赤子は求めた。少女がお世話をすることを。
エリスと青年は『白鼠亭』に着くと、恰幅の良い女将がすぐに走り寄ってきた。
「まあまあお二人とも、よく手を差し伸べてくれたもんだ。この方が倒れた方だね? 話は聞いてるから、すぐそこにある部屋で休ませてあげて。準備はもう済んでいるよ」
「悪いな、女将さん。今度うまい魚を持ってきてやるからそれでチャラにしてくれよな!」
「はははっ! 次の漁を楽しみにしてるよ!」
どうやら青年は漁師だったようで、女将との会話からして知り合いだったようだ。
おかげで話が早く、円滑に進むことができて何よりだった。
「ご丁寧にありがとうございます。女将さん、少々お邪魔しますね」
その丁寧な挨拶と礼儀の良さに女将もにこやかに微笑み、深々とお辞儀をした。
◇ ◇ ◇ ◇
母親をベッドにそっと寝かせた後、エリスと青年は大きく息を吐いた。
女将は母親の脈を確認し、額に手を当てる。
「ひどい疲労……おそらく、何日もろくに寝ていないんじゃないかな。命に別状はないと思うけど、しばらくは静かに休ませてあげたいね」
「そうですか……でも、無事でよかったです」
「まあとりあえず、従業員全員で手分けして親子共々世話してあげるよ。心配しないでいいからね」
「ありがとうございます。何から何まで任せてしまい、すみません」
エリスは赤子を女将に渡し、委ねようとする。
――しかし、当の赤子にとって、それは許されない行いだったようで。
「えっく……! えっっ……! ……っ、ひぎゃああああ〜っ!!!」
「ちょ、ちょっと待って! 突然泣かないで! おーよしよし怖くないでちゅよ〜」
「あぁぁぁん! あぁぁぁん!」
女将が抱っこをした途端、急に激しい雷雨が降り注いだかのように、赤子はけたたましく泣き叫び始めた。
なんとかしようと女将がゆらゆら揺れながら、変顔をして、優しく語りかける。
しかし、全くダメ。
効果はまるでないみたいである。
「えほっ、けほっ……うぇぇぇん!!」
「大丈夫でちゅよ〜、怖くないでちゅよ〜……」
焦りつつもゆらゆらと必死に揺れる女将のことも全く見ることもせず、その手は虚空に伸びている。
そして、涙でくしゃくしゃになった顔は、ただ一点――エリスの方を向いていた。
「え……私、ですか?」
「……どうする? やってみるかい?」
「……はい!」
女将は泣き叫ぶ赤子をしっかりと抱き抱えながら、ゆっくりとエリスに委ねた。
その小さな身体がエリスに渡った途端、ぷくぷくとした両手がエリスの身体をひし、と抱きしめるのであった。
誰がみても間違えようがなかった。
この赤ん坊は、エリスに懐いているのである、と。
「……お嬢さん、この女性の知り合いかい?」
「いいえ、市場で倒れかけたところを偶然助けただけなんです」
「そういえばその赤ん坊、嬢ちゃんに対して泣くことはなかったな?」
エリスは青年の疑問を肯定するように頷いた。
確かに一度たりとも泣いたりはしない。
むしろさっきまで泣き叫んでいたのが嘘のように、今はエリスの垂れ下がった黒髪の一部を掴もうと、真剣な表情である。
これは、運命なのかもしれない。
そう思ったエリスは、無意識に声へと出していた。
「……この子を、お母さんが起きるまで預かってもよろしいでしょうか?」
「ええっ!?」
女将は目を大きく見開いた。
ちょうど部屋を覗きに来た野菜売りの女性も、駆けつけた他の店の人達も、驚いたようにエリスを見つめる。
そして女将は、エリスの言葉に苦笑するしかなかった。
「……お嬢さんの助けたい!って気持ちもわかるけどね、赤ん坊の世話はそう簡単じゃないよ。若い娘さんが一人で、それも見知らぬ子を預かるなんて、無茶だよ」
野菜売りの女性も心配そうに付け加える。
「そうだよ、お嬢ちゃん。あなたは見た感じ、旅人なんだろう? だからと言って、若い娘さんが赤ん坊を連れて歩くなんて、それだけでいろんな厄介ごとに巻き込まれるかもしれないんだからね」
エリスはその言葉に一瞬、たじろいだ。
確かに女将さん達の言う通りだ。
自分は旅人であり、いつまでもこの街にいるわけにはいかない。
それこそ、武器の精錬が終わり次第、ここを発つつもりであったのだ。
しかし――
「……無茶かもしれない。甘く見過ぎているかもしれない。……現実を知らない人間が、夢見ているだけなのかもしれません」
エリスの腕の中で赤子は泣かずに、むしろ安心したように小さな手で服を掴んでいる。
その無防備な信頼に、心が強く揺さぶられたのだ。
「――ですが、それでも私はこの子のために何かをしてあげたい。……だってこの子が、私を信じてくれているんですもの」
エリスの声は静かだったが、そこには紛れもない決意が込められていた。
女将はしばらくエリスの顔を見つめていた。
本来ならば、大人が率先して受け持つ役割である。
しかし、赤子のこの懐きぶりはどうだろう。
むしろ、赤子こそがお世話される立場として、お守り役を選ぶ権利があるのではないか。
そんな思いが心の中を過っていき、堪らず深く息を吐いてしまう。
――そして、理解したかのように顔を綻ばせた。
「……わかった、お嬢さんに任せるよ。でもね、一人で抱え込まないで。何かあったら、いつでも私達に言いなさい。私含めたこの宿の人間も、近所の人も、みんなお嬢さんの味方だからね」
「……はい、ありがとうございます!」
エリスが深く頭を下げると、女将は「お礼を言うのはこっちの方さ」と微笑んだ。
野菜売りの女性も「女将さんがそう言うなら、私も手伝うよ」と続く。
エリスの胸に、温かいものが広がった。
見知らぬ土地で、見知らぬ人達が、こんなにもただの他人に対して親切にしてくれる。
差し伸べる手は、少ないものだと思っていたの。
こんな真逆の光景が待ってるだなんて思ってもいなかった。
それはエリスにとって、どんなことよりも嬉しいことだった。
「少しでもお母さんの代わりになれるよう、頑張りますので、どうかよろしくお願いしますね」
そう言って小さな手に指を一本添えるとぎゅっと握り返してくれることに、心がふんわりと温かくなるのであった。
こうして、エリスは見知らぬ土地で、見知らぬ赤ん坊を預かることになった。
しかしその決断は――彼女に想像もしなかった試練をもたらすことになるとは、このとき本人はまるで思っていなかったのである。




