バルドル再び
「ば、バルドルさん!?」
エリスの声が、静かな孤児院の玄関に異様なほど響いた。
驚かれた男、バルドルの顔色はみるみる蒼白になっていく。
口がぱくぱくと動き、何かを言おうとしては、また閉じる。
まるで打ち上げられた魚のように、ただ無様に空気を吸っては吐くだけだった。
「…………」
そしてバルドルは一言も発さず、ゆっくりと麻袋を地面に置き、そして明確に踵を返した。
そっとした動きであれば、存在を消せるのではないかと思っているかのように。
そして、次の瞬間――
「……失礼する!」
バルドルは突然、逃げ出すように走り出した。
武人として鍛え上げられたその足は、瞬時に速度を増し、わずか数歩で出口まであと少しというところまで迫る。
「待ってください!」
バルドルが動く前に、エリスは反射的に動いていた。
かつて勇者であった強者の足捌きと、第六感による逃亡の気配を感じ取っていたのである。
無駄のない動きでバルドルの行く手を回り込み、両手を広げて遮った。
「どこ行くんですか! 神父様と子どもたちが待ってますよ!」
「きゅ、急用ができたのだ! いいからそこを通せ!」
目を泳がせるバルドルは、嘘が明らかに下手くそであることを証明している。
声が上ずり、視線が定まらない。
「もう、バルドルさんてば。早くその麻袋を運んでくださいな。仕事は山のようにあると神父さんが言ってましたよ?」
「う、うぐぐ……」
やらなければならない仕事がある、という事実を突きつけられ、正直者のバルドルはぐうの音も出ない。
「あっ! バルドルの兄ちゃんだ!」
「ようやく帰ってきた! 遅いよーお腹減ったんだけど!」
「抱っこ抱っこ!」
騒ぎを聞きつけた子供達が神父の背後に集まり始め、バルドルを待ち侘び、早く来てくれという視線を向けていく。
おそらく不器用ながらも抱きしめ、頭を撫でて、身体を高く持ち上げたり、振り回したりする戯れ合いを楽しみにしているのだろう。
しかし今のバルドルは、エリスから逃げることこそが最優先であった。
「……こ……こうなれば……!」
バルドルは完全に追い詰められた様子で、顔を真っ赤にすると、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……ぬぅ~~~ん!!!」
「あ、ちょっと!」
《……転移の術か。また少々時間が必要そうだな》
「出た! バルドル兄ちゃんの魔法だ!」
「あの面白い、顔真っ赤になるやつだ!」
子供達に煽られながら、バルドルは例の、時間のかかる下手くそな転移の術を発動させ始めた。
顔を必死に歪め、全身に力を込めるその様子は、もはや悲壮感さえ漂っていた。
「ダメですってば!」
エリスは即座に反応し、バルドルの腕に飛びつくようにしがみついた。
転移の術の発動を物理的に妨害しようとしたのだ。
「逃がしませんよ! 子供達が待ってますし、私だけでは手が足りなくて、あなたの手が必要なんです!」
「グゥッ……も、もう遅い!!」
術はなんとか発動した。
――が、エリスがしがみついているため、正確な座標設定などできるはずもなかった。
周囲の空間がゆがみ、二人と一匹はぽん、という軽い音と共にその場から消え去った。
「グアッ!」
「痛っ!」
《ふん、ざまあない》
しかし、一行は玄関口から少し離れた、中庭の隅っこに転移しただけであった。
その側には綺麗な花壇に咲いた花の茂みがそよ風に揺れている。
「……な……なぜだ……術が、失敗しただと……!?」
バルドルは絶望的な声を漏らした。
羞恥と困惑でぐちゃぐちゃになり、術が失敗した現実を受け止めることができていない状態だった。
エリスは未だバルドルの腕にしっかりとしがみついたまま、至って真面目な顔で言った。
「きっと私が離さなかったからだと思いますよ。魔王も他者の接触は術の構築の妨害要因に大いになり得る、と言ってます」
「な、なるほど……! 流石は魔王様! 勉強になります! …………って、違う!!」
魔王の教えに感謝を向けながらも、流されそうになった己を叱咤するようにツッコミを入れる。
「うふふ、バルドルさんてば、本当に面白い人ですね」
「なっ……!! クッ……ぅぅぅ!!」
エリスの何も裏のない純真無垢な言葉が煽りに思えたのか、バルドルは悔しがり、赤面したまま顔を背ける。
そして深く息を吸い、次なる手でエリスから遠ざかろうとする。
「…………ふぅ」
「どうかしましたか?」
エリスが尋ねると、バルドルは先ほどまでの態度が嘘のように静かになっていた。
まるで、全てを無かったことにしてほしいと言わんばかりに。
「……む? 私はただの通りすがりの旅の職人です。はて、貴方は一体?」
その目は虚ろで、遠い景色を見つめているようである。
「どこかでお会いしたことがあるのでしょうか? ……いや、たぶんお初でしょうな?」
「…………」
次なるバルドルの離脱策は、惚けたように演じることであった。
赤の他人として振る舞い、関係者ではないことを主張しその場から離脱しようと試みたのだ。
あまりにも強い手応えを感じたのか、バルドルは心の中で決まった、と叫んでしまう。
しかし、エリスはその様子を苦笑いしながらも温かい、慈しむような眼差しで見つめた。
「バルドルさん、それはちょっと無いかなって。さっき神父様が『バルドル君』ってお呼びになってましたし。それに貴方、魔王のことも言及しちゃってたじゃないですか」
「し、しまったぁ!! う、うぐぐぐ……!」
エリスのその純粋無垢な笑顔と、一切の悪意のない、ただ事実を指摘するだけの優しい口調が、逆説的にバルドルの羞恥心の最後の砦を粉砕した。
バルドルは苦悶の声を上げ、もはや言葉も出ない。
顔は紅潮の極みに達し、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。
「……わかった」
ついにバルドルの羞恥心と武人としての誇りは限界を超え、奇妙な形で噴出した。
彼は完全に諦め切ったような、虚ろな遠い目をしながら、宣言した。
深く息を吸い、覚悟を決めるように目を閉じる。
「……もういい、ひと思いに殺せ」
そう言うと、彼は完全に無防備な姿勢を取った。
胸を張り、目を閉じ、エリスに心臓を一突きしてとどめを刺すように促しすらした。
それは、もはや滑稽ですらあるほどの潔さだった。
エリスは完全に呆然とした。
そして、そのあまりにも極端で、そしてどこか純真なほどのバルドルの反応に、思わずぷっと吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
「もう、バルドルさんてば、何を言ってるのかさっぱりです。それより、早く持ってきた荷物を運びましょうよ。ほら、子供達も会いたがってますよ」
彼女は優しい苦笑いを浮かべて首を傾げ、バルドルの腕をそっと引っ張り、孤児院の厨房の方へ連れて行こうとする。
「なっ!? は、離せ! お前のことなど俺は知らん!!」
そう言いながらもバルドルは紅潮した顔でエリスから逃れようとする。
しかし、全力を出せばエリスの腕が負傷してしまう。
それだけは御免だと言わんばかりに、エリスの手を軽く握りつつ、離してくれと主張する。
「私は知ってますよ? バルドルさんが正直な方で、高潔な精神を持った武人であることを」
その言葉に、バルドルは目を見開いた。
少女はあまりにも頑なだった。
バルドルはもはや抵抗する気力も失せ、ただ少女の手に引かれてついていくしかなかったのだ。
エリスは、俯いて歩くバルドルの姿を見て、心の中で静かに思った。
(やっぱり……バルドルさんはいい方です)
不器用ながらも人間と共に生きようと仕事をする志。
無理やり連れて行かれようとも、力を持って反撃をしようとしない、その真っ直ぐすぎるほどの武人としての誇り。
そして、孤児院を手伝う優しさ。
――そのすべてが、エリスには愛おしくて仕方なかったのだ。




