S6 足跡
目を閉じる。
二礼二拍手一礼。神社の参拝作法は知っている。けれど、それを膝ほどの高さのこの祠に、そのまま当てはめていいのかが分からなかった。祀られている名前を知ったのも、ついさっきのことだ。よくわからないまま、手を合わせたまま、頭だけを下げた。
何をお願いするかも、考えてこなかった。だから頭の中で、やったことだけを順に並べた。下の蝶番を、新しいものに替えました。苔は、水とブラシで落としました。薬は使っていません。
治験の経過報告と、たいして変わらない文面になった。
まぶたの裏が、ほんのり明るい。昼を過ぎて日が回り、刈り込んだ植え込みの切れ目から、祠の前まで光が差しこんでいるらしい。濡れた石と、はがした苔の匂いがする。朝のうちは冬のようだった日陰の空気が、首筋のあたりから、ゆっくり緩んでいく。
目を開けた。
陽だまりは、祠の横の苔の石まで伸びていた。
蓬さんは、その光の中に座っていた。膝の上で手を重ねた、さっきと同じ姿勢のまま。
その膝の向こうに、苔の緑が見えた。
若草色の着物を透かして、石を覆う苔の、細かな葉先の一本一本まで見えている。ベージュのカーディガンの袖口は、どこまでが毛糸で、どこからが日差しなのか、境目がはっきりしなかった。
瞬きをしても、見え方は変わらなかった。
合わせた指先に力がこもった。手をほどきかけて、やめる。ほどいて何をするつもりだったのか、自分でもよく分からなかった。
蓬さんが、僕の手を見た。それから、僕の顔を見た。
先に口を開いたのは蓬さんのほうだった。いつか、昔の院長さんの帽子の話をしてくれたときと同じ、弾むような声で。
「大丈夫ですよ。皆さん、私のことが見えなくても毎年来てくれましたし」
口を開きかけて、閉じた。
植え込みの向こうで、院内放送のチャイムが鳴った。続く呼び出しの声は、ずっと遠くの建物から風に乗ってくるようで、言葉の形にならない。それでも、聞き慣れたその抑揚を聞くと、足の裏に敷石の硬さが戻ってきた。
「……見えなくても、ですか」
やっと出てきたのは、ただの聞き返しだった。
「はい。院長さんは、いつも私の少し右のほうに向かって、帽子を取ってくださいました。薬日には子供たちも一緒で、そっちじゃないよって教えてあげても、やっぱり少し右なんです」
蓬さんは、膝の上の手を重ね直した。
「それでも、毎年。ありがたいことです」
僕は、花立に目をやった。さっき溝をきれいにした一行が、日を受けて白く浮いている。中は、二つとも空のままだ。
ここに花が入ったら、どんなふうに見えるだろう。売店の隣の花屋なら、見舞い用の小さな花束を毎日並べている。苔を落としたばかりの灰色の石に、黄色やピンクが一本ずつ。この祠には、少し派手かもしれない。
蓬さんは、喜ぶだろうか。
たぶん、喜ぶ。住所を訪ねてきただけの僕を、来てくださったんですね、と迎えた人だ。
それなら、その花を買って、ここまで運んで、水を替えに来るのは。
「僕も、来ます」
思っていたより、まっすぐな声が出た。
「毎年じゃなくて、来られる日は、全部。……ここ、職場なので」
蓬さんが、ふふ、と小さく笑った。
それから目をつぶって、うん、と一回だけうなずいた。
「はい。信じてます」
蓬さんが、にこっと小さく首をかしげた。
「お掃除、ありがとうございました」
その笑顔のまま、少しずつ淡くなっていった。
陽だまりの中で、着物の若草色が、苔の緑にほどけていく。重ねた手。カーディガンの肩。低く結った黒髪の先。どこが最後まで見えていたのかは、分からない。
苔の石の上には、陽だまりだけが残っていた。
合わせていた手を、下ろした。
祠の裏は、のぞかなかった。
足元に目を落とすと、立っている敷石の真ん中が、浅くすり減っていた。道のほかの石より、ひと回りなめらかだ。そのくぼみに、僕のスニーカーがちょうど収まっている。
バケツの残り水を、植え込みの根元にあけた。ブラシを二本、空のバケツに立てる。苔と落ち葉で膨らんだゴミ袋の口を、固く結んだ。
植え込みの切れ目から、風が抜けてきた。
新しい蝶番の金具に日が当たり、台石は溝の奥まで乾きはじめていた。
祠の周りで、よもぎの新芽が揺れた。柔らかい葉が、そろって白い裏を見せて、また戻った。




