いざ、貴族の婚約者としての特訓を!
ローウェン領主の館で、文字通り寝る間も惜しんでの特訓が始まった。
目指すは三日後の貴族のパーティ。
あまりにも短過ぎる期間しかない。
エリスはオズワルドによる厳格な指導のもと、貴族の婚約者として相応しい、あらゆる嗜みを叩き込まれる日を送っていた。
「エリス様、背筋はもう少し伸ばして。顎は引き、視線はまっすぐ前に。歩く際は裾が優麗に揺れることを意識して」
「はい!……こう、ですか?」
「その歩幅は勇し過ぎる武人のそれです。もっと小さく細やかで、優雅な態度を意識するのです」
オズワルドの厳しい声が、広間の中に響き渡る。
エリスは額に汗をにじませながら、一つ一つの動作を修正していく。
エリスの身体には、長年にわたる戦士としての姿勢が深く染み付いていた。
それを、貴族の婚約者としての優美な佇まいに矯正するのは、想像以上に困難を伴った。
「いけません。その手は武器を握る時の形です。扇子はこう、もっと繊細かつしっかりと持ちます」
オズワルドは自ら手本を示し、細かい指の動きまで指導した。エリスは何度も繰り返し練習する。
かつて剣を軽々と操ったその指先が、今は小さな扇子ひとつで悪戦苦闘している。
《……ふっ、かつて余と互角に渡り合った勇者が、今や小さな扇子に翻弄されるとはな》
(で、でもこれ想像以上に難しいです……! きめ細やかな指捌きが必要とされることが特に……!)
特訓風景を眺める魔王が、窓辺で日光浴をしながら冷笑する。
しかし、その目には、エリスが必死に努力する姿を認めるような色も宿っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
踊りの練習では、ミリアが得意げにエリスをリードした。
「ほら、エリス! ここの足捌きはこうだよ! 1、2、3、1、2、3!」
「は、はい! 1、2、3……わわっ!」
無理に動かしたせいか脚がもたれ、体勢を崩してふらついてしまう。
「大丈夫、大丈夫! 最初は誰だってそうだよ! もう一回やってみよう!」
エリスは必死に足捌きを刻む。
剣戟や体術とは全く異なる調子に、当初は戸惑いも見せた。
しかし、優れた運動神経と学習能力により、何度も繰り返すことで次第に優雅なものへと変わっていく。
「さっすがエリス! もう完璧だよ!」
「いえ、まだまだです! もう少し練習させてください!」
「そ、そう……? なら私も付き合うけど、無理しちゃダメだからね?」
エリスは息を切らしながらも、決して練習を怠ろうとしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
二日目には、想定される嫌がらせへの対応訓練が始まった。
オズワルドがミリアに向き合い、厳しい口調で指示を出す。
「ミリア様、あなたには他の婚約者による嫌がらせ役を務めていただきます。エリス様にわざとぶつかったり、嫌味を言ったりしてください」
「えーっ! 私が!? そ、そんなことを? エリスに?」
ミリアは申し訳なさそうにエリスを見つめた。
エリスは優しく微笑んで頷いた。
「お願いします、ミリアさん。これも必要な練習ですから」
「じゃ、じゃあ……えっと……」
ミリアは緊張しながらエリスに近づき、わざとらしくドレスを引っ張ろうとした。
しかし、その動きはあまりにも不自然で、エリスは思わず笑いをこらえるのが精一杯だった。
「ミリア様、それでは不自然すぎます。もっと自然に、それでいて分かりやすく嫌がらせが成立するように」
オズワルドの厳しい指摘に、ミリアはさらに緊張する。
「ご、ごめんなさい! もう一回!」
何度も繰り返すうちに、ミリアも次第に役に入り込んでいった。
わざとエリスにぶつかってきたり、足を払ったりしようとする。
エリスはそれらの嫌がらせを、オズワルドに教わった通りに華麗にかわしていく。
まるで偶然避けることができたかのような、あくまでも自然であることを第一として。
「流石エリス! すぐに身につけちゃうんだから!」
「ふふ、ありがとうございます。どうやら、今まで経験してきた戦いの癖が活きているのかもしれませんね」
エリスはそう呟き、ほのかな笑みを浮かべた。
そして急にミリアは態度を変える。
「――ですが貴女、その田舎臭い立ち振る舞いはどうにかなりませんの? 見ているだけで寒気が走るのだけれど」
「ご指摘ありがとうございます。私はまだ貴族社会のことに疎く、ご迷惑をおかけしているかもしれません。どうか、これから学ばせていただければと思います」
ミリアの見下した言葉に対し、エリスは静かに対応し、微笑んだ。
そこには媚びもへつらいもない、ただの誠実さがあった。
しかし、ミリアは諦めない。
「まあ! なあにその猫! 臭いし、毛並みも汚れているし、何より野良猫にしか見えないのだけれど! それにそもそも、このような格式ある場にペットを連れてくるとは何事? ローウェン卿も、どうかされてしまったのではなくて?」
《なっ……!? こ、この小娘がぁ……!!》
ミリアの演技とは思えない、役への入れ込みぶりに魔王もつい反応してしまう。
しかしエリスは「落ち着いてください」と心の声で魔王に告げ、先と同様静かに対応する。
「この子は私の大切な相棒です。できる限り匂わないよう香水を使用しますし、毛並みも汚れているわけではないのです。――確かに、このような場には珍しいかもしれませんが、アーサー様が特別に許可してくださいました。そしてこの子はとてもお利口さんですので、ご迷惑はかけません。どうか、お見知りおきを」
ミリアはエリスの態度と回答に、目を見開いた。
オズワルドに教えてもらった嫌がらせの言葉を、エリスはただ正直に、かつできる限り争いにならないよう返していく。
それは、並大抵の精神力と、対応力がないと無理な芸当であった。
「……わーん、本当にごめん! 全然本心じゃないからね!? お願いだから許してぇ……」
むしろ逆に、ミリアの精神力が限界を向けてしまったようだ。
大好きな友人に対し、演技だとしても嫌がらせをするのは辛いものがあったのだ。
「大丈夫ですよ。むしろ、役に入り込んでいるのがすごいと思いましたし」
そう言ってエリスは、ミリアの頭を撫でながら慰めるのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
三日目の最終日には、アーサーも特訓に加わった。
彼とエリスは、パーティ会場を想定した広間で、実際に連れ立って歩く練習を始める。
「エリスさん、私の腕を軽くお取りください。そう、その程度で良いです」
アーサーに導かれ、エリスは会場を練り歩く。
オズワルドが様々な貴族役を演じ、二人に挨拶してくる。
「ローウェン卿、ご紹介を」
「はい。――こちらは私の婚約者、エリスです」
エリスは教えられた通りに丁寧な敬礼をする。
最初は緊張で動作が硬かったが、次第に自然な振る舞いができるようになっていく。
「よくできています、エリスさん。その調子です」
アーサーの励ましに、エリスはほっと一息つく。
しかし、オズワルドの容赦ない指導は続く。
「エリス様、今の笑みは少し硬すぎます。もっと品を保ちながら自然に」
「は、はい!」
「……アーサー様。貴方ももっとエリス様を気遣うような仕草を」
「ああ、すまない」
エリスとアーサーは何度も繰り返し、完璧な夫婦としての振る舞いを練習する。
二人の距離感や、視線の合わせ方、微笑み方まで細かく指導される。
「では、実際にダンスをしながら会話をする練習を」
アーサーがエリスを踊りに誘う。
音楽に合わせてステップを刻みながら、自然な会話を続けるのは難易度が高い。
エリスは必死に動きながら、アーサーの問いかけに答える。
「大丈夫ですか、エリスさん?」
「は、はい……何とか……」
息が切れそうになりながらも、エリスは笑顔を保ち続ける。
ミリアが傍らで心配そうに見つめている。
「エリス、すごく頑張ってる……私も負けられない!」
ミリアはさらに熱心に嫌がらせ役を演じ、エリスの対応力を試す。
わざとらしい陰口から、巧妙な言葉の罠まで、様々なシチュエーションを再現する。
「ローウェン夫人、そのドレスはもう三年も前の流行ですよ?」
「ご指摘ありがとうございます。しかし、これは私の婚約者が特別に仕立ててくださったものです。流行よりも、思い出の方が大切だと思いませんか?」
「不合格です」
オズワルドが首を振る。
「もう少し控えめな表現で。『ご指摘ありがとうございます。確かに最新のものではありませんが、婚約者が私に似合うと選んでくださった、大切な一品です』と」
エリスはうなずき、何度も言い直しを練習する。
唇が震えるほど疲れていても、決して投げ出そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
三日目の夜、特訓は最終段階に入った。
エリスは疲労困憊になりながらも、その瞳は強く輝いていた。
「エリス様、よくここまで上達されました」
オズワルドが、これまでで初めて賞賛の言葉を口にした。
「これほどの短期間で、ここまで習得される方は見たことがありません。あなた様の努力と才能には、心底感服いたします」
「ありがとうございます、オズワルド様。ミリアさん、アーサー様も、本当にありがとうございました」
エリスは深々と頭を下げた。
ミリアは飛びつくように抱きつき、アーサーは温かい笑みを浮かべる。
「エリスさん、あなたの努力には本当に頭が下がります。明日のパーティ、きっと大丈夫です」
エリスは肩の上の魔王にそっと語りかけた。
(どうですか、魔王? 少しは貴族の婚約者らしくなりましたか?)
《――ふん、表面上はな。しかし、お前の内に眠る獣のごとき本能は、簡単には隠せまい》
魔王はそう言いながらも、その声にはどこか誇らしげな響きがあった。
こうして、三日間の過酷な特訓が終わった。
エリスは全身の筋肉痛と戦いながらも、確かな手応えを感じている。
オズワルドから教わった礼儀作法、ミリアから学んだダンス、アーサーとの連携、そして何より、数々の嫌がらせへの対処法。
これら全てが、エリスの血となり肉となったのだ。
パーティ前夜、エリスはベッドの中で、これまでの三日間を振り返った。
苦しかったが、確実に自分が成長しているのを感じる。
――それは戦士としての強さとはまた違う、新たな自信だった。
◇ ◇ ◇ ◇
そして夜が深まり、エリスとミリアが寝静まった後のこと。
むくりと起き上がった魔王が、エリスの寝顔を眺めていた。
ベッドではエリスが規則正しい寝息を立てている。
白い頬をほんのりと桃色に染め、黒い髪が枕の上に広がっている。
無防備なほどあどけない寝顔。
かつて魔王と刃を交えた勇者の面影はそこにはない。
――ただの、一人の少女としてのエリスがそこにいるのだ。
(この娘が……明日、大勢の領主や貴族達の前に、あの男の婚約者として立つ、か)
婚約者としてアーサーの隣で微笑み、言葉を交わし、時に踊るのだろう。
その姿は確かに、エリスの新たな一面を引き出すはずだ。
相棒として、師匠として思えば、本来なら誇らしいはずだった。
――だが。
(なんだ……? この胸のざわつきは……)
魔王はそっと目を閉じた。
心の奥に、ずしりと鈍い重みが広がる。
それは怒りでも、心配でもなかった。
もっと複雑で、もっと厄介なもの。
アーサーの隣で、妻のように振る舞うエリスの姿。
それを思い浮かべるだけで、胸の奥がざわつく、理屈では説明できないこの感情。
――魔王はまだ、その感情の名を知らなかった。




