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エリスと赤子


 武器の精錬が終わるまで約三日。

 その間、特にすべきこともないエリスは街の雰囲気をしっかりと味わおうと決意し、本日は街の市場を立ち寄ることにした。


 露店には色とりどりの野菜や果物が並び、買い物客たちの賑やかな声が飛び交っている。

 活気に満ちたその光景に、エリスは自然と口元を緩めていた。


「賑わってますねぇ。自然と美味しいものでも買いたい気分になっちゃいますね」


《……残りの資金はあまりないからな? 絶対に無駄遣いはするなよ》


「わ、わかってますってば……」


 魔王の小言にエリスはグサリと刺され、しょんぼりと肩を落とす。

 

 しかし、それも束の間のこと。

 第六感が察した妙な違和感が胸騒ぎを引き起こし、エリスは自然と視線を前方へと向けた。


(あれは……)

 

 人の波を縫うようにして、一人の女性がふらふらと歩いてくるのが見えた。


 年は二十代半ばほどだろうか。

 青白い顔色にくまの目、そして何より――その背中には、ぐっすりと眠る赤ん坊がおぶわれている。


 周囲の人々は忙しなく行き交い、誰もその女性の異変に気づいていない。


 しかしエリスの第六感は、違和感を鋭く告げていた。

 女性の歩き方は明らかに危うく、まるで今にも倒れてしまいそうなほどだった。


「あの女性……何だか様子がおかしいです」


《……確かにそう見えるが、気のせいかもしれん。気になるならば、そっと後を追う程度にするんだな》


 魔王の忠告にエリスは小さく頷く。

 彼女には、見て見ぬふりをするという選択肢が元からない。


 だからこそ、魔王もエリスにすべきことを伝えたのである。


「そうですね……少しだけ、様子を見てみましょうか」


 そして、エリスはそっと女性の後をつけ始めた。


 女性は市場で買い物をし、小さな肩掛け鞄のみの荷物がいつの間にか両手一杯になっている。

 赤ん坊を背負いながらの大荷物は、かなり堪えるはずである。


(少しくらい、お手伝いしてもいいですよね)


 エリスがそっと近づき、手を貸そうと声掛けしようとしたその時であった。

 

 ――女性の足元が大きく乱れ、そのまま前に倒れ込んでいった。


「ッ危ない!」


 エリスは瞬時に駆け出した。

 普段から鍛え上げられた反射神経が、その身体を最短距離で女性の元へと導いた。


 そして倒れる直前の女性の身体を抱き止めると、同時に背中の赤ん坊が大きく揺れて、けたたましく泣き出してしまった。


「うわぁんっ! ああぁんっ!」


「な、泣かないでください……大丈夫ですよ〜……!」


 エリスは片腕で女性を支えながら、もう一方の腕で背中の赤ん坊をおぶい紐から解き、抱きかかえた。

 

 女性は目を閉じたまま、ぐったりとしている。

 呼吸はあるが、意識はないようだ。


「誰か! 誰か、手を貸してください!!」


 エリスの叫び声に、近くの露店で野菜を売っていた恰幅の良い女性が駆け寄ってきた。


「まあ、大変! どうしたの、一体!」


「この方が急にふらついて倒れてしまって……多分、極度の疲労だと思いますので、至急休ませてあげないと。この辺りに宿はありませんか?」


 野菜売りの女性は倒れている母親と抱っこされた途端に泣き止んだ赤ん坊。

 そしてエリスを交互に見て、すぐに状況を理解したようだ。


「宿なら、そこの角を曲がった大通りにあるよ。女将さんは私の知り合いだから、先に行って事情を話しておくよ。お嬢ちゃんはこの方をゆっくり連れてきて!」


「話は聞いたぜ。その宿は恐らく 『白鼠亭』だろ? 俺がその女性を運んでやるから、嬢ちゃんは赤ん坊のことに専念してくれ」


「お二人とも……ありがとうございます!」


 傍でエリス達の話を聞いていた、体格のいい青年がのっそりと協力を申し出てきた。

 その頼もしい助っ人に、野菜売りの女性は大きく頷きながら「お願いね!」と言いながら小走りで駆けて行く。


「すみません、よろしくお願いしますね」


「ああ、任せな!」


 エリスは母親を青年に受け渡し、そして赤子をしっかりと抱っこしながら教えられた宿、『白鼠亭』へと向かった。


 不思議なことに、赤ん坊はエリスの腕に抱かれてからというもの、すっかり泣き止んでいた。

 大きな瞳をぱちくりさせ、エリスの顔をじっと見つめている。


 そして小さな手を伸ばし、エリスの黒い前髪をつかもうとする。


「んまぁ、あぅー、ぁ」

 

「ん、どうしたのかな?」


 その無邪気な仕草に、エリスの胸の奥が温かくなるのを感じた。


(……ふん、赤子相手に妙なことを考える余ではないぞ)

 

 魔王が自分に言い聞かせるように心の内で不機嫌そうに呟く。


 しかし、エリスの赤子を見つめる表情が目を逸らすことのできないほど、心のざわつきを覚えるものであるのも確かであった。



(……ちっ、余らしくもない。なんだこの胸の騒めきは)


 ただ小さな赤子を抱っこしながら、優しく微笑んでいるだけなのに。


 その姿を見るたび、魔王はとある可能性を想像してしまい、その度にやりきれない気持ちに襲われるのであった。

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