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鼻豆転生 ~最強への第一歩は、鼻に豆を入れないことでした~  作者: 明日茂昇
六人の巫女

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11/15

マナが、降っている

日が傾いた。


濃いところを半日歩いた。鼻の奥の地図は、もう家の何倍も広かった。広すぎて、端が見えなかった。


「今日は、ここまでじゃ」


バルドが、低い岩の陰で足を止めた。


帰るには遠かった。来た道を10バルドマイル、つまり10,000バルドフィートだ。家へ着く前に、日が暮れる。幼児の足では、1bmiでも遠い。


「戻らないのか」


「戻らん。今日は、外で寝る」


外で寝るのは、初めてだった。


私は少し身構えた。身構えたのは頭ではない。身体の方だった。この身体はたぶん、外でも柔らかい寝床を、どこかで覚えていた。覚えていないはずの私が、硬い地面を嫌がっていた。


           *


バルドが、岩の陰の平らなところを選んだ。脈の上ではない。少し外したところだった。


「脈の上は、寝るには濃すぎる」とバルドが言った。「濃いところは、いいものも悪いものも寄る」


バルドは、短い石杭を四方に四本、突き立てた。家の杭より細い。持ち運べる方の杭だった。突き立てると、空気がほんの少し内側へ寄って、四本のあいだに、家よりずっと薄い膜がかかった。


私はその膜を、鼻で確かめた。家のより頼りなかった。


「これで足りるのか」


「足りん。だが、ないよりはましじゃ」


バルドは、火を小さくしか焚かなかった。


「大きいと、来る」


来る、が何かは言わなかった。たぶん、言うほどのことでもなかった。特定できない何かが、その時々で違う何かが、来るのだろう。この簡易的だという結界では、心もとないなにかが。


ユルダが布の包みを開けた。固いパンと、乾いた肉。肉には黒い練り物が塗ってあった。


私はその匂いで顔をしかめた。


「臭い」


「臭い」


ユルダは否定しなかった。


「虫が嫌う。獣も嫌う。魔物も少しは嫌う」


「人も嫌う」


「人がいちばん嫌う。それでも塗る。先に食われるよりは、ましじゃ」


たいへん合理的だった。


肉の黒いところを、ユルダが刃で削った。削っても臭かった。食べると、もっと臭かった。


固いパンは、奥歯で割った。


奥歯で何かを割るのは、好きだった。前の世界でも、よく割っていた。ピスタチオ。鉛筆。蟹の鋏。乾燥大豆。ポップ前ポップコーン。割れるかどうかを確かめたいだけで、割ってはいけないと言われたものまで割った。世界一硬い食べ物とされる鰹節に挑戦して、負けたことがある。あれは、人の食べ物ではなかった。多分、ホッキョクグマとかが保存食として作るものだ。


今の奥歯は、欠けていない。


固いパンと、臭い肉。それが夕飯の全部だった。前の世界の私なら、たぶん文句を言った。


だが、いまの私は、臭い肉を奥歯で噛んで、飲み込んだ。


           *


火が小さくなった。


バルドが先に寝た。寝るのが速かった。横になって、すぐいびきをかいた。いびきでよってくるものなど、私たちを害することはできないのだろう。


ユルダは座ったまま、目を半分閉じていた。寝ているのか起きているのか、分からなかった。たぶん、どちらでもあった。


私はなかなか寝つけなかった。


地面が硬かった。それもある。だがそれより、鼻の奥が冴えていた。


昼の高マナ地は忙しかった。葉が息をして、虫が回って、天気が動いていた。


夜は違った。


夜は静かだった。葉は息をしまっていた。虫は回るのをやめていた。昼のあいだ、あんなに動いていたものが、夜はみな止まって、ただ濃いだけになっていた。


止まっているのに、濃い。


動かないマナが、私のまわりに薄く満ちて、ただ在った。私が息をするたび、ほんの少し私の方へ寄ってくる気がした。寄ってきて、また戻る。


一度、薄い膜の外を、何かが通った。鼻の奥で、小さい点が、膜をなぞって、離れた。バルドのいびきは止まらなかった。ユルダの息も変わらなかった。二人が動かないなら、害のないものだった。私は、動く係ではない。気づく係だった。気づいて、二人が動かないのを確かめて、また目を閉じた。


昼は、掻かないと見えなかった。夜は、放っておいても満ちてきた。


私はそれを鼻で感じながら、目を閉じた。


バルドのいびきと、満ちてくる夜のマナの中で、私はいつのまにか寝た。


           *


夜中に、一度、目が覚めた。


ユルダが、私の水筒を振っていた。


中で小さいものが、からから鳴った。砕いた核の欠片だった。家の甕の底にあるのと、同じものだ。小さくして、水筒に沈めてある。


「色が、変わった」


ユルダが欠片を一つ取り替えた。古い方は布に包んで、別の袋へ。新しい方を、水筒に落とした。


「悪いものを引き寄せて、沈める。色が変われば、替える」


家で、いつもやっていることだった。甕でやっていたことを、ユルダは外でも、水筒でやっていた。家の水甕を小さくして、持って歩いていた。


「外の水は、飲めないのか」


「飲める。じゃが飲めば治療せんといかん」


それは、飲めん、ということだと思う。


私はまた寝た。


           *


次に目が覚めたのは、夜明けの前だった。


空が、降っていた。


雨ではない。


空は晴れていた。星も、まだ出ていた。だがその光の中を、ごく細かい白っぽいものが、ゆっくり落ちていた。


目を凝らすと、消えた。見ないでいると、視界の端で、たしかに落ちていた。雪ではない。埃でもない。落ちているのに、地面に積もらなかった。地面の手前で消えるか、また上がっていった。


鼻では、もっとはっきりしていた。


高いところが濃く、低いところが薄かった。濃いところから薄いところへ、その白っぽいものがゆっくり沈んでいく。沈みながら薄まる。薄まりきると消える。そしてどこか上の方で、また濃くなって、また降ってくる。


降って、薄まって、また昇って、また降る。


誰が回しているのでもなかった。ただ濃さの差があるだけで、ひとりでに回っていた。


「マナが、降っている」


私は小さく言った。


誰も答えなかった。バルドはまだいびきをかいていた。ユルダは目を閉じていた。だから、私が答えた。


前の世界に、こういう言葉があった。雨。露。霧。対流。


どれも少しずつ違った。


これはたぶん、この世界の、マナの雨だ。


これはたぶん、この世界の言葉で呼ぶべきものだった。私はそれを知らなかった。


知らないまま、私はそれを綺麗だと思った。


           *


白いものが降る中を、一羽、鳥が横切った。


高いところだった。


大きい鳥だった。翼が長く、首が前に出て、尾が後ろに伸びていた。鳥にしては、翼をほとんど動かさない。降ってくる白いものの中を、ゆっくり滑っていた。


—ケツァルコアトルスやんけ


ケツァルの翼の付け根には、輪が浮いていた。


虫の幾何より、ずっと大きく、ずっと複雑だった。輪が一つではない。いくつもの輪が、互いに角度を変えて組み合わさっていた。ケツァルが翼を一度傾けると、その組み合わさった輪が、まとめて回った。回ると、翼の下の降ってくるものが薄く伸びて、鳥を押し上げた。


鳥は、その押し上げに乗って、羽ばたかずに昇っていった。


私はその輪の組み合わせを、目で追った。


追っているうちに、おかしなことが起きた。


胸の少し下。鎖骨と胸の間の、いつも緩むところが、私に断りもなく、ふっ、と軽くなった。


軽くなった場所が、鳥の輪に合わせて、何かを置こうとした。鳥が翼を傾けると、私の中の何かも、同じ向きへ傾こうとした。


私は何も描いていない。何も流していない。


だが私の身体のどこかが、あの輪の組み合わせを、勝手になぞり始めていた。


なぞれる、ということは、たぶん、私はこれを知っている。


私はそこに、継母、あるいは乳母を見たのだと思う。あれが、私を育てたという個体と同一かはわからないが、そんな気がした。


頭は覚えていない。だが、身体が覚えていた。


崖から落ちる前の私は、たぶん、この匂いの中で、しばらく生きていた。乳をもらっていた。誰かと、一緒に。その誰かがいたのかどうかも、いまは思い出せない。


思い出せないのに、鼻の奥のいちばん古いところだけが、ケツァ母さんを知っていた。


頭が一、身体が九で、私はそれを知っていた。


           *


ケツァ母さんが、もう一度、翼を傾けた。


その時、風がこちらへ流れた。


匂いがした。


温かくて、乳のような、知らない匂いだった。


知らないはずなのに、鼻の奥のいちばん古いところが、その匂いを勝手になぞった。なぞって、首の付け根が、ほんの少し、鳥の方へ向こうとした。


行きたい、と身体が言った。


頭ではない。身体のいちばん奥の、私の知らないところが、その匂いの方へ行きたがった。懐かしい、に近い形だった。


あれを追うのは、たぶん悪い。


私は止めの点を、先に置いた。


なぞりかけた輪を、消そうとしたが、消えなかった。


           *


ケツァ母さんは、白いものの中に紛れて、見えなくなった。


匂いも、薄れて消えた。


空の白いものは、夜明けの光が強くなると、見えなくなった。降るのをやめたのか、見えなくなっただけか、私には分からなかった。


バルドのいびきが、止まった。


「起きとるか」


「起きている」


「何か、見たか」


私は少し考えた。


マナが降っていた。ケツァルコアトルスが輪を回して、昇っていた。私の身体が、その輪を勝手になぞった。温かい乳の匂いがした。


どれも、うまく言えなかった。


「ケツァルコアトルスが飛んでいた」


私は言った。


「コウノトリか」


「羽ばたかずに、昇っていった」


バルドは、少しのあいだ黙った。


それから起き上がって、火の消えた跡を、足で軽く均した。


「あれには、近づくな」


鳥のことか、乳のことか、私のなぞりかけたもののことか、分からなかった。


たぶん、全部だった。


私は、胸の少し下の、まだ消えていないなぞりかけの線を、そっとしておいた。


消えないものは、しまっておく。家の、置いておく方の場所へ。


そこには、もう、いくつかしまってあった。深い緑の草の、漏れる速さ。羽虫の群れの、形。そして今、ひとつ増えた。


羽ばたかずに昇る、輪の形だった。


[マナが、降っている 了]


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