二枚の地図
その朝、三人で谷を出た。
私は小さいライフルを布で巻いて、背に斜めに負っていた。歩くたび、銃身の固いところが背骨の横で一度ずつ揺れた。
少し前まで、私はこれを持ち上げられなかった。長すぎて重すぎた。今のは私の腕に合わせて縮めた方だ。これは持てる。
落差はたぶん私の身体の方にあった。背が伸びたのではない。腕が前より少しだけ、ものを持つことを覚えた。
それだけで私は半歩、外へ出ていた。
「足は」
バルドが前で言った。
私は足を見た。今日は出ていなかった。
「出ていない」
「珍しいの」
ひどい。だが朝が早すぎて、反論にならなかった。
首の豆の小袋が、胸の上で一度揺れた。名の重しだ。鼻に入れる豆ではない、と何度も言われた、あの豆だ。それでも入れた、あの豆だ。今日はそれをちゃんと下げてきた。
*
石杭の列の、いちばん外の一本を外から越えた。
越えた瞬間、空気が一枚めくれた。
家のまわりはいつも薄い膜に包まれている。鼻の奥がその継ぎ目を知っていた。くぐると、向こうの空気は生のままだった。
外のマナは濃かった。
濃いというのは目には映らない。だが鼻の奥にははっきり厚みがある。
朝の冷えた空気に、もう一つ別の冷たさが混じっていた。息で吸う冷たさではない。鼻腔の奥、骨の手前で、薄い銀のようなものがつう、と一筋こちらへ流れてくる。
それがマナ風だった。
マナ風は地形に沿って流れる。窪みに溜まり、尾根で薄くなり、幹の風下で渦を巻く。ふつうの旅人には、ただの朝霧に見えるだろう。
私には、もう一枚の地図に見えた。
濃いところは白く、薄いところは透けて、流れの速いところだけ川のように細く光って通る。
歩いている森は、ただの森だった。湿った葉。太い幹。苔の匂い。上の方で鳴く、知らない鳥。
その森の上に、もう一枚別の地図が重なっていた。
私には、その地図の方が面白かった。
「鼻を入れるな」
ユルダが後ろから言った。
「入れていない」
「入れたい顔じゃ」
「これは見ているだけだ」
「お前の見るは、いつも、もう触っとる」
私は鼻を手前で止めた。奥の溝までは入れなかった。地図は入れなくても見えた。家の中にいた頃より、ずっと広く濃く見えた。
鼻が、育っていた。
かなり変な知見だが、たぶん本当だった。
*
歩くと、足の裏が変わった。
地面の下を、太いものが通っていた。
川ではない。水ではない。鼻の奥のもっと低いところで、ずん、と通っている。前の世界の言葉で何と呼べばいいのか。脈、がいちばん近い。地の底を、濃いマナが一本、定まった向きで流れていた。
その上は濃かった。離れると薄くなった。濃いところを踏むと、足の裏ではなく鼻の奥が少し重くなった。
「下に、太いのがある」
「脈じゃ」
ユルダはそれだけ言った。
「踏んでも、よいのか」
「歩く分には」
私はその脈の上をしばらく歩いた。
足が軽かった。
軽いというより、地面の方が足を少しだけ持ち上げている感じがした。濃いものの上を歩くと楽だった。
「昔の道は、この上に作る」
バルドが言った。
「人の道ではない。流れの道じゃ。この上を歩くと疲れん」
少し行くと、草に埋もれた石がいくつか並んでいた。角の取れた四角い石。誰かがずっと昔、ここに何かを組んだ跡だった。今は草と脈だけが、その上を通っていた。
組んだ者はもういない。組まれた石も半分、土に還っていた。だが脈は、まだその下を流れていた。石より脈の方が長く残るらしかった。
私はその石を踏まないようによけた。よけてから、なぜよけたのか分からなかった。
「ここに、人が住んでいたのか」
「住んどった。ずっと昔じゃ」とバルドが言った。「濃いところは、力が湧く。昔の人間は、力の湧くところに、家やら宮やらを建てたがった」
「いまは、いない」
「いなくなった。力の湧くところには、力の湧くものも来る。濃すぎる場所は、人には長く住めん」
力の湧くところには、力の湧くものも来る。
私はそれを覚えておいた。脈の上の、半分土に還った石が、その掟の古い証だった。住もうとした者はいなくなって、脈だけが残っていた。
*
濃いところで、私は足を速めかけた。
鼻の奥の、いつもの細い線がぶれた。ほんの少し揺れて、にじんだ。
止めてゆっくり歩くと、揺れなかった。速めると揺れた。
身体が、止まっているマナを掻いていた。風のない日でも、走れば顔に風が当たる。あれと同じだ。私が速く動くと、止まっているはずのマナが私のまわりで流れる。流れると線がにじむ。
ゆっくり歩いている分には、まわりのマナは層になって、滑らかに後ろへ抜けていった。揃って流れた。
速めると、その層が崩れた。揃っていたものがばらけて巻いた。巻いたものが鼻の奥でざらついた。
だから私は、層が崩れない速さで歩いた。
上品に、エレガントに、この身に流れる貴種の血に従い、ゆっくり歩いた。
「お前は、なぜそんなにゆっくり歩いとる」
バルドが後ろから言った。
「急ぐと、にじむからだ」
「ほう」
「下が濃いところで速く動くと、鼻の奥が揺れる。揺れたまま何かを描くと、たぶん外れる」
少しして、ユルダが前を向いたまま言った。
「やっぱり、教えるほどでもなかったの」
井戸の水を量る時と同じ温度だった。
私は、知っている者にかける言葉というのを、もう覚えていた。たいてい誉めない。
*
濃さは、なだらかには上がらなかった。
段で上がった。
坂を一つ越えるごとに、鼻の奥が一段重くなった。家のあたりを一とするなら、ここは三か四。家で爪一つ分だったものが、ここでは爪一つのつもりで爪二つ分になりそうだった。
家の目盛りは、ここでは使えなかった。
「ここで魔法を使うと」
私は前を歩くバルドの背に言った。
「使うな」
バルドは振り向かなかった。
「同じ図形を描いても、出る量が違う。ここはお前の家ではない」
それは、私が今、考えていたことだった。濃いところでは、同じだけ緩めても流れる量が増える。私は坂の途中で気づいた。バルドは、私がここへ来る前から知っていた。
私は背のライフルの紐を、肩で少し直した。
ライフルは、濃くても薄くても同じだけしか出ない。詰めた分だけ出て、それ以上は出ない。
家の目盛りが狂うこの土地で、これだけが狂わなかった。
濃いところを歩く荷物としては、たぶんこれがいちばん素直だった。私の中の、いつも緩むところより、ずっと素直だった。
*
陽が森の上へ出た。
光が葉の一枚ずつに当たって、葉が内側からぼうっと点った。
ただ照らされたのではない。葉は、夜のあいだに溜めたものを朝の光で吐いていた。葉の縁から、見えないくらい薄い乳色のものがゆっくり立ちのぼる。
一枚の葉が一晩かけて、ひとつぶ小さいものを作って、朝、それを空へ返している。そういう手つきだった。
私は立ち止まって、鼻でそれを見た。
葉の吐くものは甘くなかった。冷たくて、少し青くて、湿っていた。
「草が、息をしている」
「しとるな」
ユルダは当たり前のように受けた。
「夜に溜めて、朝に出す」
ユルダは腰の籠から、青い葉を一束、手早く摘んで入れた。摘んだとき、葉の縁の乳色がふっ、と一度濃くなって、それから散った。
生きた草を切ると、溜めたものが漏れる。漏れたものはすぐ散る。だから効く草は、生のまま潰す。煮ると効きが落ちる。家の軒下で、ユルダがいつもやっていた。
ここでは、その漏れる瞬間が、目で見えるくらい濃かった。
「濃い土地の草は、よう効く」
ユルダが言った。
「溜めとるからじゃ」
濃いところで採れた草は効きが強い。伝承だと思っていた。私はそれを、鼻で見ていた。
「葉の露は」
私は聞いた。濃い土地の葉の先に、露が光っていた。
「飲むな」
ユルダは即答した。
「綺麗なものほど、先に疑え」
草だけではなかった。
太い木ほど、根の方が濃かった。根が、地の下の脈から濃いものを汲み上げていた。汲み上げたものが幹を通って、葉の先で薄く漏れた。木は、下から吸って上から返す、長い管だった。
家の木にも、たぶんそれはあった。だが家のは薄すぎて見えなかった。ここでは、太い木の根が地の下を汲むのが、鼻の奥ではっきり見えた。
森が、ぜんぶ、飲んで、返していた。脈から吸って、空へ返す。さっき葉が朝に星を返したのも、その大きな出入りの、いちばん端だった。
*
濃いところの生き物は、濃いところの色をしていた。
光の柱の中を、小さい羽虫の群れが上下していた。一匹ずつ、ごく薄い回路を持っていた。あんな小さいものでもマナを掻いていた。掻きながら、上がって下りていた。
目では追えない。鼻で、ぼんやり面として拾った。
きれいだった。
虫が、ではない。虫の群れの、マナの動きの形が、だ。
私はその形を、頭の中に置きそうになった。
置くな、と頭の中の別の場所が止めた。バルドでもユルダでもない。私の中の、止める係が止めた。私の中で、一番働き者の奴だ。これが過労死すると、私も死ぬに違いない。
濃さは、場所によって溜まり方が違った。高い枝の上に、濃いものが溜まっていた。低い窪みには、別の濃さが淀んでいた。濃いところと薄いところのあいだには薄い境があって、その境をマナ風がゆっくり越えていった。
濃い土地には、天気があった。
晴れた空の下で、私の鼻にだけ別の天気が流れていた。高みに溜まり、窪みに淀み、境を風が押していく。雲のない、鼻だけの天気だった。
その天気の中を、一度、濃い塊がゆっくり流れていった。雲の影のような、濃さの塊。高い枝の上を、音もなく渡っていった。塊が通ると、その下の葉が、一瞬だけ乳色を濃く吐いて、また薄くなった。
雨の前に、葉が裏を返すのに似ていた。だが、雨は降らなかった。降ったのは、私の鼻にだけだった。
私はそれをしばらく見ていた。見ているだけで、流していない。流していないのに、鼻の奥が、その塊の通り道を勝手に覚えた。覚える係も、近ごろ働きすぎだった。
「顔」
ユルダが振り向かずに言った。
私は顔を直した。直す前に、自分で直そうとしていた。
それも、だいぶ仕事の増えたところだった。
*
昼が近づいても、道はまだ奥へ続いていた。
濃いところの先に、もっと濃いところがあった。脈は太くなって、行く手の見えないところへ潜っていった。
「今日は、どこまで」
私は聞いた。
「行ける所まで」とバルドが言った。「儂の足が、まだ動くうちにな」
行ける所まで、というのは、たぶん家からいちばん遠いところ、という意味だった。この老人たちは、ちょこちょこと自分達が老いて死に向かっているような伏線を敷くが、この2年で私が観測した彼らの老いは、私の知る老いではなかった。バルドの足は、私が崖ダイブをやったときから、単位原器として正確性に誤差がない。そんな人間の足が、10年やそこらで動かなくなる気はしなかった。
私は背のライフルを、片手で支え直した。
撃つ機会は、まだなかった。撃つものに、まだ会っていない。会わないうちは、これはただの重い荷物だった。
重い荷物を背負って、私は濃くなる方へ歩いた。
鼻の奥の地図は、奥へ行くほど白く、濃く、忙しくなった。葉が息をして、虫が回って、脈が潜って、天気が境を越えていった。ぜんぶ動いていた。濃いところは、忙しいほど動いていた。
その忙しさの、もっと奥に、一つだけ動かないものがあった。
形にはならなかった。遠かった。鼻の奥の、いちばん奥の、そのまた向こうに、大きいものが一つ、ただ在った。
私はそれを追わなかった。
遠かったし、まだ追える形をしていなかった。
ただ、濃くなる方へ歩いた。
首の豆が、胸の上でまた一度揺れた。
豆は家の豆だった。薄くて軽い、鼻に入れる豆ではない方の豆だ。この濃い土地の、どの草より、どの虫より軽かった。
軽いのに、私はそれが首にあることを、ずっと感じていた。
[二枚の地図 了]




