白い花
火の跡は、夜のうちに冷えていた。ユルダが布の包みを結び直した。野営をたたむのは早かった。来た時より荷物は軽くなっていた。固いパンと臭い肉が、私たちの腹に移っただけだった。
私は背のライフルを掛け直した。一晩、地面に置いていた。撃っていないのに、夜露で少し湿っていた。
「もっと、奥か」
私は聞いた。
「もう少し行く」とバルドが言った。「行ける所まで、と言うたじゃろ」
もっと奥は、もっと濃かった。
*
濃いところの生き物は、濃いところの暮らしをしていた。
木の幹に苔が生えていた。家の苔より厚く青かった。その苔の中で、小さい光がいくつも点いていた。蛍ではない。虫でもない。苔そのものが、溜めたマナをほんの少しずつ光に変えて漏らしていた。
「光っている」
「光る苔じゃ」とユルダが言った。「踏むな。滑る」
きれいなものは、たいてい滑る。家の黒い苔もそうだった。きれいで、滑って、滑った先が悪い。
濃いところでは、生き物がみな、マナを溜めて、使って、漏らしていた。草は夜に溜めて朝に返す。苔は溜めて光に変える。虫は溜めて飛ぶ。
溜めて、何に使うか。それだけで生き物の形が変わるらしかった。
獣も同じだった。
草を食う獣は中くらい溜める。獣を食う獣はもっと溜める。溜めたものが多いほど、鼻の奥で濃く見えた。いちばん濃いものを食う、いちばん濃いものが、たぶんどこかにいる。食う方が、食われる方より濃くなる。濃さは下から上へ、移っていく。
私はそこまで考えて、止めた。
考えると面白い。面白いと進ませたくなる。進ませると、たぶん悪い。止める係が、また一つ仕事をした。
*
低い茂みの陰で、ユルダの足が止まった。
私の鼻より、ユルダの足の方が早かった。
少しして、私の鼻も追いついた。
茂みの向こうに、獣がいた。
四つ足の、灰色の獣だった。家のあたりの獣より毛が長い。背の毛の下に、薄い回路が一枚、被さっていた。固い回路ではない。緩くて、薄くて、揺れていた。濃いところで身を守るための、小さい仕掛けだった。
「魔物じゃ」とバルドが低く言った。「弱い。皮がちょっと固いだけの、弱いのじゃ」
「撃ってよい」とユルダが言った。
私は布を解いた。小さいライフルが手に渡った。
ユルダが、濡らした布を私の耳に詰めた。世界が一枚、遠くなった。
肩に当てた。重い。だが支えられた。バルドが横から、台尻の当て方を手で直した。
「足を開け。撥ねる」
私は足を開いた。
開きながら、片足がわずかに外を向いた。崩したのではない。構えの形が、私の知らないところで、少しだけ整っていた。この身体はたぶん、もの覚えが、私より良い。頭は覚えていないのに、足が勝手に開き方を知っていた。
おかしな身体だ。
私は灰色の獣の、肩の後ろへ銃身の先を向けた。獣はまだ気づいていない。
息を止めようとして、止めるな、と思い出して、止めなかった。
引いた。
パーン!
布越しでも、腹に来た。
肩へ、後ろから太い手で一発、突かれた。撥ねる、はこれだった。私の身体は半歩、後ろへずれた。足を開いていたから、倒れなかった。
獣が横へ倒れた。一度、脚が跳ねて、止まった。
皮の上の薄い回路が、ふっと消えた。生き物が死ぬと、溜めたものが漏れる。漏れて、散る。鼻の奥で、その散るのを薄く拾った。
私は撃った。獣は死んだ。
もう一度、自分の中を確かめた。鎖骨と胸の間は、緩んでいなかった。私は何も流していなかった。
弾が速かっただけだ。速い金物が、薄い回路を貫いて向こうへ抜けた。私の中の何かが緩んで流れた、というのはなかった。
道具が、外で、全部やった。
ただ、肩が痛かった。
撥ねた力は、台も留め具も飲んでくれなかった。今日はいつもの的じゃない。その痛みが、流れたものの代わりだった。
撃ったのは道具で、痛いのは私だった。
おかしな配分だ、とまた思った。だがその配分の中で、肩の痛みだけが、今日、狩りに参加していた。残りの私は、見ていただけだった。
*
耳の布を抜いた。
世界が、どっと戻ってきた。奥で、高い音が細く鳴っていた。
戻ってきた世界が、変だった。
撃つ前と、違っていた。
撃つ前は、茂みの向こうの開けたところに、白い花が咲いていた。さっきまで開いていた。私が撃った時には、もう見ていなかった。だが、たしかに開いていたはずだ。
その花が、いま、ぜんぶ閉じていた。
一斉に、だった。
風はなかった。誰も触っていない。だがパーンの後で、花はぜんぶ、口を閉じていた。
花だけではなかった。
光る苔の光が、一度ぱっと消えて、また薄く点いた。木の枝のあいだを、見えない何かが、三つ、四つ、逃げた。枝はほとんど揺れなかった。だが、枝のあいだに張っていた細いマナの線が、ぷつ、ぷつ、と切れて、別の枝へ逃げていった。
鼻の奥の地図が、撃った場所を中心に、波を打って外へ広がっていた。
私は、それを見ていた。
火薬は魔法ではない。弾も魔法ではない。撃つのに術はいらない。中身はただの物理だ。
その、魔法でないものが出した音が、いちばん広く、この土地に触っていた。
葉が息をするのも、虫が回るのも、苔が光るのも、ぜんぶ静かな出来事だった。マナでできた、静かな天気だった。そこへ、魔法でない音が一つ落ちた。落ちた音が、いちばん大きく、いちばん広く、マナの天気を揺らした。
魔法でないものが、魔法の土地をいちばん広く触る。
私はそれを、少し面白いと思った。
思ったが、顔には出さなかった。出すと、顔と言われる。
「いま、何か思ったな」
バルドが、私を見ていた。
「音は、魔法ではないのに、よく触る、と思った」
「思っただけなら、よい」
「少し、試したい」
「言うたので、よくない。勝手に試さんかったのは、よい」
ユルダが横から言った。井戸の水を量る時と同じ温度だった。
*
バルドが、獣を慣れた手つきで検めた。皮を刃で少しめくる。
「核は小さい。水に使う。皮が使える」
要る時にどれが要るかは、その時にしか分からん、と言った人が、迷わず皮を選んだ。頭蓋骨を皮から引き剥がし、皮以外の頭部を落とす。腹を引き裂き、手早く内臓を捨てた。
「臓物はすぐ腐り、周りの肉も腐らせる。管を傷つけんように肉から外す。飲める水場が近くにあり、その場で食べるなら、手間をかけて食うこともある。じゃが、この辺の水は駄目じゃ。あと、頭は重い」
バルドが要点しか話さないときは、大事なことを教えるときだ。私も、心のなかで復唱する。消化器官を傷つけると、上の方では消化液などが、下の方だと排泄物が、肉を汚染するのだろう。水が駄目なのは、ユルダを見ていればわかる。沸かす水も、いつも処理後の水だ。熱でどうにかなるものではないのだろう。
ユルダが、獣を運べる形にした。脚を畳んで、紐で縛る。ひと巻きで荷物になった。さっきまで、走るための回路を薄く回していたものが、もう、ただの荷物だった。
私は、その荷物を見た。
殺すというのは、回しているものを止めることらしかった。止めると、溜めていたものが漏れて、散って、戻らない。荷物になる。
前の世界の言葉で、何と呼べばいいのか。私は知っていたはずだ。だがここでそれを言うと、たぶん外れる。前の世界の言葉は、マナの抜けていく形に合わせて作られていない。
私は言わなかった。ただ、肩の痛みを少し大事にした。
*
もっと奥へ行った。
脈が、一本だったのが、二本、近づいた。二本の脈が交わるところへ近づくと、空気が粘った。
粘る、というのは変な言い方だ。だが、ほかに言いようがなかった。歩くと、まわりのマナが私に薄く絡んだ。歩く分には、絡んだまま一緒に来た。急ぐと、絡みがちぎれて、後ろへ尾を引いた。
私はますますゆっくり歩いた。エレガントに、ではない。ただ、にじませないために、洗練された老婦人のように、ゆっくり歩いた。
二本の脈の交わるあたりに、水があった。
岩の窪みに溜まった、小さい池だった。
止まっていた。
その水が、止まっているのが悪かった。
流れている沢は、まだよかった。風が水に引っかかっているだけだった。止まった水は違った。水の上に、薄い膜が張っていた。目に見える膜ではない。鼻の奥で、ぬるい、と感じる膜だった。
膜の上で、小さい泡が、ぷつ、ぷつ、と内側から押し上げていた。
何かが、その水の上で息をしていた。
—バイオフィルム
前世の世界の微生物が、自分たちに適した環境を作り、固定するためのもの。それに悪意はなかった。術でもなかった。ただ、生きて、殖えていた。生きて、殖えているのに、近づいてはいけない、という形をしていた。生きている目に見えないもの。それは、こちらの世界でも微生物と呼ぶべきものなのだろう。こちらの生命は、微生物さえマナとは無関係にいないらしい。
「飲むな」
ユルダが、私が近づく前に言った。
「飲まない」
「触るな」
「触らない」
「鼻へ、入れるな」
少し、間が空いた。間が空いたのは、私が半分、入れたかったからだった。
「……入れない」
私は、家の甕を思い出した。
ユルダの甕の水は、底に砕いた核が沈めてある。悪いものを引き寄せて、沈めて、毒で殺してある。色が変われば替える。だから、あの水は飲めた。
この池は、誰も何もしていなかった。毒も入っていない。替える者もいない。底には、色が更に濃い砂礫がある。
だから、悪いものが上で息をしていた。
「これは、家の甕の逆じゃ」
ユルダが言った。
「家の甕は、手を入れた水じゃ。これは、誰も手を入れていない水じゃ」
「煮れば」
「煮ても、死なん」
ユルダはそれだけ言った。煮ても死なない。
前世の語彙で言えば病原性のある微生物だと思う。煮ても死なない耐熱性と、魔石に寄り色を変えるもの。口に入れると、治療を要するもの。その生態は、マナを栄養源としているのか。活発に呼吸するから、水表に出てくるのか。だが、家の水に鼻はこれを拾わないし、この膜を見た覚えもない。同じ、治療を要する水でも。
ここでは、鼻は、ただ、ぬるい、悪い、近づくな、という形だけを拾った。
分からないものへ、近づく前に、止まる。
谷の掟だった。
それは、私の事故からの経験則だった。
*
背を向けた時、鼻の奥が、もう一段、奥を拾った。
池の、向こうだった。
止まった水の、もっと向こう。そこに、何かがいた。
姿は見えなかった。木が間に立っていた。
だが、鼻が拾った。
獣ではない。膜でもない。もっと大きかった。遠かったのに、大きかった。
鼻の奥の、いちばん奥の、そのまた向こう。昨日から、ずっと形にならずに遠くにあったもの。それが今日は、少し近かった。
まだ、形にはならなかった。
ただ、そこに在った。動かずに、濃いところのいちばん濃いところに、ただ在った。
「いる」
私は小さく言った。
「強いか」
ユルダが聞いた。
「分からない。だが、大きい。獣とは桁が違う」
バルドが、ユルダを見た。ユルダが、バルドを見た。私を経由しなかった。
二人とも、何も言わなかった。
肩が、まだ痛かった。
白い花は、まだ閉じたままだった。私たちが立ち去っても、しばらく閉じているのだろう。
魔法でない音は、もう止んでいた。だが、土地は、まだ覚えていた。
私の鼻も、覚えていた。音と、その向こうの、大きいものを。
大きければ良いとか、強いってものではない。ただ、小さいよりは良い、強いことが多い。前世の私が、そう告げていた。
[白い花 了]




