久々に楽しかった
音が、家まで届いた。
パーン、と乾いた一つ。
雷でも、木の裂ける音でも、石の割れる音でもなかった。私はそれを、前世のどこかで知っていた。
ユルダの薬研の縁で、根を潰していた手が止まった。
「行ってよい」
ユルダは振り向かなかった。
「いいのか」
「あれは、お前の方を向いて鳴っとらん」
向いている音と向いていない音を、ユルダは聞き分けるらしい。私はまだ、そこまでは分けられない。
ユルダが手元の布を水に浸し、ちぎって私に握らせた。
「耳に詰めろ。奥までじゃ」
「耳」
「バルドのそばで、あれを聞いておると、耳がいかれる。詰めても、まだ大きい」
私は両手を膝から離した。離した手は、いつもより少し先に動いた。工房の戸は、もう半分くらい許された戸になっていた。半分というのは、入ってよいが触ってはいけない、という意味だった。
*
戸は開いていた。
私は、渡された布を両の耳に詰めた。奥まで押すと、世界が一枚、遠くなった。
パーン、ともう一つ。布越しでも、腹に響いた。
中で、バルドが低い台に向かっていた。台の上に、長い鉄の棒が伏せて固定されている。万力のような留め具で、二か所、噛ませてあった。
私は戸口の内側で止まって、見た。
棒の後ろに、木の台尻。棒の上に、小さい山と、もっと小さい谷。その山と谷を、バルドが目の高さまで顔を下げて覗いていた。
覗いて、指で小さい山をほんの少し回した。
それから棒の後ろを、親指で押した。
パーン!
棒の先の、二歩ほど向こうに立てた板きれが、ぱっと白くささくれた。
私は息を止めかけて、戻した。
止めかけたのは、驚いたからではない。
分かってしまったからだった。
「ライフルやんけ」
*
銃身は、たぶん空っぽではない。内側にゆるい螺旋の溝が一周している。前の世界では旋条やライフリングと呼んだ。弾をまっすぐ飛ばすために回す溝。
銃身の後ろから弾を入れて、後ろを閉じて、後ろで何かが弾けて、その圧で前へ押し出す。
押し出すものは、たぶん真鍮の薬莢に詰めてある。火薬と、底の小さい雷管と、先の弾を、一つにまとめたもの。撃ったら、薬莢だけが後ろから出てくる。煙は出てない。
私はそれを前世で知っていた。
知っていたが、前世でも後の方のライフルだった。火縄でもない。火打ちでもない。前から弾を込めるのでもない。金属薬莢の、後ろ込めの、溝つきの銃身。ずいぶん新しい、19世紀の末期か、20世紀初頭のライフルである。
それが、ここにある。
そして私の鼻は、この長いライフルから何も拾わなかった。
灯りの魔道具からは熱の跡を拾う。結界の輪からは止まった形を拾う。石杭からも薄い線を拾う。
この銃身からは、何も来ない。ただのライフルだった。
つまり、魔法ではない。
*
「立っとれ」
バルドが顔を下げたまま、声を張った。耳を詰めた私に届くよう、いつもの倍は大きい。ここでは、隣にいても、大声でなければ通らない。
「立っている」
「足は」
私は足を見た。半歩、出ていた。戻した。
バルドは銃身の後ろを開け、出てきた空薬莢を、台の脇の浅い皿へ落とした。
ちん、と高い音がした。
それから新しい薬莢を一つ、銃身の後ろへ入れて閉じた。
「やってみるか」
私は顔を上げた。
「いいのか」
「儂のおもちゃじゃ。一度、撃たせてやる」
それは誘いというより、確認だった。私がこれをどう受け取るか、バルドはたぶん確かめようとしていた。
*
私は台の前へ立った。
台の上のライフルは、留め具で固定されたままだった。バルドは外さなかった。
持ち上げようとして、すぐに分かった。長すぎる。重すぎる。私の腕では、肩に当てるどころか、水平に支えることもできない。
「持てない」
「じゃろう。今日は、台に載せたままじゃ」
バルドはライフルを外さず、台ごと、板きれの方へ向きを直した。狙いは、もう、つけてある。
「お前は、引くだけじゃ」
私がやることは、一つだけだった。
引き金に、指を一本かけた。残りは添えるな、とバルドが大声で言った。
これには、止めの点が要らなかった。
引けば鳴る。引かなければ鳴らない。流す量を私が決めるのではない。流すかどうかすら、私が決めるのではなかった。
詰めた分だけ出る。それ以上は出ない。
私は指を引いた。
パーン!
台が、どん、と後ろへ食い込んだ。撥ねた力は、留め具と台が飲んだ。私の身体は、ほとんど動かなかった。耳のすぐ外で空気が一つ割れた。鼻の奥は、何も拾わなかった。割れたのは音だけで、マナは一つも動いていなかった。
二歩先の板きれが、ぱっと白くささくれた。
私はその板を見て、もう一度、自分の中を確かめた。
鎖骨と胸の間は、緩んでいなかった。
私は何も流していなかった。
私は撃った。だが、私は撃っていなかった。
おかしな感じだった。
仕組みは知っていた。映画か何かで、撃つところもいくらでも見た。引き金を引けば弾が出る。板が欠ける。それだけ。
私はいつも流していた。鼻から風を出した時も、豆を飛ばした時も、光を出した時も、私の中の何かが緩んで流れた。緩めれば緩めただけ出た。だから危なかった。
これは、緩めなかった。私の中は、何も減っていなかった。
道具が、外で、全部やった。
*
私は引き金から指を離して、両の耳から布を抜いた。
世界が、どっと戻ってきた。奥で、高い音が細く鳴っていた。
「これは」
私はバルドを見た。
「前の世界の、銃だ」
「ライフルじゃ」
バルドは、当たり前のように、その言葉を使った。
「お前が、そう言った。お前が、作り方を教えた」
「私は、覚えていない」
「お前は覚えとらん。じゃが、これは、お前の知っとるものじゃ」
短い往復で、長い一年がぱきりと省略された。
私の出自の話と同じ構造だった。あの時は半分、私が私に教えた話。今度は半分どころではない。これは全部、私が種を蒔いた。蒔いたことを、私は覚えていない。
鼻に物を入れては出すことばかり考えていた私が、二人に、後装式ライフルの作り方を教えていたらしい。
この世界に、ライフルはないのだという。二人は一年、私の与えた言葉で、これを作り上げたらしい。私が、忘れているだけで。
だが、そう。銃の発展は美しい技術史の一つだ。当然、その美しさを私は語れただろう。
*
ユルダは、いつの間にか戸口の内側にいた。
杓は持っていなかった。代わりに小さい布袋を片手に提げていた。
「鳴っとったの」
台の脇の浅い皿を覗く。撃ち終わった空薬莢が、何本か転がっていた。
「これは」
「薬莢じゃ。撃ったあとの、空薬莢」
「火薬を、ここに」
「火薬は、ここではもう作っとらん。作る時は、囲うた」
「囲う」
「結界でな」
ユルダはバルドを見た。バルドもユルダを見た。
二人の目が、私を経由せずに合った。
そして二人とも、ほんの少しだけ口の端を動かした。
私の初めて見る顔だった。二人が同じ瞬間に、同じ方向へ口の端を動かしていた。
*
「あれは、久々に楽しかったのう」
ユルダが言った。
「楽しかった」
バルドが受けた。
「お前の話を聞いた、次の日からじゃ」
「次の日」
「お前が前の世界の道具の話を、ぺらぺら喋った。儂はその晩、眠れんかった」
「わしも眠れんかった。無煙火薬の話が、頭から離れんでな」
「無煙火薬」
「黒色火薬なら、わしの前から作れた。硝石と硫黄と炭。土を寝かせて灰汁で煮て、すくい取る。薬を作るのと変わらん。お前の話など要らん」
ユルダの声は、そこだけ少し誇らしげだった。
「無煙火薬は、綿を、硝酸と硫酸に漬ける。お前の言うた手順でな」
ユルダは、硫酸、のところで顔をしかめた。
「あれは危ない水じゃった。硫黄と硝石から取って、合わせて、もっと強くする。手に触れれば焼ける。息を吸えば肺がやられる。綿を漬けて、洗って、乾かす。洗いが甘ければ勝手に火が点く」
「それを」
「何度か、吹っ飛ばした」
吹っ飛ばした、を、ユルダは笑うように言った。口の端は動いていない。だが声の上の方が、ほんの少し軽かった。
「最初の大きいやつは」
バルドが言った。
「あれはお前じゃ。儂ではない。お前が留め具を締めすぎた」
「締めすぎてはおらん。火薬が多すぎた」
「火薬は言うた通りに入れた。銃身が細すぎたんじゃ」
「銃身はお前の言う太さに削った。お前の削りが悪い」
「お前の火薬が強すぎた」
私は戸口の内側で、二人のやり取りを聞いていた。
聞きながら、気づいた。これは喧嘩ではない。二人は、どちらがより大きく吹っ飛ばしたかを競っていた。吹っ飛ばした方が、たぶん勝ちだった。
「結界の縁が、二度、焦げた」
バルドが少し得意げに言った。
「焦げたというより、焦げが付いた、じゃな」
ユルダが訂正した。
「結界そのものが焼けたなら、わしらはここにおらん。炭が、面に貼りついただけじゃ」
「二度とも、お前の火薬のせいじゃ」
「二度とも、お前の結界が薄かったせいじゃ。外にもう一枚、張っておかなんだら、わしは、いま、ここにおらん」
そこで、私は、ユルダの手を見た。
左手の指が、何本か、色が違った。生え際の皮膚が、ほかとわずかに違う。数えると、両手で、七本。
「指」
私は言った。
「あぁ。最初の大きいやつで、七本飛んだ」
ユルダは、隠しもしなかった。
「結界は」
「張っとった」
「なら」
「指を出しとった。向こう側で混ぜるには、指が要る」
ユルダは、当たり前のように言った。
「薬師の指は、飛ぶもんじゃ」
私の古傷に「お前じゃ」と返すのと、同じ温度だった。
「魔法で、生やしたのか」
「生やせん。無から物は作れん。肉を食うて、傷を削っては膨らませ、また削っては膨らませ、一週間かけて、戻した」
拷問みたいな手法を、サラッと話す。直した指は、よく見ると色がわずかに違った。
「それからしばらく、細かい仕事ができん。じゃから、酒を蒸した。酒の芽の世話と、蒸留なら、太い指でもできる」
ユルダは、布袋の口を、指でひらいた。
「その濃い酒精で、無煙火薬を湿らせとる。乾くと、勝手に弾けるでな」
危ない火薬を作って指を飛ばし、その治療の片手間に作った酒で、危ない火薬を、大人しくさせている。
輪が、ひとつ、閉じていた。
「想定を、超えたか」
ユルダの口の端が、また動いた。
「超えた」
「それは、よい火薬、ということじゃの」
バルドが黙った。
黙ってから、削った木を撫でる時と同じ手つきで、台の縁を撫でた。
「よい火薬、じゃった」
*
火薬は魔法ではない。ライフルも魔法ではない。撃つのに術はいらない。中身は徹頭徹尾、ただの物理だ。
その、徹頭徹尾ただの物理である道具を作るために、二人は結界を張り、魔道具を組み、魔法を全面に使った。
中身は物理だった。
作業場は魔法だった。
「銃身は儂じゃ」
バルドが言った。
「弾の通る穴を彫る。中のライフリングの溝を切る。後ろから込める仕掛け、撃つ仕掛け、空の薬莢を弾く仕掛け。台尻、狙いの金具、組み上げ。魔道具を作るのと手は同じじゃ。ただ、魔石を入れんだけじゃ」
「魔石を、入れない」
「入れたら、お前の言うライフルではなくなる。入れんことに、意味がある」
「火薬と雷管は、わしじゃ」
ユルダが続けた。横の蓋を開けて、中の真鍮色の小さな雷管を、指の先で一つつまんで見せた。
「雷管がいちばん気難しい。少し触れただけで弾ける。叩けば弾ける。湿れば死ぬ。毒を作るのと、同じ気の遣い方が要った」
つまむ手は震えなかった。その手が、触れれば焼け、吸えば肺をやられる水を、一年扱った。震えずに扱ったのだろう。
「お前は、名前と順番だけ喋った」
ユルダが雷管を蓋へ戻しながら言った。
「名前と順番がいちばん遠い。加減は手を動かせば、いつか届く。じゃが名前と順番は、思いつかんと一生届かん」
*
「これで」
私は台の上の長いライフルを見た。
「強いものも、倒せるのか」
二人の口の端が歪んで上がった。
「人には効く。弱い獣にも、弱い魔物にも効く」
バルドが言った。
「弱い」
私はその言葉に引っかかった。さっき撃った時のことを思い出す。
板きれは欠けた。だが私の鼻は何も拾わなかった。撃った弾は、ただ速いだけだった。マナは一つも乗っていなかった。
だから、すぐに分かった。
「強い魔物は、殺せない」
「分かるか」
「撃った時に、分かった。鼻が静かだった」
弾は速い。だが速いだけだった。固めた身体は、マナで押さなければ緩まない。速いだけのものは、そこに結びつかない。
「威力の問題ではない。種類の問題だ。火薬をもっと強くしても、弾をもっと速くしても、同じだ」
二人は、何も言わなかった。
ユルダが、布袋の上に手を置いた。
「そこまで分かるか」
「お前は」
バルドが言った。
「やはり、教えた本人じゃの」
私は教えた本人だった。教えたことを覚えていないのに、撃てば限界まで分かった。おかしな身体だった。
「じゃが、効かんでよい」
バルドが、布でライフルを拭き始めた。
「効かんで、よいのか」
「玩具じゃからの」
言葉は軽いが、無煙火薬を使ったライフルを玩具と軽く言うこの二人の、存在感がズドンと増した。
やはりこの二人は、たぶん、この世界でもかなりの異常者だ。
*
バルドは拭いたライフルを、台の上へ置いた。
「道具は、外に置く」
バルドが言った。私の方をまっすぐ見ていた。戸口で「足」と言う時の声ではない。低く、短く、奥が固い。
「お前の身体を、道具にするな」
「分かった」
分かった、と言ったが、半分は分かっていなかった。
バルドも、分かってないだろうな、という顔をしていた。
「少なくとも、もっと魔法に熟達し、もっと身体が育ってからやれ」
「よく分かった」
そのライフルは、よくできていた。一年かけて、何度も吹っ飛びながら、二人が詰めた全部が、よくできていた。
よくできていて、美しかった。
だが、この世界の美しさではない。
この世界には、マナと魔法があるのだ。
前の世界で美しかった銃は、前の世界の、ある時代の、物理学の極北だったから美しかったのだ。
この世界の美は、この世界の美であるべきだ。
私の頭で、別の絵がうずいた。
鼻の奥。豆を装填する場所。
鼻孔の縁の、結界。
内と外、止めの点を二つ。
マナ場で、直接押す。
溝は、結界で捩じれば要らない。
薬莢も、火薬も、台尻も、腕も要らない。
一つの身体の中で、全部が完結する。鼻から、豆が飛ぶ。
それは、美しい。
完成図が頭の壁に貼られかけた。線が半分引かれた。
私は止めた。止めの点を先に置いた。外套を見た時と同じやり方だった。形までは追わなかった。
なぜなら、いま目の前で、バルドがわざわざそれを外に置いて見せたからだった。一年かけて。身体の中ではなく、鉄の中に。この小さい私の身体を、道具にしないために。
*
「そろそろ、外へ出る」
ユルダが言った。
「外」
「狩りでも、採集でもの。お前も連れていく」
バルドが、台のおもちゃに手を置いた。
「じゃから、これを調整しとった。じゃが、これはお前には持てん」
バルドは、奥の低い台から、布で巻いた細長いものを取った。巻きを解く。さっきの長いライフルを、そのまま小さくしたものが出てきた。
銃身が短い。台尻も小さい。私の腕の長さに、合わせてあった。
「これは、おまえのだ」
バルドが、私の手に持たせた。
両手で持てた。さっきは持てなかった。これは、持てた。肩に当ててみた。当たった。重い。だが、支えられた。私の身体に合っていた。
「撃ってみて、反動が強すぎたら言え」
バルドが言った。
「薬莢を小さくする。火薬が減れば、反動も減る。お前の肩に合うまで、詰め直す」
道具の方を、私に合わせるという。私が、道具に合わせるのではなく。
「外へ出る時は、これを持て。鳥ぐらいなら落とせる」
*
「戻るぞ」
バルドが、小さいライフルを布へ巻き直し、片手に提げて、戸口の方へ歩き出した。
「ナラム」
「うん」
「次に作る時は」
「次が、あるのか」
「お前が、また何か喋れば、ある」
布の包みが、バルドの手でひとつ揺れた。
「楽しみにしとる」
それはたぶん、バルドが道具ではなく私に向かって、良い、と言った初めての言葉だった。
*
戻る道で、私は二人の少し後ろを歩いた。
バルドが布の包みを片手に、ユルダが薬草の束を片手に提げていた。
二人の歩みは、いつものように、見た目の割に確かすぎた。
私は歩きながら、一つ、おかしなことに気づいていた。
私は崖から落ちる前の暮らしを、ほとんど忘れている。バルドの顔も、ユルダの顔も、私が前の世界の話を得意げに喋ったことも、全部忘れている。
その忘れている時間に、この二人は、私の喋った話を玩具にして、一年遊んでいた。
炉に火を入れ、危ない水を作り、何度も吹っ飛び、煙の出ない薬を詰め、鉄の穴に螺旋を切り。久々に楽しかった、と言うほど。
覚えていない私のために、覚えている誰かが、ずっと手を動かしていた。
私はそれを、なんと呼べばいいのか分からなかった。うまい言葉が、前の世界の語彙にもなかった。
ただ、鎖骨と胸の間が、ふっ、と軽くなった。
軽くなった場所を、私は追わなかった。
追わなかったが、今日は悪くない気がした。
私は頷いた。
頷いた相手は、バルドだった。
それから、もう一人いた。一歳にもならない頃の、よく喋ったらしい私だった。
そいつのことは、何も覚えていない。
だが、そいつが喋った何かが、いま布に包まれて、私の前を揺れて歩いていた。
[久々に楽しかった 了]




