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その聖女の瞳に映る花  作者: 崎子


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2/3

後編

初夏の風が王都を吹き抜け、瘴気を浄化された草原は、まるで長い眠りから目覚めたように鮮やかな緑を取り戻していた。

その日も朝から浄化を終えた一行は王都へ戻る途中の小さな丘の上で休憩を取っていた。


そんな中、有紗だけは少し離れた草原に腰を下ろし、咲き誇る花々を摘んでいる。

リーンハルトは書類へ目を通していた視線を、その姿へ向けた。

朝から広範囲の瘴気を浄化し、連日多くの聖力を使う有紗は、疲れていてもおかしくない。

それでも、有紗は不満一つ漏らさず、小さな野花を大事そうに籠に集めており、気付けばリーンハルトは無意識にその隣まで足が動いていた。


「アリサ、疲れているだろう。木陰で休まないか」


声を掛けると有紗は振り返り、いつものように柔らかな笑顔を浮かべる。


「ありがとうございます。もう少し、花を集めてからにしますね」


「アリサは本当に花が好きなんだな。⋯⋯いや、花々の方がアリサに魅入られてるのか?アリサは国民だけでなく、花にも愛されているんだな」


冗談ぽく笑い声をたてて、リーンハルトは有紗の隣にしゃがみ込む。


「愛されてるなんて、とんでもない!⋯⋯花は、そうですね。綺麗なだけじゃなくて逞しくて、強いんだなって思います。この花のようには私はなれませんが、それでもお手伝い出来たらとは思っています」


「お手伝い?」


有紗は立ち上がると、風に揺れる花畑を見つめる。


「瘴気で痩せていた土地が今はこんなに花が咲いて⋯⋯。そんな花たちを有るべき場所に戻してあげたい、そのお手伝いです」


どこか遠い目をしてリーンハルトには見えないものへの思いに耽るアリサは、誰よりもこの国の未来を考えてくれている——

その未来に、アリサの隣にいるのは誰なのか——胸の奥で何かが軋む音が聞こえた。




帰還後、神殿の執務室へ向かったリーンハルトは、神官長から新たな浄化計画を受け取る。


「順調です。この調子で進めば、予定より一か月ほど早く瘴気を一掃できましょう」


「一か月も早く⋯⋯」


「さすがは聖隷樹の選んだ聖女様ですね。明日からは東方の山岳地帯へ向かっていただきましょう」


計画書を眺めながら、小さく眉を寄せる。


「山岳地帯は移動だけでも負担が大きい。少し休ませてはどうだ」


神官長は穏やかに首を横へ振った。


「瘴気は待ってくれません。聖女様も、それを望まれないでしょう」


一か月も予定より早いなら、休む時間ぐらいあるのではないか——


以前なら当然だと思えたその予定が、今はどうしても重く感じられる。

神官長が部屋を去ったあとも、リーンハルトは計画書を閉じることができずにいた。


神殿を出たリーンハルトに、聖隷樹の前に立つ有紗が視界に入る。

彼女は聖隷樹の根元近くに、浄化先の花を植えているところだった。

彼女が植えた花たちが、聖隷樹の周りに少しずつ広がりをみせ、花畑となってきている。

生命力を戻しつつある聖隷樹に、色取り取りの花が咲き誇り、中心には聖女アリサ。

宗教画のように幻想的で美しい光景に、引き寄せられそうな衝動を何とか抑える。

王太子の責務として、聖女に優しく接しているつもりだった。

それが今ではどうだ。彼女が笑えば安心し、疲れた表情を見れば胸が痛み、少しでも寄り添いたいと思う自分がいる。

リーンハルトはゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐いた。




夕暮れの茜色が王宮を淡く染める中、いつものように聖隷樹へ立ち寄った後、自室へ戻るため有紗が疲れた様子で歩いていた。


少し離れた東屋では、王太子リーンハルトと公爵令嬢レオノーラが向かい合って紅茶を飲んでいる。

回廊を歩いていた有紗は、そこで顔見知りの令嬢に声をかけられた。


「アリサ様、顔色が悪いですが大丈夫ですか?」


心配するように、こちらを伺う令嬢へ有紗は笑顔を作る。


「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけします」


有紗の返事に、手に持っていた扇で口元を隠し、令嬢が東屋へ視線をうつした。


「それならよろしいのですが。⋯⋯リーンハルト殿下とレオノーラ様、本当にお似合いですわね。お二人の仲睦まじさにあてられて、気分を悪くされたのかと心配でしたのよ」


「どういう意味ですか?」


「あら、誤魔化すのがお上手ね。リーンハルト殿下に馴れ馴れしくしていると、伺っておりますわ。お二人は幼い頃からの婚約者です。これは国が決めたこと。殿下があなたに接するのは、あくまで聖女としての対応ですから、勘違いなさらないでね」


「もちろん、分かっています」


「それならよろしいのですが。あなたの為でもあるのよ?聖女としての役割は浄化であって、殿下と親しくすることではなくってよ」


固まる有紗に溜飲を下げ、満足そうに令嬢が去っていった。

息を吐き、また回廊を進む有紗は、東屋の二人へ小さく一礼だけして通り過ぎようとする。

そこへ


「アリサ様、こちらへいらっしゃいな」


レオノーラから柔らかな声で呼び止められ、有紗は立ち止まった。


「はい、レオノーラ様」


「本日も長時間の浄化、お疲れ様でした。ご一緒にお茶でもお飲みになりませんか」


「ありがとうございます。でも、お邪魔してしまうのも悪いので……」


「お気になさらないでくださいな」


断ることも出来ず、勧められるまま席へ着くと、侍女が新しい紅茶と茶菓子を運んでくる。

しばらくは他愛のない話が続いた。

浄化の進行や、旅先での失敗談。

有紗の話に、リーンハルトがにこやかに相槌をうつ。


「アリサ様の浄化は順調そうですわね。今しがた殿下から伺っていましたのよ」


「リーンハルト様や神官長、周りの皆さんのおかげです。私一人で出来ることなど、知れていますので」


「君の献身があってのことだ。さすが聖女に選ばれるだけあると、あの厳しい神官長も褒めていたよ。私も心からアリサが聖女で良かったと思っている」


リーンハルトは緩んだ口元で有紗を讃えた。

その様子を見つめるレオノーラは、ティーカップを静かにソーサーへ戻す。


「そういえば、アリサ。神殿の書物庫には行ったのか」


「はい。リーンハルト様のおかげで貴重な経験が出来ました。ありがとうございます」


「神殿の書物庫ですか?一体、何を読まれたのですか?」


レオノーラの問いには、リーンハルトが代わりに口を開いた。


「アリサが浄化の強化のために、歴代聖女の記録を読みたいと言ってね。いつも熱心で、無理をしてしまう聖女だから、私も目が離せないんだ」


「そんなことないですよ」


慌てる有紗を、熱を持ってリーンハルトが見つめる——


その変化は、婚約者候補として長年彼を見てきたレオノーラだからこそ、誰よりも敏感に感じ取ってしまった。

それでも彼女は笑顔を崩さない。


「殿下、そろそろ⋯⋯」


「どうした、レオノーラ」


「聖女様も、毎日お忙しいご様子です。あまりお引き留めしては申し訳ありませんわ」


「あっ、そうですね」


有紗がサッと立ち上がった。


「私、お先に失礼します」


深く一礼すると、そのまま回廊の奥へ歩いていく。

二人きりになった庭園は、先ほどまでの賑やかさが嘘のように静かだった。

レオノーラはしばらく花壇を眺めていたが、不意に静かな声で尋ねる。


「殿下は、聖女様を大切になさっていますのね」


「当然だ。アリサはあの華奢な身体でこの国の命運を背負ってくれている。私だけではなく、皆が大切にするべき存在だろう」


「……そうですわね」


返事をしながら、レオノーラはリーンハルトの横顔を見つめる。

視線の先には、有紗が侍女へ礼を言って去っていく姿が小さく見えた。それを見つめる瞳の奥には、熱く甘やかな光を宿している。

その光が自分へと向けられることはない。

レオノーラは、カップを持つ指へほんの少しだけ力を込める。


「殿下」


「何だ」


「瘴気がすべて浄化された暁には……」


レオノーラは一度だけ言葉を切り、穏やかな微笑みを浮かべる。その表情は優雅なまま、微笑みも崩れていない。


「私たちの婚約も、正式に発表される予定でしたわね」


「⋯⋯ああ、その予定だ」


王室が決めた未来、それは揺るがないと、そう自分でもずっと信じていた。

その返事を聞いたレオノーラは安心したように微笑んだが、胸の奥では小さな棘が抜けないままだった。




浄化の帰り道、その日は珍しく、有紗は神官長と馬車で二人になった。

神官長が、浄化に付き添うことはほとんどない。神殿を取り仕切る彼は多忙で、浄化も信用する神官を随行させることが常だった。


「聖女アリサ、本日もよく頑張りましたね」


にこやかに、けれどもその心の奥底に隠しているものがあることを有紗はもう気付いている。


「先日、書物庫の禁書区分に行かれたそうですね。目当ての書物は見つかりましたか?」


あくまで穏やかに尋ねる神官長に、有紗の動悸が鳴り止まない。しかし、何とか笑顔を作り、普段通りを意識しながら言葉を探す。


「目当てというか、過去の聖女様の文献があればと思いまして」


「聖女の文献ですか。⋯⋯何故?」


「効率的に聖力を扱う方法が見つかればと思ったんです」


「禁書区分には⋯⋯、確か聖女の日記も納められていましたね」


有紗の心臓が跳ねる。


「学者たちが何百年かけても解読出来なかった聖女の日記です」


神官長の手が有紗に伸びて、彼女の顎をつまむ。その手は冷たく、触れられた有紗の体温も下がったかのように感じた。

動揺を悟られないように、会話を続ける。


「変わった装丁の本のことですよね。リーンハルト様から聞きました。⋯⋯気になって中を見ましたが、私にも読めませんでした」


至近距離で探る視線を受け止めながら、有紗は努めて淡々と話す。


「そう⋯⋯ですか」


神官長は有紗から手を離し、また正面へと向き直った。


「聖女アリサ、私はあなたが聖女で良かったと心から思っています。過去の聖女とは比べ物にならない聖女の素質を持っているあなたの存在全てを」


有紗から視線を外したまま、惹き込まれるような美しい笑みを浮かべる。


「浄化が終わっても、聖女アリサ、あなたは私の権限において良い形にいたしましょう」


「良い形とは、帰してもらえるということでしょうか?」


「良い形とは、皆にとってですよ。もちろん、あなたにとってもです」


どこか楽しげに話す神官長の声を有紗は黙って聞いていた。




有紗は、翌日もその翌日も、浄化を終えれば神殿の聖隷樹へと通う。

皆、聖女が熱心に聖隷樹へ聖力を奉納していることに満足し、何の疑いもしなかった。


王都から半日ほど離れた「黒の谷」は、この王国で最後に残された瘴気の地となる。

谷一帯は黒い靄に覆われ、岩肌には禍々しい紋様が這い、草木は枯れ果て、空さえ灰色へ染まっている。

しかし今日、その景色も終わりを迎えようとしていた。

神官長が静かに一歩前へ出る。


「聖女アリサ。本日の浄化をもって、この国から瘴気は完全に消え去ります」


有紗は緊張のせいか、少し固い表情で頷いた。


「あなた様の尊いお働きは、永く王国史へ刻まれることでしょう」


そんな中、リーンハルトは有紗の隣へ歩み寄る。


「緊張しているようだな。何か手伝えることはないか」


その一言に、有紗は驚いたように目を瞬かせる。


「⋯⋯ありがとうございます、リーンハルト様。緊張はしていますが、私の最後のお仕事です。いつも通り、頑張りますね」


すぐに見慣れた笑顔で有紗が答える。


「そうか。この浄化が終わったら、君は⋯⋯」


リーンハルトは続きを飲み込む。

伝えたい言葉はある。

だが周囲には神官長たちが控えている。

王太子として、迂闊なことは口に出来ない。。


「……いや、頼む」


「はい」


王宮へ来た日と変わらない、純粋で、穏やかで、少しだけ幼さの残る笑みでゆっくりと谷へ歩み出た有紗は、大地へ両手をかざした。


白銀の光が空高く柱となって立ち昇り、黒い瘴気は悲鳴を上げるように霧散していく。

大地が震え、谷を覆っていた闇は次々と光へ呑み込まれた。

その神々しい光景に、誰もが息を呑む。

歓声が湧き起こる。

同行の騎士たちは剣を掲げ、神官たちは神へ祈りを捧げる。

その喧騒の中で、有紗だけは静かに目を閉じていた。


――これで全て終わる。


最後の瘴気が光へ溶けると同時に、谷を満たしていた禍々しい気配は完全に消え失せ、風が草木の香りを運ぶ。

後方で見ていた神官長は満足そうに頷いた。


「終わりましたね」


有紗は静かに瞼を開く。

その瞳には、誰にも悟られることのない、揺るぎない決意が宿っていた。


――あと一つ。『本当の』最後の仕事が残っている。


瘴気は消え、デルヴァール王国は遂に救われた。

そして、最後に向かう場所は神殿の聖隷樹。

国の象徴であるこの大木を完全に復活させるのが最後の聖女の仕事。

全ての浄化が終わった余韻が消えぬ中、一行は神殿へと馬車を走らせた。




聖隷樹は、有紗がこの国に降り立った時とは見違えるほど、葉は繁り、幹は艶があり、香り高い花が咲いている。

その大樹の根元へ、有紗は呼ばれるかのように駆け寄った。

樹の周りには、種類も色も違う花々達が一面に咲き誇っている。

その花々をゆっくりと見回し、ひとつ頷くと有紗は両手を大きく大樹へ掲げた。


帰れなかった歴代の聖女たち。

彼女たちの願いは、ようやく今日、叶えることが出来る——


有紗の聖力が、聖隷樹に流れ出し、樹全体が白く輝き出す。有紗はそのまま、聖力を止めることなく流し続け、光は輝きを増した。


「これだけ奉納できれば充分でしょう」


神官長の言葉に、それでも有紗は聖力を弛めない。

聖隷樹は白銀の輝きを増していき、辺り一体に煌めいた


その様子に神官長の笑みが消えた。

予定にはない聖力の流れだった。


リーンハルトも首をかしげて有紗を見つめる。

彼女は静かに両手を掲げたまま、祈るように目を閉じたままだった。

次の瞬間、聖隷樹の足元から轟音が鳴り響く。

ズドンッ、と腹の底まで震えるような衝撃。

同時に空高く、巨大な光の柱が立ち昇った。


「な……、これは」


神官長の顔色が変わる。

正面に根をおろす巨木が、発光し揺れ始めだしたのだ。

神官長は血の気が引いたような表情で叫ぶ。


「誰か止めなさい! 聖女を止めるのです!」


しかし誰も動けず、呆然と見つめているだけだ。

次の瞬間、聖隷樹から再び轟音が響いた。

同時に巨大な光の柱が一際強く輝き、ガラスが砕け散るような乾いた音がすると、幹が剥がれ頭上へと降ってきた。


パキン

パキパキパキッ――


その音は、国中へ響き渡るかという程の激しさで、神官長はその音を聞いた瞬間、膝から崩れ落ちた。


「そんな……」


聖隷樹が崩れていく。

何百年もそこに佇み、国を守ってきて樹が。

歴代神官たちが守り続けた大樹が。

光の中で一つずつ砕け、砂のように崩れ落ちていく。


「何が……」


リーンハルトは呆然と立ち尽くす。

有紗だけが静かに光の中心に立っていた。

風が長い黒髪を揺らす。

純白の聖衣が光を受けて輝き、その姿は何よりも神々しかった。

神官長は震える声で呟く。


「聖力を……限界突破したのですか⋯⋯。何故そんな力が——」


答える者はいない。

有紗はただ静かに立ち両手を掲げたまま、瞳を閉じていた。

やがて最後の光が空へ吸い込まれると、大樹から三度目の轟音が響いた。

その後、静寂がやってくる。


神官長は跪き、震える手で空中に手を伸ばした。


聖隷樹が、崩れ落ちた——

もう二度と、聖隷樹が国の瘴気を浄化することは出来ない。聖女を召喚することもできない。

聖女召喚の礎が、根本から消滅したのだ。


騎士たちも神官たちも、何が起きたのか理解していないながらも、ただならぬ状況に呆然と立ち尽くしている。


歓喜に満ちていた空気は跡形もなく消え失せ、残ったのは理解の追いつかない沈黙だけだった。


その中心で、有紗は表情を消したまま、ゆっくりと両手を降ろすと、深く一礼をした。

そんな彼女の身体を白銀の光が静かに包み込み始める。 

白銀の光は、有紗の足元から幾重もの輪となって広がり、まるで大地がそのものが彼女を大切に包み込むように静かに脈動していた。


誰も理解が追いつかず、ただその光景を見つめていたが、 最初に我へ返ったのは神官長だった。

蒼白になった顔で一歩踏み出し、震える声を張り上げる。


「聖女アリサ……!こちらへ戻るのです!」


返事はなく、有紗は静かに光の中心に立っている。


「聞こえておられるのでしょう!その光から離れるのです……!」


リーンハルトが神官長を見た。


「あの光が何かあるのか」


神官長は苦しげに目を伏せる。


「……帰還魔法、でございます」


その場にいた誰もが息をのむ。

リーンハルトは信じられないものを見るように、有紗へ視線を向ける。


「帰還……?」


「⋯⋯聖隷樹が崩壊し、行き場のなくなった聖力が帰還魔法を練り上げているのです⋯⋯」


有紗は、ようやくゆっくりと瞼を開いた。

しかし、その視線は誰にも向けられていない。

ただ、遥か遠くを見つめている。

リーンハルトは光の中へ一歩踏み出した。


「待ってくれ!」


護衛騎士が慌てて止めようとするが、振り払う。


「アリサ!」


有紗の肩が、ほんの僅かに揺れる。


「行くな!」


リーンハルトの声は切実だった。


「帰らないでくれ!」


もう王太子としてではない。

一人の男として叫んでいた。

それを伝える資格が、自分にはないことも分かっている。

それでも叫ばずにはいられなかった。


「君が必要なんだ!」


有紗は静かに立ったまま動かない。

リーンハルトはさらに一歩踏み出し、手を伸ばす。


「この国には、いや、私には君が――」


そんなリーンハルトに、いつもの春の陽だまりのような柔らかな笑みではなく、どこか物悲しそうに口元が動く。


「ごめんなさい、リーンハルト様⋯⋯」


微かな声が届いた。

その瞬間、光が一気に溢れ、有紗の姿が白銀の中に溶けていく。

艶やかな黒髪を靡かせ、光をまとい、崇高な煌めきを残し、やがて光が小さくなっていった。

それでもリーンハルトは強く手を伸ばした。


「アリサッ!!」


叫びは虚しく木霊し、光が静かに収まっていく。


そこには、もう誰もいない。

風だけが吹いている。

有紗が消えた場所に、純白の花弁が一枚、空からゆっくりと舞い落ちた。

リーンハルトは呆然と立ち尽くしたまま、その花弁を見つめる。


神官長は崩れ落ちるように膝をつき、砕け散った聖隷樹を見つめながら力なく呟く。


「……終わった」


デルヴァール王国は救われた。

しかし、聖隷樹は失われ、聖女も消えた。

その代償はあまりにも大きかった。


リーンハルトはなおも、有紗が立っていた場所から目を離せないでいた。

あの寂しそうな顔が、最後の言葉が心に焼き付く。


『ごめんなさい、リーンハルト様——』


なぜ、君が謝る?

謝るなら私たちだろう?

優し過ぎる君に、限界がくるまで背負わせてしまった。

君一人だけに、この国の全てを——




あの日、有紗が最後の浄化を行ってから、王国はかつてない平和を迎えていた。

人々は語り継ぐ。

この国は、一人の聖女によって救われたのだと。


神殿の崩れ落ちた聖隷樹の跡に小さな石碑が祀られている。その周り一面にはかつて聖女が愛したという花々が咲き誇る。

石碑には文字が一行、彫られていた。


『平穏をもたらした愛しき聖女へ』




有紗が去った翌年、王家は混乱を鎮めるため、予定どおりエレノアとの婚約を正式に発表した、その一年後に二人は盛大な結婚式を行った。

国中の誰もが未来の国王夫妻を祝福した。

リーンハルトは誠実に、王太子妃レオノーラの敬意も、礼節も、何一つ欠かさなかった。

だがその愛だけは、一度も向けられることはなかった。


ある日、レオノーラは庭園で立ち尽くすリーンハルトの背中を見つけた。

その視線の先には、小さな石碑。

リーンハルトが見つめているのは花ではなく、 帰ることのない一人の少女——

レオノーラは大きく息を吐いて目を閉じた。




それから――数十年。

すでに聖女は、歴史書に記される伝説となり、

人々は平和を当たり前と思い始めていた。

国中に広がる聖女が残した花畑、平和にしか見えない景色、その下で世界のほころびが、再び広がり始めていることに、まだ誰も気付いていない。


この国に聖女はもういない。

聖隷樹もない今、再び聖女を召喚することも叶わない。




老いた王は、聖女の庭園を訪れ、石碑にそっと手を添え、小さく微笑んだ。


「アリサ、安心してくれ。この国は私たち自身で守る」


リーンハルトが誰ともなく呟くと、風が鈴蘭を優しく揺らした。

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