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子の親といふもの

 

 母親が眠り続けてから、二日目の夕方。

 宿の女将が用意してくれた赤子の食事を温めている最中のことだった。


「お嬢ちゃん! その子のお母さんがやっと起きたよ!」


 突然大声を上げながら、野菜売りの女性が部屋に入ってきた。

 その内容はエリスも待ち侘びていたものであった。

 

「……! わかりました!」


 そしてエリスは、食事をベッドで待っていた赤子を覗き込みながら、優しく語りかける。


「――行きましょう、お母さんが待ってますよ」



◇ ◆


「あ……ああ……!!」


 エリスが赤子を連れてきた途端、母親は声にならない声を上げながら口元を押さえ始めた。


「ご体調の方はいかがですか? ……この子、元気にしてましたから安心してくださいな」


 そう言ってエリスは、動揺する母親の元にそっと赤子を渡す。

 感極まって静かに震え、泣き出す母親に赤子はキョトンとした顔をしている。


「まんま、まんま」


「ごめんね、アリア。どうしようもない母親で、本当にごめん」


 アリアと呼ばれた赤子は、小さな声で笑いながら母親の胸元をぺしぺしと叩いている。

 そしてぎゅっと抱きしめられたことが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべていた。

 

「そういえば、あなたは一体……?」


「ただの旅の者です。偶然、あなたが倒れそうなところに手を差し伸べただけなのですが、間に合って本当に良かったです」


「そうですか……アリアのこと、代わりにお世話していただいたみたいで、なんとお礼を申し上げればいいのか」


「気にしないでください。いい経験でしたので、むしろ私の方こそありがとうと言いたいくらいです。……アリアちゃん、お母さんが元気になって良かったね。お姉さんは嬉しいよ」


 これで自分の役目も終わりである。

 名残惜しそうにアリアの掌に指を這わせ、きゅっと掴まれるのを微笑んでいると、宿の女将が言いにくそうに咳払いをした。


「ごほんっ! そのことなんだけど……お母さん、体調が戻るのはもう少しかかりそうなんだよ」


「えっ、そうなんですか?」


「食事なしにぶっ倒れて、栄養がないまま睡眠をとったもんだから、普通の生活に戻るにはあと数日はかかるよ。しっかり栄養とって、睡眠しなきゃダメだ」


「そんなことありません! 倒れた本人が言っても説得力はありませんが、もう問題なく動けますし、アリアの母親である以上、こんなことで休んでいては……!」


 この子の母親として、誰よりも一番近い存在として、こんな姿を見せたくない。

 そう思うのは当然だった。


 無理をしてでも、いつも通り育児をしなくてはならない。

 そんな強迫観念が母親にのし掛かるが、女将はカッと目を見開いて叱咤した。


「いいから遠慮せずに甘えるんだよ! 美味しい食事も特別に用意してやるから、今は育児から遠ざかって身体をゆっくり休めな! 無理してまた倒れたりしたらそれこそ、この子が可哀想だってわからないのかい!」


「で、でも、私は……」


 女将の言っていることは正論だ。

 無理してまた倒れて、そして今度こそ身体に異常を残したら、どうするのか。

 赤子の世話すら満足にできない身体になってからでは、遅いのである。


 しかし母親は、それをわかっていてもなお、無理をするしかないと思っていた。

 だってこの子のお世話をする義務を持つのは、自分だけなのだから。


 他の人に任せるだなんて、そんな無責任なことはできるわけがないのだ。

 

 ――そう思っていた時、澄んだ声が部屋に響き渡った。


「アリアちゃんのお世話、私にまた肩代わりさせてもらえませんか?」


 エリスは前に出ながら、母親をまっすぐに見つめた。

 その言葉には嘘偽りのない、無理もしていない、純粋に自分がしたいことを主張しているように見えた。


「可愛いお子様を預けるのは不安、というのは重々承知してます。ですが――それでも私は、またこの子のお世話をさせてもらいたいのです」


「……夜泣きの対応も辛かったろうに、なぜそれでもやりたがるのかがわからないよ、私ゃ」


「ふふっ、どうしてでしょうね? 私の本能が、子育てをやらせて欲しいと言っているのかも」

 

 寝不足で目の下にはうっすらと隈ができており、服にも赤ん坊が吐き戻した乳の跡がついている。

 一日で過酷な出来事を経験したような有様であるが、それでもエリスは育児をしたいとお願いする。


 懲りないと言われようが、なんと言われようが再びお世話をしたい。

 そう言ってるかのようなその様子は、深々と礼をしたり、果ては土下座までしそうなくらい強い意志を秘めているようにも見えた。


「そもそも、そんな身体で寝かしつけとかできると思うかい? 普通に歩くだけでふらふらするだろうに、赤子を抱きながらふらついたら、母子ともに大怪我の元だよ。赤子が大切なのはわかるから、協力くらいさせておくれ」


「……………………本当にいいのですか?」


「勿論です! 精一杯やらせてくださいな!」


 甘えてもいいのだろうか。

 悩みに悩み抜いた答えを口に出すように、絞り出した言葉は、エリスにやる気を充填させた。


 自分の周りには、こんなに協力してくれる人がいる。

 今まで孤独に育て上げてきた中では、手助けを求められる存在はなかったのに。


 今まで我慢してきた想いと共に、母親の目元からぼろぼろと涙が溢れていった。

  

「……ありがとう……ございます……本当に辛かった……苦しかった……!!」


 責任や義務から一時的に解放されたからなのか、まるで子供のように母親は泣きじゃくる。

 

 周りにいる子育て経験者である女将含めた女性は、この母親の姿が懐かしいと思ってしまった。

 誰もが経験のある、育児の辛さ、過酷さの中では、思考力もどんどん落ちていき、袋小路に陥ってしまう。

 

 ――だから、親であっても弱音を吐いてもいい。


 女将はそう告げるように、母親をひしと抱きしめるのであった。

 


「アリアちゃん、また数日の間、よろしくお願いしますね」


 抱っこしながら赤子を見下ろして微笑むエリスは、一日しか経験していないにも関わらず、育児を行う者としての貫禄が生まれていた。

 生半可な気持ちではない、真摯に向き合っているのが誰にでもわかるからだろう。


「エリスさん……アリアをどうか、よろしくお願いします」


「任せてください! もし、少し動けるようになりましたら、会いにきてあげてくださいね!」


 こうしてエリスの過酷な育児が、再び始まった。 

 しかし、昨日とは違い、その顔には弱気なものはない。


 心の底から、自分のやりたいことだと自覚できたから。

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