知恵の神の日常?
三人の住む世界の、遥か上空。
その更に上、宇宙すら超越し、その外側すら超えた暗い空。
そしてその空の向こうに、その場所はあった。
数多煌めく星々。浮かぶ水晶。星空を映す鏡面。
そこに一つ寂しく置かれている水晶の玉座に腰かける者が居た。
空色の髪に紅梅色の目。子供の背丈に合わず、その瞳にはあらゆる叡智が宿っている。
「ふーむ……」
その子供は正面に浮かぶ映像を眺めて唸った。
形の定まらない画面の向こうには三人の少年少女の姿がある。同じ遺伝子を示す髪と目の色が印象的だ。
子供の唇は緩く弧を描いている。
映像を見ていた子供は時々表情を綻ばせた。
その背後に、一人の青年が現れた。
手袋をはめた手で片眼鏡を整え、青年は玉座へと歩み寄る。
そしてその傍らで足を止め、そこに座る子供を横目で見た。
子供___最高神は、現れた青年___知恵の神を見上げた。
「問題は無かった?」
「ええ」
「なら君も見給えよ。面白いから」
「私にはこの後も仕事があるのですが」
知恵の神は薄ら笑いを浮かべる最高神を見下ろして目を細めた。
最高神はとぼけるように肩をすくめ、嫌に抑揚の付いた声で言った。
「そいえばそうだね。じゃ、ぼくは観察を続けるから、他の神の見回りを引き続きよろしくー」
再び映像に向き直り、最高神は手を振った。
知恵の神は一礼をし、黙って後ろに下がる。
足音が遠のくのを聞きながら、最高神はくすくすと笑った。
知恵の神は僅かに眉根を寄せた。
・・・
___最高神の領域を離れた知恵の神の周囲に光の玉が出現した。
光の玉は惑星のように回り、光の輪を描く。
その光の輪が上下に広がり、円柱状になって知恵の神を囲んだ。
刹那、光の柱と共に知恵の神の姿がその場から消えた。
夥しい光の中で待ちながら、知恵の神は静かに溜息を吐いた。
知恵の神とは、この世界の知恵を管理し、下界の生物の知力の調節をする神である。とは言え調節が必要なのは新生物の誕生時くらいなので、下界に関わる機会は多くない。
ならば彼は暇なのか。
それがそうでもない。
神は下界の管理の他にこの星空での仕事も行うものなのである。
神を含めた全てにとっての主……最高神は下界の仕事で忙しい……らしいので、神々がこの星空のことを行わなければならない。正直最高神が忙しいようには見えないのだが。
だからと言ってそれが仕事をしない理由にはならない。
知恵の神の仕事は神々の見回りだ。
全ての神のもとを回り、彼らの仕事等を観察する。
最高神から直に命じられたことだ。習慣化していても手を抜くわけにはいかない。重要な役割であることも確かだ。
しかし気は乗らなかった。
初めに向かったのは恋愛神の領域だ。
白い光が消え、代わりに甘ったるい赤と薄紅色が視界を覆い尽くす。
ちらほらとぶら下がる恋愛や色欲を象徴する物体からさっさと視線を移し、空間の中心でくつろぎながら下界を観察する目的の人物へ歩く。
矢張りいつも通り鼻歌を歌っていた。
「恋愛神。見回りだ」
「あらご苦労様」
低い声が言った。顔は正面を見たまま動いていない。
映像には手紙を持った一人の少女が映っている。顔を赤らめ、建物の影から一人の少年を覗き見ていた。
「見ての通り、ちゃんと仕事してるわよ」
「間違えてもお前個人の娯楽を目的と混同しないように。お前の役割は魂と体の数を合わせることなのだからな」
「んー……貴方もまだ恋愛神の仕事について分かっていないようだけど? まだ神になって五万年だから仕方無いのかしら」
恋愛神は、いつの間にか知恵の神の背後に移動していた。
知恵の神の肩に手を置き、耳元で囁きかける。
紅い瞳の奥の何かが顔を覗き込んだ。
知恵の神は肩に置かれた手を払った。
恋愛神は一瞬寂しそうに口を尖らせた。
「アタシの仕事は確かに下界の生物の体の数を調節することだけれど、恋愛という彩を世界に加えることも最高神様から授かった大切な役目なの」
「そうか。私にはどうも楽しんでいるだけのように見えたが」
「楽しいに決まってるじゃない! だから恋愛神になったのよ? あーあ、貴方が協力してくれたら心強いし、もっと楽しくなるのだけどねえ」
「こちらにも仕事があるのだからお前に協力してやる暇など無い。異常が無いなら次に行く」
知恵の神から光が散った。
転移の準備をしているのだ。
しかしその正面には既に恋愛神が近づいていた。
「ねえ、ちょっと今退屈なの」
恋愛神は浮遊し、触れそうなほど知恵の神に接近した。
知恵の神の顎を掴み、藍色の瞳をじっと覗く。
口元が笑みを浮かべた。
「また付き合ってくれない? 大丈夫、前回のようにはしないわ……」
首の後ろに手を回し、恋愛神は更に顔を近づけた。
色欲と恋愛の力が流れ込む。
「二度と御免だ」
知恵の神は恋愛神を突き飛ばした。
恋愛神は突き飛ばされた勢いのまま後ろにゆっくりと浮遊し、不服そうに頬を膨らませた。
「つれない神ですこと」
拗ねる恋愛神をよそに、知恵の神は再び光を散らせた。
知恵の神の姿が薄れ始めた。
「さぼったりなんてしないのに、問題があればこっちから報告しても良いのよ?」
「お前こそ知恵の神の仕事を理解していないではないか」
「貴方があんまり話さないから忘れちゃったのかもね」
恋愛神は小さく笑った。
転移の光に包まれながら、知恵の神は僅かに視線を恋愛神に向けた。
「……お前のような、下界を娯楽の道具だと思っている神は危険なのだ。気分次第で下界を狂わせるかもしれない。……最高神様への反乱を起こす可能性もある」
「成程ねえ。勘違いされてるみたいで悲しいわ。確かに下界を見るのは楽しいけれどアタシなりに大切に思ってるの。最高神様への忠誠心が揺らいだことも無いし……って、あら?」
突然消えた気配に、恋愛神は背後を振り返った。
そこには紅と薄紅空がただ寂しく広がっているだけだった。
知恵の神に姿はそこには無い。
恋愛神はまた不服そうな表情を浮かべ、再び下界の監視__という名の鑑賞を始めた。
「……神用の媚薬ってもう一本あったかしら」
・・・
次に視界を埋め尽くしたのは本棚の森だった。
見渡す限りの書物と、数多の棚。
上空から降る黄金色の光が薄く影を作り出している。
気配はおろか、音すらも聞こえない。
知恵の神の背中から、青白い光が噴き出すように溢れた。
光の集合体は、やがて一対の翼の形を作る。
翼がはためくと共に、知恵の神はふっと浮き上がった。そして周囲を見渡した。
「時空の神、居るか?」
広大な図書館のような空間に声が響いた。
並べられた書物は静かに棚の中で眠っている。
静けさがその場を支配していた。
その時。
「はいはーい! 時空でーす!」
遠くで高い、少年の声が答えた。
その声が何度も反響し、光が揺らいだ。
翼の音が近づいて来た。
「ごめんなさーい、本に夢中になっちゃって!」
間延びした声が言った。
本棚の奥から、歯車と時計の針のような部品で構成された翼を生やした、知恵の神や恋愛神と同程度に背の高い少年が顔を覗かせた。
深緑の長い髪、赤い瞳、緑の外套を羽織った華奢な体格。頭上には緑の天使の輪が浮かんでいる。
少年__時空の神は大量の本を脇に抱えていた。
「仕事は忘れるなよ」
「あはは……初めての頃が大変すぎたので、反動ですかねー。もう四十年ですかー」
時空の神は苦笑した。
神の中で、彼の仕事は一二を争う重労働だ。
魂はこの星空を通る際に、現在は最高神によって記憶を抹消される。しかしその抹消された記憶は現世から完全に消失したわけではなく、時空の神の図書館に保管されるのだ。
彼の仕事はそれらの記憶の管理である。
知恵の神は広大な図書館を気にしているようだった。
「知恵さんどうかしましたー?」
「……図書館の光景に慣れていないだけだ」
「あー、僕が神になるまで、ずっと最高神様が代行してましたもんねー。あの方も大変ですよねー、居なくなった神の分まで仕事してるんですもん」
「……どうだかな」
あのへらへらした笑顔からは疲労を読み取れない。
知恵の神は遠い目をした。
「恋愛さんはどうでしたー?」
「何故突然奴のことを聞く」
「恋愛さんが、知恵さんとは特に仲が良いとか、可愛い新入りとか言ってたんですよー。違うんですかー?」
「断じて違う」
「僕も可愛がってほしいなー」
「やめておけ」
無邪気に笑う時空の神は首を傾げた。
知恵の神は片眼鏡を整えた。
「兎に角、問題が無いようならもう行く」
「えー、もうちょっと話していきましょうよー」
「神の数と時間を考えろ。時空の神だろう」
「あはははー」
時空の神は阿呆っぽく笑った。
恋愛神の時と同じように、知恵の神が転移の光に包まれ始める。
時空神は大きく手を振った。
「頑張って下さいねー」
知恵の神がその場から消えた。
残された時空の神は振り返り、元居た本棚へと飛んで戻って行った。
・・・
戦の神の領域は、晴天の下、雲の上だった。
その下に生き物の気配は感じないが、その風景は下界のそれとしか見えない。
___ここに来る度、誤って下界に降りてしまったのではないかと一瞬動揺する。
知恵の神は周囲を見回した。
すぐに、少し遠くに見覚えのある背中を見つけた。
「知恵か」
光の翼を開いて向かっている時、突然戦の神が背中越しに言った。
「見回りに来た」
「いつもご苦労さん」
「仕事は?」
「変わらんよ。今回は第五十一番世界のドワーフたちの戦争だ」
戦の神は物憂げな茜の瞳を手元の水晶に向けていた。肩辺りで切りそろえられた曇天の色の髪が揺れていた。
戦の神が管理するのは、各世界で起こる戦と、その勝敗。恋愛神と同じく戦死者を定めることで体の数の調節を、そして文明の発展を調節するのだ。彼らが間違えても、いつか彼岸の星空へと迫らないように。
下界の生物の命を、その意思のまま奪っていく。
だからこそ戦の神に選ばれるのは、その系統の天使の中でも争いを嫌う穏やかな天使なのだ。
「……どうしてだろう。彼らが争うのを見るのは気が引ける。それが世界のためだと言うのに」
質素な玉座に腰かけた戦の神は、小さく呟いた。
知恵の神は水晶に映し出される景色を静かに眺めていた。
「知恵なら、この気持ちをどうすれば良いか分かる?」
「……ただ、見ていればいい」
「そうかい。けどまあ、君が言うってことは結局そうなんだろう」
戦の神は水晶を見たまま僅かに笑った。
殺し合うドワーフの姿が絶え間なく映し出される。その度に、魂がここへとやって来るのだ。
「前の戦の神……俺よりも穏やかな神だったらしいじゃない。彼は、殺される時どう思ったんだろうね」
「……どう、とは?」
「後悔か、悲しみか、怒りか……それとも、殺戮から解放されて、清々しい心持だったのかな」
その言葉は知恵の神に問いかけているようで、誰にも向かっていなかった。
知恵の神は限りなく広がる晴天を見上げた。目の前の神の心を象徴するような静かな青を。
「知恵はどう思う?」
「……彼が死んだのは私がここに来る前だ。聞かれても明確には分からん。……悔いは、あっただろうな」
「ああ……そうか、君は____」
戦の神は申し訳なさそうに目を伏せた。
「すまないね」
「別にいい」
「次の神の所へ行ってらっしゃいよ。……そうだ、恋愛によろしく。あいつ、君のこと気に入ってるらしいから」
「貴方もか」
・・・
「力の神、見回りに来ました」
転移を終えた知恵の神は、その視線の先にある玉座の主に言った。
そこは、限りなく巨大な___実際、無限に広がっている神殿だった。
玉座の間を上空から差し込む光が照らし、柱の隙間から覗く廊下は暗闇が覆い尽くしていた。
「ご苦労」
軍歌を歌うような、声変わりをしていない声が答えた。
玉座からその神が立ち上がり、知恵の神に振り向いた。長い蜂蜜色の髪が揺れる。
女性用の、白と金の軍服を着た力の神は薄い琥珀色の瞳をまっすぐ知恵の神に向けた。
「……下界の、例の三人ですか。貴方まであの方と同じようなことを……」
知恵の神は玉座の向こうに浮かぶ映像を見て呆れたように肩を落とした。
「彼らの転生には僕も関わった。なので少し興味があるのだよ」
「仕事は問題ないですね?」
「勿論だ」
力の神は勇ましい笑みを浮かべて言った。
彼は下界の全ての「力」を管理する。創世の際は物理的な法則を定め、以降は世界を正しく維持するために常に下界を監視し、場合に応じて生物に力を与える。そうして支配者を決め、その世界を導くのだ。
そして彼は、今居る神の中で最高神を除けば数京年もの間この座に君臨し続けている最年長者でもある。
力の神が指を鳴らすと、三人の映像が煙が晴れるように消えた。
「恋愛も思い入れがあると言っていた。今は学園祭だったか? いかにも奴が目を輝かせて首を突っ込みそうな話だろう」
「間違いないですね」
「君は気にならないのかね? 君自身にも関係の深い作戦だろうに」
「作戦外の行事を気にしていても仕方がないでしょう」
「随分と割り切るではないか。……否、作戦以外はどうでもいいというだけなのか」
力の神は微かに笑みを浮かべた。
「仕事は放置しないで下さいよ」
「心配はない。僕は仕事熱心なのでな。……そんなに軽く見えるかね」
「年長者は分かりづらいんです」
「知恵の神が考えを読めぬ程にか」
「力の神である貴方と他の神に戦闘力の差があまり無いのと同じです。知恵の神だからと言って他の神の考えを全て読めるわけが無いでしょう」
「一つ訂正させてもらうぞ。僕は君らを打ち負かすことくらい造作も無いと自覚している」
「それは戦闘力ではなく経験です」
知恵の神は転移準備を始めた。薄暗い神殿に光が灯った。
「おお、言い忘れていた。恋愛が」
「それ以上はもう良いです」
・・・
「……今回も問題はありませんでした」
「お疲れ様。……本当に随分疲れているようだね。少し休んだら?」
最高神は玉座の背もたれから背後を覗いて言った。
一通り見回りを終えた知恵の神は涼しい顔をした上司を控えめに睨んだ。
「殆ど恋愛神が原因です」
「愚痴かい? 良いよ、君から聞けるのは貴重だ。どんどん言ってくれ給え」
最高神は紅梅色の瞳を輝かせた。
「知っていて放置している癖に……」
「可愛い下の子たちの事情にぼくが首を突っ込むのも無粋だろう?」
「自分のことを兄だと思っているなら少しは突っ込んでください。私は困っているのですから。……どうせ本音は『面白いから』なのでしょう?」
「よく分かっているじゃないか。流石、知恵の神」
「誰だって分かりますよ」
知恵の神の鋭い視線を後頭部に浴びながら、最高神は再び三人の映像を眺め始めている。
知恵の神でも何を考えているのか分かりにくい三つ子は、任務の傍ら学院生活を満喫しているように見えた。
しかしそれでも知恵の神の表情は険しいまま変わらない。
そのまま背を向け、再び転移の準備を始めた。
最高神は憐れみを含んだ笑みを浮かべた。
「結局休まないのかい?」
「身体的な疲労などしませんので。休憩は転移中のみで十分です」
「そうか。頼りにしているよ。……急ぐのは分かるけど、あまり追い込まないようにね」
「了解しています」
知恵の神の姿が光を纏って消えた。
宇宙のような空間には、一人だけが残された。
暗い宇宙の中で良く目立つ赤を宿した目が細められた。
「さて、ぼくはあの子たちを見守らないと」




