マナが、降っている
日が傾いた。
濃いところを半日歩いた。鼻の奥の地図は、もう家の何倍も広かった。広すぎて、端が見えなかった。
「今日は、ここまでじゃ」
バルドが、低い岩の陰で足を止めた。
帰るには遠かった。来た道を10バルドマイル、つまり10,000バルドフィートだ。家へ着く前に、日が暮れる。幼児の足では、1bmiでも遠い。
「戻らないのか」
「戻らん。今日は、外で寝る」
外で寝るのは、初めてだった。
私は少し身構えた。身構えたのは頭ではない。身体の方だった。この身体はたぶん、外でも柔らかい寝床を、どこかで覚えていた。覚えていないはずの私が、硬い地面を嫌がっていた。
*
バルドが、岩の陰の平らなところを選んだ。脈の上ではない。少し外したところだった。
「脈の上は、寝るには濃すぎる」とバルドが言った。「濃いところは、いいものも悪いものも寄る」
バルドは、短い石杭を四方に四本、突き立てた。家の杭より細い。持ち運べる方の杭だった。突き立てると、空気がほんの少し内側へ寄って、四本のあいだに、家よりずっと薄い膜がかかった。
私はその膜を、鼻で確かめた。家のより頼りなかった。
「これで足りるのか」
「足りん。だが、ないよりはましじゃ」
バルドは、火を小さくしか焚かなかった。
「大きいと、来る」
来る、が何かは言わなかった。たぶん、言うほどのことでもなかった。特定できない何かが、その時々で違う何かが、来るのだろう。この簡易的だという結界では、心もとないなにかが。
ユルダが布の包みを開けた。固いパンと、乾いた肉。肉には黒い練り物が塗ってあった。
私はその匂いで顔をしかめた。
「臭い」
「臭い」
ユルダは否定しなかった。
「虫が嫌う。獣も嫌う。魔物も少しは嫌う」
「人も嫌う」
「人がいちばん嫌う。それでも塗る。先に食われるよりは、ましじゃ」
たいへん合理的だった。
肉の黒いところを、ユルダが刃で削った。削っても臭かった。食べると、もっと臭かった。
固いパンは、奥歯で割った。
奥歯で何かを割るのは、好きだった。前の世界でも、よく割っていた。ピスタチオ。鉛筆。蟹の鋏。乾燥大豆。ポップ前ポップコーン。割れるかどうかを確かめたいだけで、割ってはいけないと言われたものまで割った。世界一硬い食べ物とされる鰹節に挑戦して、負けたことがある。あれは、人の食べ物ではなかった。多分、ホッキョクグマとかが保存食として作るものだ。
今の奥歯は、欠けていない。
固いパンと、臭い肉。それが夕飯の全部だった。前の世界の私なら、たぶん文句を言った。
だが、いまの私は、臭い肉を奥歯で噛んで、飲み込んだ。
*
火が小さくなった。
バルドが先に寝た。寝るのが速かった。横になって、すぐいびきをかいた。いびきでよってくるものなど、私たちを害することはできないのだろう。
ユルダは座ったまま、目を半分閉じていた。寝ているのか起きているのか、分からなかった。たぶん、どちらでもあった。
私はなかなか寝つけなかった。
地面が硬かった。それもある。だがそれより、鼻の奥が冴えていた。
昼の高マナ地は忙しかった。葉が息をして、虫が回って、天気が動いていた。
夜は違った。
夜は静かだった。葉は息をしまっていた。虫は回るのをやめていた。昼のあいだ、あんなに動いていたものが、夜はみな止まって、ただ濃いだけになっていた。
止まっているのに、濃い。
動かないマナが、私のまわりに薄く満ちて、ただ在った。私が息をするたび、ほんの少し私の方へ寄ってくる気がした。寄ってきて、また戻る。
一度、薄い膜の外を、何かが通った。鼻の奥で、小さい点が、膜をなぞって、離れた。バルドのいびきは止まらなかった。ユルダの息も変わらなかった。二人が動かないなら、害のないものだった。私は、動く係ではない。気づく係だった。気づいて、二人が動かないのを確かめて、また目を閉じた。
昼は、掻かないと見えなかった。夜は、放っておいても満ちてきた。
私はそれを鼻で感じながら、目を閉じた。
バルドのいびきと、満ちてくる夜のマナの中で、私はいつのまにか寝た。
*
夜中に、一度、目が覚めた。
ユルダが、私の水筒を振っていた。
中で小さいものが、からから鳴った。砕いた核の欠片だった。家の甕の底にあるのと、同じものだ。小さくして、水筒に沈めてある。
「色が、変わった」
ユルダが欠片を一つ取り替えた。古い方は布に包んで、別の袋へ。新しい方を、水筒に落とした。
「悪いものを引き寄せて、沈める。色が変われば、替える」
家で、いつもやっていることだった。甕でやっていたことを、ユルダは外でも、水筒でやっていた。家の水甕を小さくして、持って歩いていた。
「外の水は、飲めないのか」
「飲める。じゃが飲めば治療せんといかん」
それは、飲めん、ということだと思う。
私はまた寝た。
*
次に目が覚めたのは、夜明けの前だった。
空が、降っていた。
雨ではない。
空は晴れていた。星も、まだ出ていた。だがその光の中を、ごく細かい白っぽいものが、ゆっくり落ちていた。
目を凝らすと、消えた。見ないでいると、視界の端で、たしかに落ちていた。雪ではない。埃でもない。落ちているのに、地面に積もらなかった。地面の手前で消えるか、また上がっていった。
鼻では、もっとはっきりしていた。
高いところが濃く、低いところが薄かった。濃いところから薄いところへ、その白っぽいものがゆっくり沈んでいく。沈みながら薄まる。薄まりきると消える。そしてどこか上の方で、また濃くなって、また降ってくる。
降って、薄まって、また昇って、また降る。
誰が回しているのでもなかった。ただ濃さの差があるだけで、ひとりでに回っていた。
「マナが、降っている」
私は小さく言った。
誰も答えなかった。バルドはまだいびきをかいていた。ユルダは目を閉じていた。だから、私が答えた。
前の世界に、こういう言葉があった。雨。露。霧。対流。
どれも少しずつ違った。
これはたぶん、この世界の、マナの雨だ。
これはたぶん、この世界の言葉で呼ぶべきものだった。私はそれを知らなかった。
知らないまま、私はそれを綺麗だと思った。
*
白いものが降る中を、一羽、鳥が横切った。
高いところだった。
大きい鳥だった。翼が長く、首が前に出て、尾が後ろに伸びていた。鳥にしては、翼をほとんど動かさない。降ってくる白いものの中を、ゆっくり滑っていた。
—ケツァルコアトルスやんけ
ケツァルの翼の付け根には、輪が浮いていた。
虫の幾何より、ずっと大きく、ずっと複雑だった。輪が一つではない。いくつもの輪が、互いに角度を変えて組み合わさっていた。ケツァルが翼を一度傾けると、その組み合わさった輪が、まとめて回った。回ると、翼の下の降ってくるものが薄く伸びて、鳥を押し上げた。
鳥は、その押し上げに乗って、羽ばたかずに昇っていった。
私はその輪の組み合わせを、目で追った。
追っているうちに、おかしなことが起きた。
胸の少し下。鎖骨と胸の間の、いつも緩むところが、私に断りもなく、ふっ、と軽くなった。
軽くなった場所が、鳥の輪に合わせて、何かを置こうとした。鳥が翼を傾けると、私の中の何かも、同じ向きへ傾こうとした。
私は何も描いていない。何も流していない。
だが私の身体のどこかが、あの輪の組み合わせを、勝手になぞり始めていた。
なぞれる、ということは、たぶん、私はこれを知っている。
私はそこに、継母、あるいは乳母を見たのだと思う。あれが、私を育てたという個体と同一かはわからないが、そんな気がした。
頭は覚えていない。だが、身体が覚えていた。
崖から落ちる前の私は、たぶん、この匂いの中で、しばらく生きていた。乳をもらっていた。誰かと、一緒に。その誰かがいたのかどうかも、いまは思い出せない。
思い出せないのに、鼻の奥のいちばん古いところだけが、ケツァ母さんを知っていた。
頭が一、身体が九で、私はそれを知っていた。
*
ケツァ母さんが、もう一度、翼を傾けた。
その時、風がこちらへ流れた。
匂いがした。
温かくて、乳のような、知らない匂いだった。
知らないはずなのに、鼻の奥のいちばん古いところが、その匂いを勝手になぞった。なぞって、首の付け根が、ほんの少し、鳥の方へ向こうとした。
行きたい、と身体が言った。
頭ではない。身体のいちばん奥の、私の知らないところが、その匂いの方へ行きたがった。懐かしい、に近い形だった。
あれを追うのは、たぶん悪い。
私は止めの点を、先に置いた。
なぞりかけた輪を、消そうとしたが、消えなかった。
*
ケツァ母さんは、白いものの中に紛れて、見えなくなった。
匂いも、薄れて消えた。
空の白いものは、夜明けの光が強くなると、見えなくなった。降るのをやめたのか、見えなくなっただけか、私には分からなかった。
バルドのいびきが、止まった。
「起きとるか」
「起きている」
「何か、見たか」
私は少し考えた。
マナが降っていた。ケツァルコアトルスが輪を回して、昇っていた。私の身体が、その輪を勝手になぞった。温かい乳の匂いがした。
どれも、うまく言えなかった。
「ケツァルコアトルスが飛んでいた」
私は言った。
「コウノトリか」
「羽ばたかずに、昇っていった」
バルドは、少しのあいだ黙った。
それから起き上がって、火の消えた跡を、足で軽く均した。
「あれには、近づくな」
鳥のことか、乳のことか、私のなぞりかけたもののことか、分からなかった。
たぶん、全部だった。
私は、胸の少し下の、まだ消えていないなぞりかけの線を、そっとしておいた。
消えないものは、しまっておく。家の、置いておく方の場所へ。
そこには、もう、いくつかしまってあった。深い緑の草の、漏れる速さ。羽虫の群れの、形。そして今、ひとつ増えた。
羽ばたかずに昇る、輪の形だった。
[マナが、降っている 了]




