灯りを吸う方
私は池に背を向けたまま、動かなかった。
向こうの大きいものが、鼻の奥から消えなかった。
消えないどころか、少しずつ形になってきた。
姿は、まだ見えない。木が間に立っている。だが鼻の地図の上で、その一点だけが、ほかと違っていた。
まわりのマナは、流れていた。脈が二本、交わって、渦を巻いて、乱れていた。止まった水のあたりは淀んでいた。ぜんぶ動いて、乱れていた。
その乱れの真ん中に、一つだけ、乱れないものがあった。
塊だった。
塊の中で、回路が回っていた。私の知っているどの回路より、太く、固かった。虫の幾何は薄かった。獣の回路は皮一枚だった。あれらは風が吹けば揺れた。
この塊の回路は、揺れなかった。乱流の真ん中で、びくともしなかった。まわりのマナを自分の方へ引いて、固めて、回していた。
塊は息をしていた。ゆっくり吸って、吐いていた。吸うと、まわりの濃淡が塊の方へ寄った。
寄せていた。
塊のまわりの細かい光が、みな少しずつ、塊の方へ引かれていた。光る苔の光も、葉の乳色も、虫の幾何も、塊の近くでは薄くなって、塊の方へ吸われていた。
灯りを、吸う方だった。
まわりの小さい灯りをぜんぶ自分の方へ吸って、いちばん濃い場所を独り占めにしていた。だから、まわりにほかの強いものはいなかった。近づけないのだ。いちばん濃い場所を、いちばん強いものが、一つで守っていた。
きれいな幾何だった。隙なく閉じて、整いすぎて、誰も割り込めない形だった。
その幾何は、いちばん濃い場所の、地図そのものを歪ませていた。脈が二本、その一点へ吸い込まれていく。流れが、その一点を中心に渦を巻く。塊は、自分の周りの世界の形を、自分に都合よく作り変えていた。
私の知っている回路は、世界の中に描かれるものだった。この塊の回路は、世界の方を、自分に合わせて描き直していた。
格が、違った。
大きさも、測れなかった。
虫の幾何にも、獣の回路にも、端があった。端があるから、形になった。形になるから、鼻に写し取れた。
この塊は、端が掴めなかった。どこまでが塊で、どこからがまわりの乱れか、境が引けなかった。
写し取れないものを、私は初めて、鼻で見た。
*
私は背の小さいライフルに、手をかけかけた。
かけかけて、止めた。
止めたのは、止めの点を置いたからではない。
分かったからだった。
効かない。
弾は速い。だが、速いだけだ。あの塊は、まわりのマナを引いて、身体を固めている。固めた身体に、速いだけの金物は結びつかない。貫いても、貫いた先で固め直される。
威力の問題ではない。種類の問題だ。火薬を強くしても、弾を速くしても、結びつかないものは、結びつかない。
家では、頭で習った。今朝は、目で見た。いまは、鼻が先に言っている。
頭の別のところで、絵が半分浮いた。
鼻の奥。豆を装填する場所。鼻孔の縁の結界。マナ場で直接押す、速い金物ではない、別のもの。私の中の、いつも緩むところから流す、別のもの。
それなら、あの塊にも、結びつくかもしれない。
私は止めた。
形までは追わなかった。追ったら、あの塊が私の方を向く気がした。
止めるのは、少し上手くなっていた。上手くなっただけで、絵が出てくるのは止まっていなかった。
*
私はライフルから手を離した。
「ナラム」
バルドの声が低かった。戸口で「足」と言う時の声ではない。家で「道具は外に置く」と言った時の、奥が固い声だった。
「効かんと、分かるか」
「分かる」
「どうして」
「撃たなくても、分かる。鼻が、そう言っている」
バルドは、少しのあいだ黙った。
「やはり、教えた本人じゃの」
私は教えた本人だった。教えたことを覚えていないのに、撃たずに分かった。おかしな身体だった。
「下がるぞ」
ユルダが言った。慌ててはいなかった。ただ、籠を抱え直す手が、来た時より少し速かった。
派手な術は、出なかった。バルドは杖を地面に一度突いた。家の戸口でやるのと、同じ手つきだった。ただ、向きが、塊の方ではなく、私たちの帰る方を向いていた。ユルダは苦い草を一束折って、地面に置いた。煙は立てなかった。
「あれは、こっちを向いておらん」
バルドが言った。
「向いておらんうちに、戻る」
「倒さないのか」
私は聞いた。
「倒さん」
「倒せん、ではなく」
「倒せんし、倒さん」
ユルダが続けた。
「あれは、あそこにおる。わしらは、ここにおる。あいだに、止まった水がある。それで、よい」
家で、沢を渡るな、と言われた時と、同じ温度だった。危ないものは、倒すのではなく、近づかない。倒すと残る。残ると面倒だ。あいだに水がある。それで、よい。
これを、二人は迷わず倒さなかった。倒すか倒さないかの線は、二人の中に、もう引いてあった。私には、まだ見えない線だった。
私は塊に背を向けた。
恐ろしいものから上品に離れるのは、難しい。恐怖は、エレガンスと洗練との対極にある。
だが、私たちはそれでもエレガントに離れた。急がなかった。急ぐとにじむ。にじむと尾を引く。尾を引くと、見える。だからゆっくり戻った。逃げる足ではなかった。ただ、戻る足だった。
心は震えていても身体は震わせず、エレガントに一歩一歩滑らかに。顔には自信をにじませて。
[灯りを吸う方 了]




