前編
眩い白光が視界を埋め尽くした瞬間、有紗は反射的に目を閉じた。
足元から身体を突き上げるような浮遊感に襲われ、重力という当たり前だった感覚が一瞬だけ消え失せると、次の瞬間には乾いた土の感触が靴底を通して伝わる。
ゆっくりと瞼を開けば、少し離れた先に白い法衣を纏った神官たちが跪き、こちらを見つめていた。
見上げれば、そびえ立つ枯れた大木の枝の隙間から、葉昼下がりの陽光がきらめいている。現実離れした光景に、有紗は小さく息を呑んだ。
「……ここはどこ?」
少し前まで、駅から続くいつもの道を歩いていたはずだ。角を曲がり、家から近いコンビニが見えてきたところで白光に包まれ、気がつくとこの場にいた。理解が追いつかない——
恐る恐る口にした問いへ答えたのは、白銀の長髪をなびかせた30代前後の切れ長の目をした神官だった。
「ようこそお越しくださいました、聖女様。ここはデルヴァール王国。我々は長きにわたり、あなた様のお越しを待ち望んでおりました」
深々と頭を下げる姿は気品があり、身を覆う法衣は銀色の刺繍が施され、周りの神官と比べ、彼の位の高さを感じさせた。言葉も丁寧で敬意が滲んでいる。だが、その瞳には探るような色が浮かんでいることを、有紗は何となく感じ取っていた。
見慣れぬ場所、見慣れぬ人間、警戒心を高めながら息をつめていると、その空気を破るように明るい声が響く。
「突然の事で、さぞ驚かれたことだろう。私たちは聖女、あなたを心より歓迎しよう」
柔らかな声とともに一歩前へ進み出たのは、陽光を受けて淡く輝く金髪と透き通るような青い瞳を持った、涼やかな美しさに穏やかな笑みを浮かべた青年だった。
「私はこの国の王太子、リーンハルト・デルヴァールという。聖女様にお越し頂けたこと感謝申し上げる」
恭しく右手の拳を胸に当て有紗へ頭を垂れる。
「⋯⋯デルヴァール王国⋯⋯。あの⋯⋯、聖女、というのは私のことですか?」
率直な疑問にリーンハルトは微笑みを深めた。
「まずはそこからだな。いきなりことで、混乱するのも当然の話だ。どうか肩の力を抜いてほしい。私たちはあなたを害する者ではなく、ずっと待ち望んでいたのだ。まずは場所を移動して説明しようか」
その言葉に、有紗は小さく息を吐く。
知らない世界へ突然連れて来られた不安は消えない。それでも、害意が無いことが分かり、小さな安堵を覚え、張り詰めていた緊張が解けた。
その後、神殿内の貴賓室へ案内された。
おずおずとソファに腰をおろすと、目の前にティーカップが置かれ、すすめられるままに口をつける。暖かい紅茶は、だが味を感じる余裕はなかった。
神官長からの話はこう——
デルヴァール王国では常に瘴気が発生しており、土地も人も蝕んでいくとのこと。聖隷樹と呼ばれる大木が数百年もの間、その瘴気を浄化していたのだが、現在は枯れ果て浄化が出来ないこと。代わりに浄化ができる存在が、異世界から召喚される聖女であること。そして、聖隷樹を通して有紗がその聖女として選ばれたこと——
夢物語のような話だったが、窓の外に広がる景色は見慣れた街並とは全く違う景観で、どうやら本当に異世界に来たことだけは理解した。
「少しずつで構いません。どうか、この世界を救っていただけませんか」
最初に声をかけてきた白銀の髪の神官——、この神殿の最高位である神官長は深々と頭を下げる。
その姿に、有紗は戸惑いを隠せなかった。
漫画やゲームではよくある話、だがこれは現実で、簡単に「はい、そうですか」と受けられる内容ではない。
自分はただの高校生で聖女として国を浄化するとか大層な話は、場違い過ぎる。それより、家に帰りたい⋯⋯
有紗のそんな様子に、今まで神官長が説明をする横で黙っていた王太子リーンハルトが口を開いた。
「聖女様、名前はなんというのかな」
急な質問に、思考が止まる。
「え⋯⋯、あ、はい。有紗、アリサ・サノです」
戸惑うように答えると、
「アリサ、と呼んでもよいだろうか」
尋ねるリーンハルトに小さく頷いた。
「では、私のこともリーンハルトと呼んでほしい」
思わず、勢いよく首を横に振る有紗にリーンハルトが眉尻を下げる。
「困ったな。君とは仲良くしたいと思っているんだ。では、リーンと省略して呼んでくれ。どうかな?」
屈託のない笑顔を見せるリーンハルトの姿に、有紗は少し焦ったような声で訂正する。
「それでは、リ、リーンハルト様で⋯⋯」
「そうか?残念だな。そこは時間をかけておいおい、といったところか」
厳粛なこの空間に場違いな笑い声をあげながら、リーンハルトは跪き、片手を差し出す。
怯えた様子でおずおずと手を出すと、リーンハルトがその手を口元に寄せた。
「聖女アリサ、改めてお願いする。この国の瘴気を浄化するためにお力添え頂きたい」
「⋯⋯瘴気を浄化するとか、まだよく分かりませんが、それが終われば私は元の世界に戻してもらえるのでしょうか」
「そうですね。まずは瘴気を浄化した上で話をすすめましょう」
是とも否とも言わない神官長の言葉に少し引っかかりながらも、有紗はコクンと頷く。
「⋯⋯分かりました。私で出来ることを頑張ります」
その返事を聞いた瞬間、神官長が口元が目に見えて緩んだ。
侍女に連れ出され、応接室を退出する有紗の背が見えなくなると、神官長は残っていたリーンハルトへ笑みをたずさえたまま、声をかける。
「リーンハルト殿下、聖女が力を発揮できるように尽力願いますよ」
淡々と告げる神官長は笑っているが、その心の奥底にひそむものは見えてこないなと考えながら、リーンハルトが頷く。
「もちろんだ。この国の瘴気を無くすことは我々の悲願だからな。見たところ十代半ばで、頼りない気もするが、『聖隷樹』が選んだ聖女だろう。誠意を持って尽くすさ」
「お願いします。『聖隷樹』が選んだ聖女ならば、間違いなく聖力をもって浄化してくれるでしょう」
「ともかく、無事に聖女を召喚出来た。父上に報告しよう」
話は終わったとばかりに、リーンハルトはソファの肘置きに手をかける。
「聖女の浄化無くては、この国の未来は危うい。聖女が気持ちよく浄化に勤しむためにも、出来る限りの事をしないとな」
去っていくリーンハルトを、神官長は感情の伴わない瞳で見つめていた。
現在、この国には幾つかの吹き溜まりがあり、そこから漏れ出る瘴気が蔓延している。
吹き溜まりからスタンピードが起こり、魔物が溢れることもある。
聖隷樹によって浄化されていた瘴気だが、樹の力が衰えると、代々神官長にのみ伝わる召喚魔法により、異世界から聖女を呼び出していた。
当代の神官長である彼のみが知る聖女召喚の方法——
貴賓室の窓から、今は見る影をなくした大木を物憂げに見つめ続けた。
翌日から早速、有紗は浄化の儀式を始めることとなった。
正直、まだこちらの世界に慣れておらず、知り合いもいない中で精神をすり減らしている。
だが、瘴気は溢れ、周りからの期待という名の圧を受け、引き受けることにした。
聖力とは、魔力の一種。この世界では魔法が暮らしの中に溶け込んでいる。
そして、有紗が期待されている聖力は、瘴気を浄化するもので、国でも僅かな人数しかその力を保有していない。
その僅かな一人、神官長が有紗の両手を握り、聖力をゆっくりと彼女に流しこんだ。
有紗は初めての感覚に緊張したが、やがて身体を巡るその力の流れを覚えていった。
最初は聖力の扱いに戸惑いながらも、神官長の指導を受けながら、ある程度慣れてきたところで、『聖隷樹』に聖力を奉納することになった。
「以前は立派に覆い繁っていたのですが、数年前からがこのような状態なのです」
神官長が大木の荒れた木肌を愛おしそうに撫でながら、静かに語る。
「この聖隷樹は我が国の象徴で、もう何百年も前からここに自生しているのです。ずっと瘴気を聖隷樹が浄化して国を守り続けていました」
枯れ果てた聖隷樹を憧憬を含んだ瞳で見上げながら、神官長は目を細めた。
「今では枯れ木のように見えますが、樹の聖力はまだ残っています。ここにあなたの、聖女の力を流すことで『聖隷樹』は力を取り戻すことになるでしょう」
有紗は聖隷樹へと一歩踏み出す。
枯れた聖隷樹は、それでもそこに根をしっかりと降ろし、神聖な気を放っていた。
神官長が言う通り、葉は落ちても、その樹の奥には確かな生命が感じられた。
聖力が樹の根元を、大地を緩やかに巡っている。聖力の流れを学んだばかりの有紗にも、それはしっかりと感じられた。
「聖女アリサ、聖隷樹に聖力を流して下さい。聖隷樹を、この樹を蘇えらせて欲しいのです」
枯れかけた樹を蘇えらせる——その言葉を合図に有紗は瞼を閉じ、身体を巡る気脈を感じるため集中しつつ、両手を大きく掲げた。
最初は何の変化もみられないに思えた。
だが、有紗が聖力を注ぎ続けていくと、微かに聖隷樹の枝の先端が震える。
それに気付き神官長が枝の先を注視していると、揺れた先端周りにポツポツと小さく芽吹き、その芽が少しずつ膨らんでいく。
そして、芽吹きは段々と成長し、真っ白な八重の花が開いていく——
「聖隷樹の花が⋯⋯。まさか、ここまで⋯⋯」
神官長は目を見開いたまま、微動だにしない。いつも冷静沈着な彼には珍しく、口も小さく開けたまま、固まっていた。
また、聖隷樹の奇跡を目の当たりにし、神官たちは涙を流し、護衛の騎士は歓喜の声をあげる。
ある程度、聖力を流したところで、有紗は息を吐き、掲げていた手を降ろした。
聖隷樹の花は数えられる程度のものだったが、歓喜にわく人たちの姿に、自分が役に立っているのだと胸が熱くなる。
「聖隷樹の花が咲くのは、私も初めて見ました⋯⋯。聖女アリサ、あなたをお呼びできたこと、この上ない僥倖です」
いつも冷静沈着な神官長には珍しく頬を上気させ、いつもより饒舌に口を開く。
「各地の浄化はもちろん、国の象徴でもある聖隷樹の復活は我々の悲願です。聖女アリサ、改めてこの国のためにあなたのお力添えをお願いいたします——」
強く真っ直ぐな視線をよこす神官長に戸惑いつつも、周りの熱気におされ、有紗はゆっくりと頷いた。
次の日から有紗は毎日懸命に学び、聖力の循環と流し方を調整し、聖女としての務めを果たそうと努力し続けた。
そんな彼女の姿を、リーンハルトは離れた場所から静かに見守っていた。
「リーンハルト殿下」
そこへ神官長がゆっくりと歩み寄る。
「明日は東部の浄化を予定しております。聖女様のお力であれば問題なく終えられるでしょう」
「予定より早いな。順調にいっているようで何よりだ」
「はい。聖女アリサの力は本物です。努力も怠らない。本当に⋯⋯良き聖女をお迎えできました」
うっとりと微笑む神官長を横目に、リーンハルトは有紗の元へと足を進めた。
視線の先には額に汗を浮かべながらも、小さく笑って「もう一回やってみます」と失敗した浄化をやり直そうとしている有紗の姿がある。
「アリサ、そろそろ休憩しないか。一緒にお茶でも飲もう」
「ありがとうございます。あと少しで成功しそうなんで、これが成功したら休みますね」
「ああ、そうしてくれ。根を詰め過ぎると体力が保たないからな」
「ふふ。リーンハルト様は私に甘いですね。神官長なら休憩している暇があったら聖力の精度を上げなさいと言いそうなのに」
その屈託のない笑顔を見て、リーンハルトは思わず口元が緩む。
「適度の休みも入れないと、身体が資本だからな。倒れてしまったら、元も子もない。聖女の代わりはいないのだから。明日は東部、それが済んだら次は北部へ向かう予定だ。君の力を待ち望む場所は沢山ある。休める時に英気を養うようにしてくれ」
「わかりました、リーンハルト様」
表情を固く引き締めて頷く有紗を見て、罪悪感を覚える自分にリーンハルトは戸惑いを覚えた。
瘴気の吹き溜まりのある土地は、枯れ地や沼地となり、動植物がいなくなる。
そんな土地の地脈に聖力を流しこむことで、穢れを消滅させ、そこに生命が宿る⋯⋯
言われるがままに毎日、浄化を行う日々が続いた。
有紗が土地を浄化すると、みるみるうちによく肥えた柔らかな土へ、そして植物が芽吹き、美しい花が咲きだす。
枯れた森は青々とした緑が繁り、鳥のさえずりが聞こえる。
奇跡のような光景に、聖女の名は王宮だけでなく王都中へ知れ渡っていた。
王宮へ届く報告書には、浄化の成功が次々と記され、神官たちは満足そうに頷きながら、新たな予定を書き加えていく。
その朝も、有紗は神殿の一室で神官長から今日の予定表を受け取っていた。
「本日は北東部の湿原地帯を浄化していただき、その後は領主との面会、王都へ戻られましたら浄化の記録を作成していただきます。夕刻には王宮で晩餐会がございますので、どうかお疲れを見せぬようお願いいたします」
予定表には、細かな時刻まで隙間なく項目が並んでいる。
有紗は苦笑しながら肩をすくめた。
「すごいですね。学校の時間割より細かいかもしれません」
「瘴気は待ってくれませんからね。一日でも早く世界を救うことが、多くの命を守ることへ繋がるのです」
「……そうですよね」
その日の浄化は予想以上に時間が掛かった。
湿原へ染み込んだ瘴気は深く、聖力を何度も練り直さなければならず、浄化を終えた頃には有紗の額には大粒の汗が浮かび、立っているだけでも足元が揺れるほど疲弊していた。
王都へ戻る馬車の中でも、有紗は窓へ寄りかかりながら浅く息を繰り返している。
それを見た随行の神官が、慌てて神官長へ報告した。
「聖女様のお疲れがかなり見えるようです。このままでは晩餐会へのご出席は難しいかもしれません」
神官長は少し考え込むように目を閉じたあと、静かに口を開く。
「晩餐会は欠席して構いません。その代わり、明日の浄化予定は変更できませんので、医師へ診せて十分に休ませてください」
医師が診察を終え、神官長へ頭を下げる。
「魔力の消耗が激しく、最低でも三日は安静にしていただきたい状態です」
神官長は困ったように眉を寄せた。
「三日……ですか」
しばらく沈黙したあと、彼は予定表へ視線を落とした。
「では、東部の浄化を半日に短縮し、西部は来週へ回しましょう。聖女様には明後日から動いていただけますか」
医師は返事に詰まる。
「本来であれば、まだお休みいただきたいところですが……」
「承知しております。しかし瘴気も広がっておりますので、多少の無理は仕方ありません」
そんなやりとりを、診察室の扉を挟んで聞くものがいることに、神官長も医師も気付いてはいなかった。
翌朝、王宮の廊下でリーンハルトと顔を合わせた有紗は、いつも通り笑顔を浮かべて頭を下げる。
「おはようございます」
「昨日は倒れたそうだな。動いても大丈夫なのか?」
「ふふっ。リーンハルト様大げさです。ちょっとフラついただけですよ。早めに休んでかなり良くなりました」
リーンハルトは安心したように頷きながらも、続けて予定表へ目を落とした。
「それなら安心だな。明日は東部、その次は南部を予定している。少し負担は掛けるが、終われば王都周辺の浄化はほぼ完了するから、もう少しだけ、頑張ってほしい」
「分かりました」
有紗は変わらず穏やかに微笑む。
その笑顔を見たリーンハルトは、安心したように目を細める。
その日の夜、有紗は王宮に用意された自室の窓を開け、夜風を浴びながら王都を静かに見下ろしていた。
王宮での生活にも少しずつ慣れ始めたある日の午後、有紗は王太子リーンハルトに伴われ、王族や重臣たちとの茶会へ招かれていた。
磨き上げられた白大理石の床へ陽光が反射し、高い天井から吊るされたシャンデリアが柔らかな輝きを放つ迎賓室には、王国でも指折りの名門貴族たちが集まり、それぞれが優雅に談笑を楽しんでいる。華やかな衣装と宝飾品に囲まれた空間は、日本で暮らしてきた有紗にとって、まるで物語の中へ迷い込んだような世界だった。
「緊張しているのか」
隣を歩くリーンハルトが、小さく声を掛ける。
有紗は苦笑しながら肩をすくめた。
「正直に言うと、かなり緊張しています。浄化をする時よりもドキドキしてるかもしれません」
「安心するといい。今日は君へ感謝を伝えたいという者ばかりだからな」
「それなら安心ですね。リーンハルト様も一緒ですし」
リーンハルトは穏やかに微笑むと、一人の女性のもとへ有紗を案内した。
「紹介するよ。彼女はアルヴェイン公爵家令嬢レオノーラ嬢だ」
淡い金色の髪をゆるやかに結い上げた美しい女性は、立ち上がると優雅に一礼した。
洗練された立ち居振る舞いには少しの隙もなく、輝くような微笑みは見る者を魅了する。
「初めてお目に掛かります、聖女様。お噂はかねがね伺っております。レオノーラと申します」
「アリサ・サノです。こちらこそ、よろしくお願いします」
有紗が慌てて頭を下げると、レオノーラは小さく口元を綻ばせる。
「聖女様は、こちらでの暮らしには慣れましたか」
「まだ分からないことばかりですけど、皆さん親切なので助けてもらっています」
「それは何よりですわ。この国では、聖女様は誰よりも大切なお方ですもの」
「ありがとうございます」
紅茶が運ばれ、三人は窓際の席へ腰を下ろす。
しばらくは世間話をし、有紗も次第に肩の力を抜いていく。その空気を壊さないまま、レオノーラは自然な口調で話題を変えた。
「近頃は毎日のように浄化へ向かわれていると伺いました。お疲れではございませんか」
「少し疲れますけど、大丈夫です。困っている人がいるなら頑張りたいなって思って」
「素晴らしいお考えですわ」
レオノーラは感心したように頷きながら、静かに紅茶を口へ運ぶ。
「殿下も安心なさっていることでしょう。聖女様がお力を尽くしてくださる限り、この国は救われますもの」
その言葉に、リーンハルトも穏やかに頷いた。
「あぁ、アリサには本当に助けられている」
「聖女様の浄化のおかげで皆が安全に暮らせますわ」
2人の言葉に有紗は照れたように微笑えんだ。
「そんなに褒められると恥ずかしいですね」
「褒めているのではありません」
レオノーラは悪意の欠片もない微笑みを浮かべたまま続ける。
「王族には王族の務めがあり、騎士には騎士の務めがあり、私たち貴族にも果たすべき責任があります。そして聖女様には、この世界を瘴気から救うという、誰にも代わることのできない尊いお役目がおありです。自らに与えられた責務を果たしてこそ、国は成り立つものだと私は教えられてまいりました。聖女アリサ様にはご自覚を持って今後も励んでくださいませ」
レオノーラの言葉に、有紗は曖昧に微笑んだ。
茶会が終わり、迎賓室を後にする有紗の背中を見送りながら、レオノーラは静かに微笑む。
「素直なお可愛いらしい方ですわね」
「そうだな。可憐な見た目からは想像出来ないほど努力家で芯もある」
「聖女アリサをこの国へお招きできたことは幸運でした。デルヴァール国はこれで安泰でしょう」
リーンハルトはその言葉に頷きながら、笑みを深めた。
王宮の庭園では色とりどりの花々が風に揺れていた。アリサか召喚される前には見ることのできなかった瑞々しい景色を眺めながら、リーンハルトは花壇の隅にしゃがみ込む有紗の姿を見つけ、庭へ足を向ける。
花壇の前で有紗は、小さく咲いた白いベル型の花の群生をじっと熱心に魅入っており、その姿がリーンハルトの気をひいた。
「その花が気に入ったのか」
穏やかな声を掛けると、有紗はビクッと肩を小さく震わせて振り返り、すぐに照れたような笑みを浮かべた。
「リーンハルト様でしたか。⋯⋯この花、すごく可愛いですね。日本……あ、私のいた国にも似た花が咲いているんですよ。鈴蘭っていうんです。香りもそっくり」
有紗は再び花へ視線を戻した。
「世界は違っても同じような花が咲くんですね。この花もこの世界で健気に咲いているんだなって思うと、なんだか元気をもらえる気がして⋯⋯。あ、これ一輪貰ってもいいですか?」
「⋯⋯確かに、健気で可愛い⋯⋯」
「え?」
「あ、いや。好きなだけ持っていくといい」
近くにいた騎士へ花を掘り上げるよう指示をし、リーンハルトはその目を輝かせて花を眺める有紗のあどけない横顔を見つめていた。
貴族の令嬢であれば、王太子が現れた時点で姿勢を正し、会話の一つ一つに神経を張り巡らせるだろう。だが有紗はそのような打算も媚びもなく、自然体に振舞う姿が新鮮だった。
「小さな花も良いが、豪華な庭園や宮殿に普通は目を奪われるものではないのか?」
何気ないリーンハルトの質問に有紗は眉を下げ困ったように微笑む。
「もちろん王宮もすごいと思います。花は自分の力でこうやって咲き誇っている、どんな花もそれぞれ頑張って咲く姿に惹かれるんです」
飽きもせず、掌中の花を眺める有紗をリーンハルトは静かに見つめていた。
その日はいつもより浄化が順調に進み、聖女一行は予定時刻より早く王都の門を潜った。
戻るなり、有紗は王宮の横に構える神殿へと向かう。
神殿の執務室で机に向かい書類へと目を通していた神官長は、有紗が入室すると穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「聖女アリサ、本日もお疲れ様でございました。西方一帯の瘴気もほぼ浄化されたと報告を受けております。民もさぞ安心したことでしょう」
「ありがとうございます。今日はお聞きしたいことがあるんです」
神官長は穏やかな表情を崩さないまま頷く。
「ええ、私に答えられることでしたら」
有紗は小さく息を吸い込み、神官長の目を真っ直ぐ見つめた。
「私は、この世界を救い終えたら、元の世界へ帰れるのでしょうか」
神官長の笑みはそのままで、けれど、ほんの一瞬だけ瞳の奥が揺らいだように見えた。
それは一瞬で、注意して見ていなければ気付かないほど僅かな変化だった。
「突然このようなことを尋ねて申し訳ありません。でも、私は何も分からないままこちらへ来ました。皆さんよくしてくれますが、私の住む世界はここではありません。家族の元に⋯⋯、元の世界に帰りたいのですっ」
口から言葉を紡げば、抑えていた感情がせきを切ったように溢れ出す。
神官長はゆっくりと近付き、言葉を選ぶように口を開いた。
「どうされました。何かお辛いことでもありましたか?それとも、何か言う者でもおりましたでしょうか?」
「皆さん、よくしてくれます。それでも、私はこの世界の人間ではありません。帰ることが出来るのなら、帰りたいんです。もちろん、浄化の仕事はします。それが終わってからで良いですから、元の世界に帰してください」
「聖女様のお気持ちは理解しております。ですが、今は世界中で瘴気に苦しむ人々がおります。あなたの気持ちが揺らぐと、浄化に影響がでるかもしれない。まずは浄化を行い、今後の事はその後、話し合いましょう」
「……それは、帰れるという答えでしょうか」
「まずは目の前の務めを果たしていただきたいのです。未来を案じるより、今日救える命へ目を向けることこそ、聖女様のお役目ではないでしょうか」
質問と答えが、噛み合っていない——
有紗は目を瞑って、顔を下げる。
「⋯⋯それならひとつだけ教えて下さい。浄化が終わったら私はどうなりますか」
手が震えるのを抑えながら、答えを待つ。
「もちろん、皆が望むべき未来に収まりますよ」
「……分かりました」
部屋を辞した有紗の表情がごっそり抜け落ちていたことに神官長は気付いていなかった。
ある昼下がり、浄化の訓練を行うため有紗は神殿に向かった。神官長から魔力の流れを説明を受け、有紗は慎重に魔法陣へと聖力を注ぎ込む。
しかし、僅かに力の流れを誤った瞬間、魔法陣が淡く揺らぎ、白い光が四方へ弾けた。
神官たちは慌てて距離を取り、場に緊張が走る。
「申し訳ありません」
額へ張り付いた前髪を指先で払いながら、頭を下げる。
「やっぱり簡単にはいきませんね。もう一度やってみます」
そのまま再度、魔法陣へと聖力を流す。何度も失敗を繰り返し、有紗の額からは汗が滲み、そのまま流れ落ちていく。
そんな事など気にもせず、聖力の流れを少しずつ変化させながら力を注ぎ続ける中、身体中の力が抜けて意識が遠のいた。意識が戻ってくると、有紗は背後から抱き抱えられていることに気付いた。
「リーンハルト様⋯⋯?」
「大丈夫か?随分と根を詰めているようにみえるが⋯⋯」
慌てて立ち上がろうとする有紗の身体を何なく抱き上げると、リーンハルトは神官長に視線を流す。神官長が頷くのを確認し、そのまま有紗を抱きかかえた状態で夕焼けが赤く染めた神殿を後にした。
「⋯⋯無理をしているのではないか」
神殿から離れてしばらく経ってから、有紗を抱き上げたまま、リーンハルトが口を開いた。
「確かに今は猶予がある状況ではない。だが、アリサ自身が倒れてしまったら意味はない。神官長には私から声をかけるから⋯⋯」
「そうはいきません。少しでも早く浄化を進めなくては⋯⋯。聖女に代わりはいないのでしょう」
その返事を聞いたリーンハルトは、胸の奥に小さな痛みが走る。
それでも王太子としての責任が、その感情を押し込めた。
「そうだ、アリサ。何か欲しい物はないか?いつも頑張っている君に私から何か贈らせて欲しい」
「そんな、申し訳ないです」
「私が君を喜ばせたいだけなんだ。何かないか。ドレスでもアクセサリーでも、何でも好きな物を言ってほしい」
有紗はそこで少し考える表情をすると、おずおずといった様子で口を開く。
「じゃあ、お言葉に甘えて⋯⋯、歴代の聖女様の記録などありませんか?読んでみたいんです」
「歴代の聖女の記録?それなら、神殿の書物庫に残っているが、それがどうかしたのか?」
「聖力の扱いがもっと上手くなりたいんです。歴代の聖女様の記録に何かヒントがあるかと思って」
「それなら記録もだが、聖女が残した日記が残っている。と言っても、見たこともない文字で書かれているから誰も解読出来ないんだ。だがアリサなら同じ聖女どうし、読めるかもしれないな」
「聖女様の日記⋯⋯」
「聖女の日記があるのは、書物庫の奥にある禁書が置いてあるエリアだ。アリサが行けば解放するように声をかけておこう。日記はちょっと変わった装飾で目立つから、それが目印になっている」
「ありがとうございます、リーンハルト様。何より嬉しいです」
いつになく興奮したように喜ぶ有紗を見つめながら、リーンハルトは少しだけ有紗を抱き上げる腕に力をこめた。
翌日、有紗は浄化の仕事が終わると神殿へと立ち寄り、その足を神殿奥にある書物庫へと進ませた。
礼拝を終えた神官たちの足音も遠ざかったその時間は、まるで建物そのものが深い眠りに落ちたような静寂に包まれている。
そんな中を有紗は口を固く結んだまま足早に歩いていく。
あの日、神官長へ問いかけた言葉が、今でも耳に残っている。あの場では引き下がったものの、有紗は逆にあの対応を見て心を決めた。
書物庫の扉近くの神官に声をかけ、中に入ると思ったより広く、様々な年代の蔵書が並んでいる。だが、それら重厚な本たちには目もくれず、有紗はある物を探していた。
奥まった場所に禁書が並ぶ区画があり、そこへ迷いなく進む。
人が立ち入ることが少ないその場所は、埃混じりの乾いた紙と古いインクの匂いがした。
重厚な書物庫の中でも、一風変わった目立つ装丁の冊子に手を伸ばす。
リーンハルトが言っていた聖女の日記だろう。
その文字は誰も見たことがなく、解読出来ないという⋯⋯
有紗は躊躇なく表紙を開き、最初の一文を読んだ瞬間、息を呑んだ。
『突然、聖女として召喚された』
日本語で書き綴られた文章を見て、震える指でページをめくる。
そこには、異世界へ突然呼ばれた少女の戸惑い、役目を果たそうと努力した日々が滲んだ文字で綴られていた。
『誰一人として、帰還出来た聖女はいない——』
有紗は夢中になって、一冊、また一冊とページをめくる。
次に比較的新しい一冊の薄い帳面を取り出す。
最後の頁だけが、ぽつんと空白だった。
余白の下には、たった一行。
『浄化を終えた聖女は——』
有紗はその文字を読むと涙で目を潤ませ、肩を震わせた。
「そんな⋯⋯」
その小さな呟きだけが、書物庫の静寂へ溶けていった。




