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エリスの赤子に対する想い


 エリスが赤子の世話を受け持ってから三日目のこと。

 彼女は街の外れの小さな川の畔に赤子を連れ、食事として山羊の乳を飲ませていた。


“せめてもの、気分転換にでもなってくれれば嬉しいです“


 そう言ったのは、赤子の母親であり、赤子を連れての外出を勧められたのである。

 念の為、安全のために見張り番として漁師の青年が離れた場所で待機してもらうのも忘れてはいない。


「ようやく私にも慣れてくれたようで嬉しいです。慌てずに、ゆっくり飲んでくださいね」

 

 初日の慌てぶりが嘘のように、穏やかに乳を与えるエリスの様子に、赤子も満足そうに布を吸っているようである。


 

 陽光が木々の葉間から差し込み、穏やかな時間が流れる。

 川のせせらぎと、赤子の小さな息遣いだけが聞こえるこの空間が、エリスの心に大いなる安らぎを与えていく。


「――――――♪」

 

 エリスは無意識に、子守歌を口ずさんでいた。

 それは、かつて勇者だった頃に立ち寄った村で聞いたことのある、ごくありふれた童謡だった。


 郷愁と平穏、そして少々の寂寥感を帯びるその歌を口ずさむ声が安心するのか、赤子はより一層穏やかな表情になる。


 肩の上の黒猫は、その光景をじっと見つめていた。

 そして、珍しくため息のような息をつくと、心中で呟いた。


《……エリス》

 

「はい? 何でしょうか?」

 

《……やはり、赤子とか、そういうものは……欲しいとは、思うのか?》


 魔王の問いは、どこか普段とは違う探るような、それでいて少しばかり照れくさいような響きを帯びていた。


 エリスは一瞬驚いて魔王を見たが、すぐに懐中の赤子に目を落とした。

 その表情は穏やかだったが、その奥には深い静寂が横たわっていた。


「……そうですね、考えたことはありますが……『欲しい』と思ったことは、正直ありません」


 彼女は遠い目をしながら静かに、そしてゆっくりと語り始めた。

 

「私の人生は……ずっと、戦いと使命に追われていました。勇者として目指すべき未来の中に家族を築くことなど、どこにもありませんでした」


 エリスはそっと赤子の頬に指を触れる。

 赤子は無邪気にその指を握り返す。


「そして今……私は旅人です。次の街角で何が待っているかもわからない。食べるものにも困るような、不安定な生活。こんな私に子供を持つ資格なんて、あるわけがない」


 エリスはふと、どこか寂しげな口調で語り出した。

 それは、憧れが少しばかり入り混じった声色にも聞こえた。


「――でも。もしも、私が普通の村娘だったら」


 その途中で、言いかけた言葉を止めて被りを振った。

 自分は何を言っているんだろう、と我にかえるように。


「……すみません、変なことを言って。とりあえず私は今、自分の子を欲しいとか、そんなことは一切思っていませんので安心してください」


 川面を渡る風が、エリスの黒髪を優しく揺らす。

 赤子は乳を飲み終え、満足そうに眠ってしまった。


 優しい温もりが、エリスの腕の中でゆったりと息づいている。



 魔王はしばらく黙っていた。

 そして、心中で、ごく静かに呟いた。


(……本当に、そう思っているのか?)


 明らかに、エリスは本音を隠している。

『永劫回帰の儀』より生還し、勇者という肩書きがなくなった当初は、自由に生きようと思っていたのを覚えている。


 しかし結局、勇者という過去に縛られて責任を果たそうと奔走しているのが現状だ。


 ――本当は、普通の人間として生きたい。

 それは、誰もが望んでいる切実な願いなのではないか。


 だからこそ、魔王はエリスの本心を疑っていたのだ。


 

 エリスは満腹になって眠った赤子を抱き、少しの間、ただじっと川の流れを見つめていた。

 その胸の中には、複雑な思いが去来している。

 

「赤ちゃんのお世話ができたことは、私にとってかけがえのないものになるでしょう。……ですが、あくまでこれは借り物の幸せでしかないのです」


 この小さな命の温もりは、確かに心地よい。

 しかし同時に、これは自分にはふさわしくない借り物の幸せなのだということも、痛いほどに理解していた。


 

 爽やかな風が、急に強く吹きつけてくるような勢いを増した気がする。

 気分転換も十分でき、そろそろ潮時なのだろう。


「――宿に戻りましょうか」

 

 エリスは眠る赤子を抱き直し、そしてその場を後にする。

 

 その声は、いつも通り優しく凜としていた。

 一時の感傷は既にどこかへ消えており、今はこの赤子を無事に母親に返す。


 ――それが、己に与えられた使命であることを再認識したかのようであった。



◇ ◇ ◇ ◇



 エリスが宿に戻ると、ベッドで身体を起こしている母親の側に、申し訳なさそうな顔をしていて男性が佇んでいた。

 その男性に深い親しみを持って接する母親の姿から、男性が赤子の父親であることを察するのは容易であった。


「あ! エリスさんお帰りなさい!」


「ただいま戻りました。そのお方は、もしかして……」


「家内を助けていただき、ありがとうございました。旦那であり、アリアの父親です」


 エリスは赤子を父親にそっと手渡すと、赤子の表情がぱあっと明るい笑顔になる。

 その顔を見た父親は、苦笑しながらゆっくりと語り始めた。


「仕事の出張で遠方まで出てしまっていたのですが、トラブルがあって戻るのが遅くなってしまい、家内にも、アリアにも、そして皆様にも多大なご迷惑をおかけしました。……誠に申し訳ない」


「いえいえ、アリアちゃんがいい子でしたので、特に迷惑だなんて思っていませんよ。むしろ、貴重な経験ができてよかったです」


「そうそう、あんたも父親ならどんと構えてな! 困った時はお互い様ってやつだよ!」


 控えめになりながら、迷惑だなんて全くないことを主張するエリス。

 一方、宿の女将はガハハと笑いながら父親の肩をバンバンと叩いている。


 ――困った時はお互い様。

 その言葉に、赤子の両親はただありがとう、ありがとうとお礼を言うばかりであった。



 宿と市場の関係者一同が、一つの家族の危機を救い、そして和やかな関係を築いているのを、エリスは微笑みながら眺めている。


(良かったです……本当に、良かった)


 自分が手を差し伸べたことで、周囲の人々皆が協力し始め、そしてこのような結果をもたらしたことが、何よりも嬉しかったのだ。


 


 しかし、そのような『全てが万事一件落着』である光景を見ながら、違った感情を抱く者が一人いた。




(……ならば、なぜそのような寂しそうな顔をするのだ)




 エリスの肩上にいる黒猫が、己の相棒の横顔を見ながらどうしても捨てきれない想いを抱いてしまっていた。




 誰にも聞こえないように、己が内心にだけ呟きながら。

 その真紅の瞳は、周囲の和やかな雰囲気を意に介さず、ただ一人だけ見つめているのであった。

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