袋を少し掲げた。


「この食材だって誰かが汗水垂らして育て、運び、売ったものです。それで私は今夜、温かいスープを作ることができる。魔王と一緒に、平和に食事をすることができる」


 その視線は再び市場の喧騒へと戻った。


「この笑顔の一つ一つが、誰かの努力や、誰かの優しさの上に成り立っている。そう思うと……たとえ自分に苦しいことがあっても、この連鎖が続いている限り、それは悪いことばかりではないな、って思えるんです」


 しばらくの沈黙が流れ、二人は市場の端にある古い井戸の傍らに差し掛かっていた。 


「……エリス。よく聴け」


 魔王は慎重に言葉を選びながら口を開くと、その声は驚くほど柔らかくなっていた。

 井戸の水音が、彼の言葉に優しい響きを添えているようだった。


《あの『永劫回帰の儀』にて、お前は処刑された。そして、余の力によって奇跡的に生き延びた。つまり、お前はもう勇者ではない。その過去から解き放たれ、新たに生まれ変わったのだ》


 魔王はエリスの肩から優しく飛び降り、エリスの前に立った。

 黒猫の姿ながら、その眼差しは真剣そのものだった。


 陽光が彼の黒い毛並みを金色に縁取る。


《今からでも遅くはない。普通の村娘として生きることを選ぶが良い。このままかつて勇者であった頃の責任も、役割も果たす必要はない》


 勇者は消え、概念となった。

 だからこそ、今役目を果たそうとするのは、あくまでエリス個人の意思でしかない。

 

 魔王が以前も言った通り、肩書きに縛られる必要はないのだ。


《お前が望むなら、あの娘達のように普通の日々を送ることできる。――戦いから離れ、平和を享受し、そして平凡な日常を生きることが》


 魔王の声には、本来の尊大さはなく、純粋な思いやりの響きがあった。

 彼は本当に、エリスが平凡な幸せを掴むことを願っているようだった。


《お前はもう、誰かのために戦う必要はない。ただ……お前自身のために生きればいい。友を作り、笑い合うといった、普通の幸せを》


 エリスはしばらく黙り込み、魔王の提案を咀嚼しているようだった。

 その瞳は一瞬、遠くの少女達へと向き、ほのかな憧れの色を浮かべた。


 普通の生活、普通の人生――それは確かに魅力的に映った。

 朝起きて、友と笑い合い、恋をし、家族を作り、平穏な日々を送る。



 ――そんな未来も、確かに可能性としてはあった。



 しかし、すぐにその表情は強固な決意に変わった。

 エリスの赤い瞳は、揺るぎない信念の光を宿している。


「……お気遣いをありがとうございます、魔王」


 エリスは静かに、そして力強く首を振った。

 

「ですが、私は……このままでいいのです」


《なぜだ? お前は他者の幸せを願いながら、自分自身の幸せを顧みない。それでは――》


「これが、私の選んだ幸せなのです」


 エリスは井戸の縁にそっと手を触れ、冷たい石の感触を確かめる。


「たとえ孤独でも、たとえ傷つくことがあっても、この目で他者の笑顔を見守ることができる……それこそが、私の生きる意味です。確かに私は『永劫回帰の儀』にて、一度死にました」


《そうだ。だからこそ――》


「でも、こうしてまた生きることを許されたからには、やはり守りたいのです。――この平和を、皆の笑顔を」


 エリスは跪き、黒猫の姿の魔王と目線を合わせた。

 その姿勢は、かつて勇者として戦ったときと同じくらいの気高さを感じさせた。


「先日、魔王が言ってくれましたよね? 私が、赤ちゃんが欲しいと思ったことがあるかって。……あの時、本当は言おうと思っていたんです。私は、それを守る側の人間でいるだけで十分だ、と」


 深い慈愛に満ちていると同時に、どこか諦観にも似た、寂しい笑顔を浮かべ、そしてはっきりと言った。



 

「魔王のその優しいお心遣いは、とても嬉しく思います。ですが、どうかこのままの私でいさせてください。――これが、私の選んだ道だから」



 

 魔王はしばらく無言でエリスを見つめていた。

 紅い瞳は複雑な感情の渦をたたえている。


 困惑、感心、憐憫、そしてほのかな尊敬――それらが入り混じった表情だった。


 エリスがこういう人間だということは、魔王が一番知っていた。

 だからこそ、その主張に驚くことはないし、むしろ納得しかできない。


 ただ、確認作業をしたかっただけなのかもしれない。

 かつて勇者であった一人の少女が、己が心惹かれたあの時と同じ想いを、今も変わらず持っていることを。


 そして、ふっと小さく息をついた。


《……全く、本当に愚かなやつだな、お前は》


 魔王の声には少し諦めの色が混じっていたが、どこか温かい響きもあった。

 エリスの選択を、ようやく理解したようだった。


《仕方ない。ならばお前のその意志、余は認めよう。これからも……お前の望むままに生きるがいい》


「ありがとうございます、魔王」


 エリスの顔に、深い安堵と感謝の笑みが浮かんだ。

 それは、自分らしくあることを許された者だけが持つ、静かな喜びに満ちた笑顔だった。



◇ ◆



 二人は再び歩き出した。

 市場の喧騒は相変わらずで、やかましげに思いながら、魔王はエリスの肩に戻る。

 そして、彼女の選択を静かに見守ることを心に誓ったのである。



 魔王はもう、エリスに平凡な幸せを押し付けようとはしない。


 代わりに、エリスの選んだこの道で、彼女が少しでも傷つかずに済むように――それこそが、己にできることなのだと悟った。



 


 やがて日も傾き始め、二人は宿へと戻った。

 小さな部屋には夕陽が差し込み、温かな橙色に包まれている。


「少し待っててくださいね。おいしい夕食を用意しますので」

 

 エリスは静かにスープ作りの支度を始めた。

 

 野菜を刻む彼女の手つきは、かつて剣を握ったその手とは思えないほど優しい。

 包丁の軽快な音が、静かな部屋に響く。


(――本当に楽しいのだな。この生活が)


 魔王は窓際で丸くなり、エリスの様子を細い目で見守った。

 かつて世界の命運を背負った二人にとって、この何気ない平穏は言葉にできない価値を持つものだった。


 

 エリスが守りたかったのは、まさにこうした日常の一場面なのだ。

 


「さて、魔王。スープができあがりましたよ。今日はたくさん野菜が入っているので、栄養満点です! それに、身体も温まると思いますよ!」


 エリスがそう言いながら、温かそうなスープを器によそっている。

 湯気が立ち上り、野菜の甘い香りが部屋中に広がる。


 その顔は、先程までの深いやり取りの跡など感じさせない穏やかな笑顔に戻っていた。



 魔王はゆっくりと起き上がり、自分の分の器の前に座った。

 スープの湯気を少しだけ嗅ぎ、満足そうに目を細める。


《ふむ、悪くない香りだ》


 わざとらしく上品な口調で言ったが、その言葉に嘘はなかった。



 エリスは満足そうに微笑み、自分の席に着いた。

 両手で器を包み込み、その温もりをじっと感じ取ると、そのまま両手を合わせて宣言した。


「いただきます」


《……いただきます》


 珍しく食事の挨拶をする魔王にエリスは少々驚いた。

 しかし、同じ時を過ごしてくれようと寄り添ってくれるその姿勢が本当にありがたく、顔には自然と微笑みが浮かんでいた。


 外では、まだ人々の笑い声や話し声が聞こえている。


 夕暮れ時を迎え、街の喧騒は少しずつ落ち着きつつあったが、平和な空気は変わらず漂っていた。



 遠くで子供達の遊ぶ声、母親が子供を呼ぶ声、そしてどこからか聞こえる楽しげな歌――そのすべてが、エリスが守りたかった世界の音だった。



 魔王はスープを味わいながら、ふとエリスの言葉を反芻した。


(たとえ自分が傷ついても、悲しくても、それでも誰かが幸せでいられるのなら……)



 魔王はこっそりとエリスを見やった。

 

 幸せそうにスープをすすり、時折聞こえてくる外の笑い声に耳を傾けているその表情には、一片の後悔もない。


 あるのは、深い満足感だけだった。


(――これでいいのだな、お前は)


 魔王は内心でそう呟いた。

 そして、何も語らなかった。


 その内面に去来したあらゆる考察や感銘は、魔王の心の奥底で静かに燻り、彼だけの秘密として保管される。


 ――この瞬間の平和がこの少女にとって少しでも長く続くことを。

 ――少女の選択が、いつまでも少女自身を輝かせ続けることを。

 

 声には出さず、ただ心の中で静かに願った。



 


 今日という一日が、また平穏のうちに暮れていく。

 エリスにとって、それだけで十分な幸せだった。


 そして外では、まだ人々の笑い声が聞こえている。

 エリスはその音に耳を傾けながら、静かに微笑んだ。


(――ええ、これでいいのです)


 エリスは、魔王に応えるように心の中でそう呟いた。

 これこそが、彼女の選んだ生き方なのだから。













=============================


ここまでお読みいただきありがとうございます。

作者の観葉植物です。


閑話休題の締めくくりとして、主人公エリスのスタンスをこんな感じで提示させていただきましたが、いかがでしたでしょうか。


自己犠牲の極致である無償の献身、見返りを求めず他者の幸せが自分の幸せと思う彼女は、愚かしいと思われても仕方ないと思います。


しかし、その善性に心惹かれた魔王が彼女のスタンスを認め、そして共に歩もうと心の中で誓う……それがこの作品の一つのテーマとも言えるものでした。


次回以降、再び戦闘話が続くほか、エリスの理想を世界はどう応えるのかが次第に明らかになっていくかと思います。




感想やレビュー、応援やコメントなど、反応いただけると嬉しいです!!

今後とも、よろしくお願いいたします!!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ