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育児という名の過酷な肉体労働


 宿の女将の厚意により、エリスは宿の一部屋を借りながら赤子の世話をし始めた。

 しかし、経験なんてものは全くなく、他者がお世話しているところを眺めたことがある程度でしかない。


 そんなエリスに、宿の女将を始めとした多くの人々が、手取り足取り教えてくれたのだ。


「とりあえず、これで一通りのことは教えられたと思うけれど……何かあったらすぐに言うんだよ。いいね?」


「はい、ありがとうございます。本当にわかりやすかったです」


 知っているのと知らないとでは天地の差であるため、これでも十分だった。

 オムツや食事、沐浴や寝かしつけの方法まで、とりあえず一日に行うことを一通り、しっかりと頭に叩き込んだのである。


 

 しかし、それはあくまで知識だけの話。

 現実はそう甘くなかった。



「うわぁぁん! あぁぁぁん!!」


「よしよし、大丈夫ですよ〜……オムツはまだ大丈夫、ということはお食事ですかね」


 赤ん坊の世話は、エリスにとって未知の連続だった。


 空腹を訴える泣き声が、何度聞いても慣れずに慌ててしまう。

 母親の荷物に入っていた山羊の乳を何とか飲ませようとするが哺乳瓶などあるわけがなく、布の端を咥えさせて吸わせるのだが、これがなんとも難しい。


 こうするのが普通だよ、と教えてもらった方法も、赤子ごとに相性があるためか必ずしも上手くいくとは限らない。

 試行錯誤しつつ、長期戦を経て、なんとか食事を終えた頃には自分用に用意しておいた白湯がすっかり冷めてしまっていた。


「ん? ご馳走様かな? であれば……よいしょ」


 エリスは赤子を縦抱きにしながら慎重に背中をゆっくり上下に摩り、時たまトントンと優しく叩くのを、反復して行い始めた。

 すると、軽いけぷっという音が赤子の口から聞こえ、緊張し続けていた身体が一気に脱力する。


 この行動を、食事ごとに毎回やらねばならないのだ。

 エリスは気が遠くなるように感じたが、世の中の親御さんはみんな同じことをしているのだ、と思うことで奮起するのであった。



◇ ◆


 

「うわあんっ! うわあんっ!」


「わわっ!……流石にもうお腹は空いてないはず。であれば……やっぱり、おむつですね」


 おむつ替えも初めての経験だった。

 市販の紙のようなものは存在せず、布を何重にも重ねたものを使うのだ。

 交換のタイミングも分からず、赤ん坊が不快感を覚え、大泣きしてから気づく始末。


 しかもその都度洗わなければならないのだから、堪らなかった。


「お嬢さん大丈夫かい? 洗ったおむつはここに置いておくから、汚れたのはこの籠に入れておいておくれ。後で回収しにくるさね」


「うう、ありがとうございます……お手を煩わせてしまって申し訳ありません……」


「大丈夫! ……むしろお嬢さんの方が私ゃ心配だよ。いくら赤子が好きだからと言っても、泣き声を至近距離で長時間聞いていれば、誰だって精神を削られるからね。限界が来る前に助けを呼んでおくれよ」


「はい……! よろしくお願いしますね……!」

 

◇ ◆

  

 

「……っ、あっ、あっ……あぁぁぁん!!」


「うんうん大丈夫だよ。ねんねしようね。怖くないよ、うんうん……」


 眠くて瞼が重いのに、泣き出すおかげで赤子は再び覚醒する。

 

 睡眠のコントロールができないからなのだが、寝そうになったら自ら泣き、そして眠れないことに大泣きする姿は心が摩耗して行くような気分になる。

 

 エリスは赤ん坊を抱き上げ、部屋の中を行ったり来たりしながらあやし、ゆらゆら揺れながら再び行ったり来たり。


 それを何度も繰り返しながら、窓辺に立ってみたり、ひたすら歩いてみたり。


 

 しかし泣き止まない時は本当に泣き止まないのだ。

 エリスは己の無力さに、唇を噛んでしまう。



 そして、ようやく静かな寝息を確認できた時。

 

 そっと赤子用ベッドに寝かせようと、その身体を静かに、慎重に、そっと置いた瞬間。


「……えっく、……えっく!…………あぁぁぁん!!!!」


「だ、大丈夫だよ……お姉さんがいるよ……」


 すぐに抱きながら立ち上がり、再び部屋内を歩き始めるエリス。

 ふらふらになりながらも、ただひたすら虚無の想いになりながら。


 ――この子のお母さんも、こんな感じで眠れなかったんでしょうか?


 あそこまで目に隈を浮き彫りにしていたのは、度重なる寝不足のせいだろう。

 代わりにお世話をしてくれる父親も、なんらかの事情でそばにいないのかもしれない。

 

 この子を守り、お世話するのは己しかいない、と母親は思っていたのであったならば。

 逃げ道などない孤独な毎日の中、ただひたすらに精神を磨耗させていたに違いない。


 

 エリスはグッと歯を食いしばる。

 そして再びゆらゆら揺れつつ、規則正しい歩き方で再び、部屋内を行ったり来たりするのであった。

 


◇ ◆

 


 特に夜泣きには本当に精神的に参ってしまった。


「うわぁぁん! あぁぁぁん!!」


 エリスが眠ろうとすると決まって泣き出し、あやしてもあやしても泣き止まない。

 昨日までの共闘依頼の疲れもあり、エリスの意識は朦朧としながらも、赤ん坊の世話に追われた。


 いつ泣き止むのかがわからない。

 ただひたすらに、安心させようと語りかけながら必死にふらふらと歩いていく。


 すると、どこかしらか声が降り注いだ。

 

《……その抱き方は少々間違っている》

 

 それは魔王の声であった。

 エリスは驚いて机の上を振り向いた。



《もっと後頭部と首を、片腕と手で支えるのだ。身体を丸められるよう、もう片方の手を両足の間から通し、尻を包むように手のひらを添えてやれ》

 

 黒猫はいつもの不機嫌そうな表情を崩さずに、助言をしているようだった。


《さっさと言われるがままにしろ。理解できなかったら何度でも言うぞ》


「理解できましたけれど……………えっ?」


 魔王の言いつけ通りに両手のそれぞれの位置を変えると、赤ん坊がすんなりと腕の中におさまったような感覚を覚えた。

 

 女将達が教えてくれたものに似ているが、赤子の大きさが想定より小さかったために、改良した抱っこの仕方のようである。


 胎内にいるときのような姿勢になった赤子は、ゆらゆら揺れる感覚に急に静かになり、そして規則正しい寝息を立て始めた。


「すごい……こんなにも、あっさりと」


《油断するなよ。赤子はむしろ、親の手から離れるときこそが一番敏感になる。衝撃を与えないよう、ゆっくり、静かに落ち着いて寝かせるんだ》


「が、頑張ります……!」


 再びエリスは赤子をベッドで寝かせようとする。

 さっきのように背中が敷布団に触れた瞬間、泣き出すのではないかと不安になるが、そうも言ってられない。


 ゆっくりとベッドに近づき、そして降ろそうとしていると、魔王が見覚えのある毛布を咥えてベッドに敷き始めた。

 それは、エリスの道具袋に入れていた、洗濯したばかりの毛布である。

 

 そして、何を思ったのか器用に折り畳み始め、出来上がったのは赤子と同じ程度の幅を持った、毛布の塊であった。


《ベッドが硬いのかもしれん。緩衝材を作ってやったから、ここに寝かしてみるといい》


「魔王……! ありがとうございます!」


 魔王の協力により、出来上がった睡眠環境は想定通り赤子にとっては相性が良かったようで。

 身体を下ろし、そしてさっと手を離しても起きることはなく、そのまま規則正しい寝息をするだけであった。


《ようやく寝たか。……って、おいエリス》


 赤子の入眠を確認できたのち、魔王はエリスに声をかけるが肝心の本人は赤子のベッドへ身体を寄りかからせながら、静かな寝息を立てている。

 よほど疲れていたのだろう。


 魔王は叩き起こすことはせず、その身体が少しでも休まるよう、柔らかい毛布を肩上からかけるのであった。

 


◇ ◆

 


《乳の温度はどうだ?赤子は非常に繊細だ。熱すぎても冷たすぎても飲まないぞ》


 エリスは言われるままに乳の温度を確かめると、確かに少しぬるくなっていた。

 温め直して飲ませると、赤ん坊はようやく飲み始める。


「ひぇぇん! えぇぇぇん!!」


《……泣き声の高さが違うな。これは……不快なことを訴えているようだな》


「……魔王ってば、もしかして育児に詳しいんですか?」


《ふん。千年以上生きてきた余の知識は、人間の赤子の育児ごとき当然網羅している。それに――魔族にも赤子はいたぞ》



 その言葉に、エリスはハッとさせられた。

 魔王もまた、多くの命を見守ってきた存在なのだ。


 そして今は、その知識を自分のために使ってくれている。


「……ありがとうございます、魔王」


《礼を言うことか。さっさと次に移るぞ》


 そっぽを向く魔王の様子に、エリスは思わず笑みをこぼす。


 そして、その腕の中で元気よく乳を含ませた布を吸う赤子も、その笑顔を見て嬉しくなったのか、小さく笑うのであった。

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