S7 薬日
四月の半ば、新しい試験の応募者名簿が回ってきた。
上から下まで、一度だけ目を通す。どの名前も、ボールペンの細い字で、行儀よく枠の中に収まっていた。
名簿を閉じて、同意説明の資料をそろえる作業に戻った。
昼休みは、売店の隣の花屋に寄ってから裏庭へ回るのが、日課になった。見舞い用の小さな花束を、ひとつ。店員さんには最初の日に「お見舞いですか」と聞かれ、三日目からは、何も聞かれずに包んでもらえるようになった。
病棟の角を曲がると、裏庭の銀杏が目に入る。三月にふくらんでいた芽は、いつのまにか、小さな扇の形の若葉にひらいていた。
敷石の道の突き当たりで、花立の水を替える。しおれかけた花を抜いて、新しい花束を二つに分けて挿す。見舞い用の小さな花束は、一対の花立に、ちょうど足りる量だった。
四月の終わりには、花立の脇に、折り紙のチューリップが一輪置いてある日もあった。端の少しよれた、赤い紙の花だ。動かさないように、その隣で花を替えた。
それから手を合わせて、頭を下げる。報告は、相変わらず短い。今日は、黄色が多めです。
◇
五月五日は、今年も仕事だった。
朝、駅前の和菓子屋に寄ると、白とピンクの柏餅の隣に、緑色のが並んでいた。以前、次はよもぎのにしてください、と蓬さんに頼まれ、売り場で確かめてみます、と僕は答えた。
確かめた。ちゃんと売っていた。
いつもなら白かピンクを選ぶところを、今年は緑色のをふたつ、包んでもらった。
昼休み、敷石の道に入ると、途中のツツジが満開だった。二月に刈らずに残した大きな株が、濃い桃色の花をこぼれるほどつけて、ただでさえ狭い道をいっそう狭くしている。花びらを肩に二、三枚もらいながら、横歩きで抜けた。
祠の周りでは、よもぎが青々と茂っていた。三月に新芽だったものが、今は台石の脇を埋めるほどに伸びている。
花立の水を替え、柏餅をひとつ、扉の前の台石にのせた。もうひとつは、帰ってから自分で食べる。
敷石を踏む軽い足音が、ばらばらと近づいてきた。
「あっ、花のおにいさんだ」
昼休みの花束は、思っていたより目立っていたらしい。ツツジの脇をすり抜けて、パジャマ姿の男の子が顔を出した。後ろに、子供が三人続く。みんな、新聞紙で折ったかぶとを頭にのせていた。しんがりは、小児病棟の看護師だった。
「藤代さん、お邪魔します。この子たち、すっかりここがお気に入りで」
男の子は祠の前まで来ると、台石の上の緑色に目を留めた。
「あ、かしわもちだ。たべていいの?」
「だーめ。これは、お供え」
入院中の子に食べ物を渡すなら、お供えより先に、主治医と看護師の許可がいる。
「ふうん」
男の子は、柏餅と僕の顔を見比べて、それから急に胸を張った。
「おにいさん、きょう、なんの日か知ってる?」
「こどもの日!」
聞いてきた男の子が、自分で答えた。
僕はしゃがんで、子供たちと目の高さをそろえた。小児病棟で、最初に覚えた癖だ。
祠の前で聞いたきりの言葉を、僕はあのあと、調べていた。
「そうだね。でも昔は、薬日っていったんだよ」
「くすりび?」
「おくすりの日?」
いちばん小さい女の子が、顔をしかめた。
「おくすり、にがいから、やだ」
小児の治験でも、いちばん手を焼くのは味だ。
「飲まなくて大丈夫。今日のお薬は、これ」
僕は、祠の周りに茂っている草を指さした。
「よもぎっていうんだ。こういう薬草とか菖蒲とかで悪いものを追い払って、みんなが元気でいられますように、ってお願いする日なんだ」
子供たちが、そろって草のほうへ顔を寄せた。さっきの女の子が、葉に鼻を近づける。
「くさもちのにおい」
「じゃあ、いい日だ」
「うん。だから、お参りしよう」
子供たちが、わっと祠の前に並んだ。看護師に教わりながら、小さな手が四組、胸の前で合わさる。
ところが、目のほうがそろわない。かぶとの下の顔が、そろって祠の横へ流れていく。その先には、腰かけるのに手ごろな苔の石があった。石の上は、昼の日を受けて、陽だまりになっている。一人がくすくす笑い出すと、隣の子にもうつった。
「はいはい、ちゃんと前を向いてね」
四つの顔がいったん祠に戻って、また横へ流れた。
僕は子供たちの後ろへ一歩下がって、いつもの敷石に立った。胸の前で手を合わせて、頭を下げる。
腕時計を見ると、昼休みは残り五分を切っていた。
「すみません、お先に失礼します」
看護師に会釈して、敷石の道を戻った。ツツジの脇は、帰りも横歩きだった。
植え込みを抜けて裏庭に出たころ、背中のほうから、子供たちの声がかすかに届いた。
よもぎちゃーん、と呼ぶ声が、笑い声に混じっていた。




