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貴族の親睦会にて、少女は修行の成果を発揮する。

 王都の大貴族、ファルン大公の屋敷は春の訪れを祝う宴で湧いていた。

 エリスはアーサーに導かれるようにして、その喧騒の中へと足を踏み入れる。


 淡い藤色のドレスが、その黒髪と赤い瞳を一層際立たせていて、清楚ながらも気品を感じさせる雰囲気を醸し出している。


《こ、この屈辱的な飾りは何だ!? エリス! さっさと解け!》


 肩の上には、なぜかきちんと首元に小さな赤リボンを結わえられた魔王が、怒りを沸かしながら違和感にモゾモゾと悶えている。

 

(ごめんなさい、少しだけ我慢しててくださいね。……でも、とってもお似合いですよ。ふふっ)


《ええい! 似合ってなどなくて良い! さっさと解け!》


 エリスは微笑みながら魔王を撫で、その機嫌を直そうとする。

 しかし、その胸中は緊張のためか、決して平静ではなかった。


 

 オズワルドの厳しい指導とミリアの陽気な特訓を経て、一通りの礼儀作法は身につけたつもりだった。


 だが、いざこの圧倒的な華やかさと、数多の好奇の視線を前にすると、心臓が高鳴り、手足が少し冷たくなっていくのを感じずにはいられなかった。


「大丈夫、君ならできるよ。とても美しいし、落ち着いているように見える」

 

 アーサーはエリスの微かな緊張を察知したように、そっとその肘に手を添え、軽く囁いた。

 

「は、はい……ありがとうございます」


 エリスは笑顔を作ろうとしたが、それが少し硬いものになってしまっていることに自分で気づいた。


 歩き出すと、何だか手足が同じ方向に出てしまいそうな、ぎこちなさを感じる。

 まるで人形のように、関節が思うように動かない気がした。


(……いけませんね、緊張しすぎています)


《ふん、たかが人間どもの集いに、これほど取り乱すとは情けない》


 魔王の冷ややかな声が頭の中で響く。

 しかし、その響きはどこかエリスを励まそうとしているようにも聞こえた。


「………ふむ」


 アーサーはエリスの硬直した様子を見て、ほんの一瞬考え込むような表情を浮かべた。

 そして、彼は突然、立ち止まった。


「そうだ、エリスさん。一つ、約束してほしいことがある」


「え? な、何でしょう?」


 アーサーはエリスに向き直り、いたって真剣な眼差しで言った。


「今夜、誰かが君に僕達の関係について、あるいは君自身について失礼な質問をしたり、意地悪を言ったりするかもしれない。もしそんなことがあったら――」


 そして、にっこりと微笑んだ。


「――遠慮なく、僕の足を踏みつけてほしい」


「えっ!?」


 エリスは目を見開いた。

 それは、オズワルドに教えられた貴族の婚約者の振る舞いの中にはなかった。


「お淑やかではあるけど、実は見た目以上に気の強い女性ということを主張するんだ。そうすれば、相手も君のことを見下したりはしないようになる」


 だから、遠慮なく踏みつけてくれ。

 そう言うかのように、アーサーは悪戯っぽく片目を瞑った。


「それに、これはただのパーティだ。うまくいかなくたって、死ぬわけじゃない。だから、今日は目一杯楽しもう!」


 その冗談めかした、しかし心のこもった言葉に、エリスはふっと力が抜けるのを感じた。

 思わず、くすりと笑いが零れた。


「……ありがとうございます。――ですが、領民の方達に申し訳が立たなくなりますから、自分にできることはしっかりやらさせていただきますね」


「――それでこそ、エリスさんだ」




◇ ◇ ◇ ◇



 

 二人は最初の難関である、主催者への挨拶へと向かう。

 ファルン大公夫妻は玉座のような椅子に座り、来賓一人一人を迎えていた。


「アーサー・ローウェン卿です。この度はご招待、誠にありがとうございます」


 アーサーが恭しく頭を下げる。

 エリスもそれに続き、上体を教えられた通りに傾けて礼をした。


 ドレスの裾の扱い、視線の落とし方、すべてがオズワルドの教え通りだ。


「本日はこのような栄誉ある宴にお招きいただき、心より感謝申し上げます。婚約者としてご同席させていただくこと、大変光栄に存じます」


 エリスの声は少し緊張を含んでいた。

 しかし、澄んでいてよく通り、決して卑屈ではない品位を保っていた。


「おや、これが噂のご婚約者ですか」


 ファルン大公妃が興味深そうにエリスを見つめる。


「エリスと申します。お会いできて、嬉しく思います」


「まあ、お綺麗な方ですね。そのお目々……珍しい色ですこと」


 大公妃の鋭い視線が走る。

 しかしエリスは動じず、ただ静かに微笑みを保った。


「お褒めいただき、ありがとうございます」


 政治的な話題や自身の生い立ちに触れられないよう、オズワルドに教えられた「安全圏」の会話を心がける。

 リスクを負うことなく、ただ相手の好きな話題を引き出し、誘導し、そして好印象を持たせるように会話を弾ませていく。


 ――エリスの第六感から紡がれる“共感力“を大いに利用した、対話方法だった。



 

(な、なんとか切り抜けました……)


 主催者への挨拶を無事に済ませると、次は序列に従った挨拶回りが始まった。


 年老いた公爵、威厳に満ちた侯爵夫人、野心に満ちた若き伯爵。

 ――それぞれに異なる個性を持つ領主や貴族たちに、エリスは丁寧に敬礼し、決まり文句の挨拶を繰り返していく。


「ローウェン卿、ようやく身を固められたようですね」

 

「エリス様、お目にかかれて光栄です。アーサー様のことがよくおわかりのご様子で」


 彼らは口々に社交辞令を交わしつつ、エリスを仔細に観察していた。

 その視線は、好奇、賞賛、審査、時には妬みも含んでいる。


(なるほど……これが“見られる”という感覚ですか)


 かつて勇者として衆目を集めた時とはまた違う、細やかで鋭い視線の数々だった。

 エリスはアーサーの半歩後ろに立ち、紹介されるたびに礼儀正しく振る舞い、余計な発言は一切しなかった。


《その様子、よく訓練された小鳥のようだな》


(もう、揶揄わないでください)


 エリスが心の中でそう返すと、肩の上の黒猫が満足げに尾を振った。



 アーサーは時折、エリスと視線を合わせ、ごく軽く微笑みを交わす。

 それは二人の間に確かな絆があるように見せ、周囲の貴族たちに好印象を与えていた。


「お二人、お似合いでいらっしゃる」


「アーサー様、お幸せそうで何よりです」



 そんな声が聞こえてくる度、エリスは少し胸の奥が痛んだ。

 アーサーは承知の上とはいえ、騙しているのも同然だったからだ。



◇ ◇ ◇ ◇


 

 順調に思われた挨拶回りも、時に試練をもたらした。

 一人の物騒な気配のする老伯爵が、エリスに鋭い質問を投げかけてきたのである。


「で、エリス様はどちらのご出身で? お家柄は?」


 瞬間、エリスの心臓が跳ねた。

 オズワルドから最も避けるよう言われていた質問だ。


(まずい……どう答えよう……)


 一瞬、言葉に詰まりかけた。

 その時、アーサーがそっと前に出て、庇うようにして答えた。


「エリスは遠方の、静かな地方の出身です。その穏やかな環境が、彼女の優しい性格を育んだのでしょう」


 アーサーの即興の答えに、エリスは内心でほっと胸を撫で下ろした。

 彼女はすぐに平静を取り戻し、老伯爵に向かってかすかにうなずいた。


「その通りです。私は……田舎の出身でございます」


「ふむ……田舎か」


 老伯爵はまだ疑わしそうな目をしていたが、それ以上は追求してこなかった。


 この小さな危機をアーサーと共に乗り越えたことで、少しずつ自信が芽生え始めていた。


 エリスは学んでいく。


 この場は戦場とは違うが、観察力と適応力、そして信頼できる味方の存在が、いかに重要であるかを。




 

 挨拶回りが一段落すると、アーサーは同年代の貴族グループに呼び止められた。

 どうやら領地経営や財政の話になるようだ。


 アーサーはエリスにそっと囁いた。


「少しだけ、失礼するね」


「はい、お気遣いなく」


 エリスは迷わず、優しく頷いた。


 そしてオズワルドの教え通り、彼女はアーサーから数歩下がり、その斜め後方に位置を取った。

 彼らの会話の輪の外にいることを明確に示すためだ。



 そして、彼らの話に耳を傾けているような素振りは一切見せない。

 むしろ興味を持って、近くの壁に飾られた大きな風景画を眺め始めた。


 手元のグラスをそっと口につけ、ごく少量の果汁を味わう。

 一人でいる時間を決して気まずそうではなく、むしろ優雅に過ごしているように見せる。


 ――これもオズワルドの教えだった。


(この絵……色使いがいいですね。それに、真ん中に置かれた物体が――)


《……もう少し理解しているような口ぶりにできないのか? 適当に言ってるようにしか聞こえぬ》


(し、仕方ないじゃないですか! 絵を学ぶことなんて全くなかったのですから、理解しているふりをするだけで精一杯です!)



 表情は絵画に見入っているように保つが、心の中では魔王に話しかけている通り、無知そのものである。


 しかし、見惚れているように絵に釘付けになっているだけでも、印象は全く違うものになっていた。



(……この気配は)


 しばらくすると、見るからに夫の威光を振り翳し、まるで我が評価のように振る舞う貴婦人の姿がこちらに向かっているのを察した。

 

 エリスはさりげなくその方に視線を向け、微かに笑みを浮かべて会釈する。




 ――想定していた、嫌がらせが開始される狼煙が上がったのであった。


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