拒絶された過去を清算し、少女は未来へと歩む
「……そうでした。あの日、私は……」
かつては銀色に輝いていた、今は黒く染まる髪を風に揺らしながら、エリスはその場に立ち尽くしている。
当時とは違う、はるかに脆い自分の身体を抱きしめながら。
《なるほど……『勇者』だった頃でも、随分と無茶な力の使い方をしていた時があったのだな》
「ええ……でも、あの時は他に選択肢がありませんでした。子供達を助けるためには……」
エリスは俯き、自分の手のひらを見つめる。
その手は、かつては多くの魔獣を武器も持たずに蹂躙できた強大なものだった。
しかし今では何の力も感じられない、普通の少女の手だ。
「その後、私はすぐにその場を離れました」
万が一、姉弟の親がお礼を言おうと戻ってきた時。
血塗れ姿を見たことによる恐怖を再び感じさせたくなかった、と自嘲しながらエリスは苦笑する。
《賢明な判断だな。その場合、誰にとっても不幸にしかならなかった》
「……あの子達はきっと無事に村に辿り着いた。それだけで、私は良かったんです」
エリスの声には安堵と、どこか消えない寂しさが混ざっている。
その顔を見るのは苦手だった魔王は、ため息を吐きながら一つ提案をした。
《――ならば、せっかくここまで来たのだ。その村が先にあるのなら、様子を見て行くのも一興だろう》
「えっ……?」
《お前はもう勇者ではなく、ごく普通の村娘であり、旅人でしかない。ならばその小娘達が元気にしているかを確認することくらいできるだろう》
魔王の提案にエリスは少し躊躇ったが、その後ゆっくりと頭を縦に振った。
胸の内には、二人の無事をこの目で確かめたいという思いが強かったから。
◇ ◇ ◇ ◇
森を抜けると小さな村が見えてきた。
のどかな田園風景が広がり、人々が穏やかに暮らしているようである。
村の広場では、子供達が無邪気に遊んでいた。
「あっ、あの子は……!」
その中に、エリスは見覚えのある二人、姉弟の姿を見つけた。
弟は足に多少の不自由が残っているようだが、笑顔で姉を追いかけている。
姉も、あの日とは別人のように明るくはしゃいでいる。
エリスは思わず、物陰に身を隠した。
何事もなく、元気な姿をしている。
それだけで、エリスの胸は高鳴った。
(良かった……本当に、無事で……)
安心したのか、その瞳が震え始めた。
そんな時、弟が転んで姉が駆け寄っていく中、近くに座っていた老人が姉弟に近づいていく。
弟は声を上げずに、身体を震わせながら耐えているようだった。
「おっ、偉い偉い。痛いのも我慢できるようになったんだな」
「うん! あの日、僕達を助けてくれた勇者様みたいになりたいから。こんな痛みへっちゃらだよ!」
「はいはい。血が出てるし薬を塗ってあげるから大人しくしてて」
姉が傷口に持っていた薬を塗りながら、弟の頭を撫でて慰める。
そして老人に対し、かつての出来事を話し始めた。
「私達……あの時、勇者様のことを怖がっちゃって、助けてもらったのに、ろくにお礼も言えなかったんだ。だからもっともっと強くなって、いつかごめんなさいって……そして『ありがとう』って言いたいんだ!」
「そうか……その時が、いつか来るといいな」
エリスは物陰で、そっと胸に手を当てた。
その言葉が直接にではなく、こうして聞こえてくることに、様々な思いが去来する。
(もう……あの勇者は、この世にはいない。だから、その時が来ることは二度とない――けれど)
エリスは寂しげに、そして優しく微笑んだ。
(あなた達のその気持ちは、しっかりと届きましたよ。とても強くて、優しい想い。しかとこの耳で聞き入れました)
エリスはそっと目を閉じた。
再び遠くに走りながら遊ぶ姉弟の笑い声が、温かい記憶として胸に刻まれた。
《――あの小娘達の前に姿を現すか?》
「いえ、やめておきます」
エリスは静かに首を振り、魔王の提案を否定した。
「あの子達はあの経験を乗り越え、立派に成長している。だから、私が話すことは何もありません」
《ほう、随分と達観しているではないか》
「……どうでしょうね? ただ、私のためでもあるのだと思います」
それはきっと、一度会話したら様々な感情が呼び戻されてしまうこと。
エリスは、その感情を恐れていたのかもしれない。
(――さようなら、どうかお元気で)
エリスは最後にもう一度、姉弟の笑顔をしっかりと胸に刻み込むと、静かにその場を後にする決意をした。
しかし、その時だった。
遊んでいた弟のボールが、偶然エリスの隠れている物陰の方へ転がってくる。
姉がそれを追いかけてきたのだ。
「待て待てー!!」
姉はエリスの目前まで来て、はっと立ち止まった。
物陰に立つエリスは、急な展開に身動きが取れず固まってしまっている。
姉の可愛らしい丸い目が、ぱちくりと瞬きをした。
(ば、ばれた……?)
エリスの背中に、冷や汗が流れる。
しかし、姉の口から出た言葉は、予想外のものだった。
「お姉さん、どなたです? もしかして、旅の人ですか?」
「え……ええ、そうです。ただの旅人ですよ」
エリスは必死に平静を装って答える。
姉はエリスの黒髪と赤い瞳を不思議そうに見つめた。
「ふーん……なんだか、優しそうな人だなって! まるで勇者様みたい!」
「ゆ、勇者様? ――お会いになったことがあるのですか?」
「うん! 以前私達を助けてくれたんだよ! けれど、お礼を言うことができてなくて……いつか絶対に言おうって思ってる!」
「……そうですか。きっと、勇者様も喜びますよ」
姉はにっこり笑うと、ボールを拾い、走り去っていった。
エリスはその小さな背中を見送り、深く息を吐いた。
安堵と、ほんの少しの寂しさが入り混じった感情だった。
「どうやら別人だと思ってくれたみたいですね。……勇者であることを言った方がよかったのでしょうか?」
《やめておけ。勇者であることの証明が難しい上、大人にも伝われば大きなリスクになりかねん》
「ええ……やはり、そうですよね。これで良かったんですよね」
エリスは満足げになりながら、ゆっくりと村を後にした。
もう振りかえることはない。
姉弟の想いを、しっかりと受け止めることができたから。
◇ ◇ ◇ ◇
森の中を歩きながら、エリスは静かに呟く。
「あの時の私の選択は間違っていなかった。今なら、はっきりと言えます」
たとえ拒絶されても、あの姉弟が助かったのであれば、それだけで後悔はない。
そして今も、笑顔でいられるなら、正体を明かさなくていい。
「それが勇者として、きっと成すべきことだったから。――きっと、そうです」
その言葉には、かつての寂しげな響きはない。
しっかりと前を向いている、未来を見ているものだった。
《そういうことだ。だから、過去に縛られるな。お前はもう、勇者であることを強制されなくていいのだからな》
「ええ……ありがとう、魔王」
エリスは肩の上の黒猫を優しく撫でながら、歩みを進めた。
これから先の道は、まだ長い。
しかし、彼女の心のうちには、一つの重しが軽やかに解かれたのだ。
そして、過去は過去として受け入れ、今を生きる。
――エリスはまた一歩、前に進むのだった。




