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処刑されそうになった勇者を救ったのは、彼女がかつて打ち滅ぼした魔王だった  作者: 観葉植物
閑話休題

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魔王、初めての感情に困惑する


 旅の途中、エリスと魔王はとある平和な街に足を踏み入れた。

 街並みはこぢんまりとしているが、人々の笑顔が溢れ、温かな雰囲気に包まれている。


 市場では新鮮な野菜や果物が並び、子供たちが楽しそうに駆け回っていた。


「ふふ、穏やかな街ですね」


《ふん……確かに、余の好む殺伐とした雰囲気はないが、たまにはこういうのも悪くないな》


 エリスが感嘆の息を漏らし、肩の上の魔王も珍しくご機嫌そうに目を細めている。


 お互いに平和な時間を楽しんでいると、ふと足元からか細い声が聞こえてきた。


「クゥーン……」


 どうやら気づかないうちに、一匹の中型犬が寄ってきていたようだ。

 白と薄茶色の毛並みに、耳が垂れた可愛らしい犬で、首輪はつけていない。


 おそらく野良犬なのかもしれないが、エリスに纏わりつこうとする姿を街の人々は特に気にする様子もなく、むしろ微笑ましそうに見ている。


「うふふ、こんにちは」


 エリスがしゃがみ込み、優しく手を差し出す。

 犬は嬉しそうに尻尾を振りながら近づいてくる。


「あら、見知らぬお嬢さんね。この子は街のみんなに可愛がられている野良犬だよ。人懐こくて、襲うようなことは絶対にしないから、心配しなくていい」


「はい、とってもお利口そうですね」


 街の果物屋のおばさんが果実が山盛りになった箱を担ぎながら、にこやかに告げる。

 エリスも犬の態度で理解していたのか、無警戒だ。


 犬はエリスの手の臭いをひとしきり嗅いだ後、満足そうに顔を上げる。

 そして、エリスの顔にそっと鼻を近づけ、ついにぺろりと顔を舐め始めた。


「わっ! く、くすぐったいです」


 エリスは笑い声を上げる。

 その笑顔は真心から湧き出るもので、周囲の人の心も温かくした。


《……なにをしている、この下等な犬め》


 一方、肩の上の魔王の様子が明らかにおかしい。

 その声には明確な苛立ちが滲んでいた。


 しかし、エリスは犬との交流に夢中で、魔王の変化に気づかない。


「とってもお利口さんですね。お名前とかあるのかな?」


 犬はますます調子に乗り、エリスの胸元に顔を埋めたり、腰の辺りの匂いを嗅いだりし始める。

 まるでエリスという人物を徹底的に調べているかのようだ。


 魔王の尾がピンと立ち、毛が逆立つ。


《………エリス、その犬を追い払え》


「え? でも、この子はただ甘えているだけですよ」


 エリスは相変わらずのんきに答え、犬の頭を優しく撫でながら「そうそう、いい子ですね」と囁く。


 犬はますますエリスに纏わりつく。


 顔を舐め、手足にすり寄り、時折嬉しそうに小さく鼻を鳴らす。

 エリスはそのたびに笑い声を上げ、犬との交流を楽しんでいる。


《……ふん、お前もお前だ。犬なんぞにうつつを抜かしおって、ただの犬だぞ? それに余の方が……》


 魔王の不満は頂点に達していたが、その言葉の途中で止まってしまう。

 魔王自身、何を言おうとしていたのかわからなくなったからだ。



 しばらくすると、犬は満足したのか、尻尾を振りながら去っていった。

 エリスは名残惜しそうに手を振る。


「また遊びましょうね! ……ふふっ、本当にいい子でした」


《ふん……ようやく去ったか。まったく、時間の無駄だったな》


 魔王は去っていく犬を冷笑し、そんな魔王をエリスは目を丸くして眺めている。

 するとエリスは立ち上がり、肩の上の魔王を優しく撫で始めた。


「もう、魔王ってば、何をそんな不満なのですか」


《……別に》


 魔王の返事はそっけないが、その目は依然として不満げだった。


 エリスは去っていく犬の後ろ姿を見ながら、ほほえむ。


「可愛かったなぁ、あの子。また会えるといいですね」


 その言葉を聞いた瞬間、さすがの魔王も我慢の糸が切れた。


《ふん! ……そんなに犬が良いというなら――》


 突然、魔王は行動に出た。

 白くてもちもちの、エリスの頬をぺろりと舐めたのである。



「いだぁい!」



 エリスは悲鳴のような変な声を上げ、思わず飛び退く。

 猫の舌のトゲトゲした感触が、彼女の敏感な頬の皮膚を傷つけたようだ。


「い、痛い……魔王、どうしたんですか?」


 エリスは驚いたように頬をさする。

 そこには微かに赤い跡がついていた。


 魔王は自分がした行動に戸惑っているようだった。


《よ、余はいったい何を……傷つけようとは……!》


 その声には明らかな動揺がにじんでいた。

 エリスは困ったように首を傾げる。


「魔王、そういうことをしたいのは理解できますが、猫ちゃんの舌はトゲトゲなので、私の皮膚を傷つけてしまうんです……」


《知、知っている! 余はただ……》


 魔王は言葉に詰まり、どう弁明すればいいかわからない様子だ。


《……ふん、犬ごときと比較されるのが癪だっただけだ!》


 エリスは少し驚いた表情を見せるが、すぐに優しい笑顔に戻る。


「そうだったんですか。でも、魔王は魔王で素敵ですよ。わざわざ犬と張り合わなくてもいいんです」


 その言葉に、魔王はさらに混乱する。


《張り合うだと? 余がそんな……》


 しかし、否定する言葉も見つからず、もどかしさに尾を激しく振る。



 しばらく沈黙が続いた後、魔王は何かを思いついたようにエリスの首元に近づく。

 そして、すっと自分の尾をエリスの首に巻きつけた。


 エリスは少し驚いたが、抵抗はしない。


「……どうしたんですか、魔王?」


《……別に、何ということもない。ただ、少し寒いだろうと思っただけだ》


 魔王の声は真剣そのものだ。

 エリスは首元に巻きつかれた猫の尾の温もりを感じながら、微笑む。


「そうですか。今日は夏の盛りのような暑さですが」


《……余が寒いと思ったから、お前も寒いはずなのだ!》


 魔王はむっつりと言い放つ。

 その態度は明らかに照れ隠しだった。


 ――この娘は余のものだ。誰にも触れさせん。


 これが、魔王なりのという独占欲の表れだった。


 しかし、本人はその感情を理解できず、ただ漠然とした不快感と、エリスへの強い執着心に戸惑っているのだった。



 エリスは首に巻きつかれた尾の感触を楽しみながら、そっと魔王の頭を撫でる。


「大丈夫ですよ。私にとっての相棒は、魔王だけですから」


《……ふん、どうでもいいことを》


 魔王はそう言いながらも、エリスに撫でられるのを特に嫌がる様子はなかった。



◇ ◇ ◇ ◇


 

 しばらく二人はそんな状態で街を歩き続けた。

 エリスは時折市場の商品を見たり、街の人々に挨拶をしたりしている。


 魔王は相変わらずエリスの首に尾を巻きつけたままだが、その目は常に周囲を警戒し、エリスに近づく者はいないか監視しているようだった。


 そんな苛立ちを隠せない黒猫の姿に、エリスは初めての想いを抱いた。


 ――可愛いな、と。


(口に出したら、絶対に怒られちゃいますね)


 微笑みながら、そんなことを想像するエリスの顔は慈愛に満ちている。

 そして、そんなエリスの様子に魔王は、訝しげに見つめるだけであった。





 夕日が街を茜色に染める中、二人は宿へと向かって歩き出した。


 エリスの心は温かな気持ちで満たされ、魔王の心には複雑ではあるが、どこか満足げな感情が宿っている。


 そして魔王は気づいていない。


 ――自分がエリスに対して抱いているこの感情が、単なる「相棒」のそれを超えたものであることに。


 それはゆっくりと、確かに育ち始めていく感情であった。

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