いつも標的
塊を背に、来た道を戻り始めた。
急がなかった。急ぐとにじむ。ただ、戻る足だった。鼻の奥では、後ろの塊が、まだこちらを向かずに、太く在った。
まだ、いちばん濃いところの中だった。
*
戻り始めて、すぐだった。
鼻が先に、嫌な形を拾った。
獣ではない。
塊でもない。
その間の、何か。
濃いところを、こちらへ向かって、速く裂きながら来るもの。
裂きながら、というのが、おかしな言い方だ。だがほかに言いようがなかった。
獣の回路は皮一枚だった。虫の幾何は薄かった。私の知っているどの回路とも、違った。
回路がぜんぶ荒れていた。
太い回路がいくつも、互いに噛み合わずに回っていた。回りながら、まわりのマナを掻きむしって、後ろへ乱れた尾を長く引いていた。
来る前から、地図がめくれた。
*
「止まれ」
私は言った。言うより先に、足が止まっていた。
「来る。大きい。獣より、上」
バルドは私を見なかった。ユルダを見た。ユルダが、バルドを見た。
それで決まった。
私を経由しなかった。
私は前にバルド、後ろにユルダ、その真ん中を歩いていた。気づく係は、真ん中がいい。前からも後ろからも、等しく遠い。守られる場所だった。
気づいて、知らせた。私の仕事は、それで終わりだった。
残りは、二人のものだった。
*
それが、木の間を低く、地を裂いて出てきた。
首が前。尾が後ろ。脚で地を蹴って、その脚が空気を掻いて荒れを撒いていた。見たことのない獣だった。前世にも、たぶんいなかった。
だが、鼻が言った。これは、隠れて待つ方ではない。来る方だ。
その荒れた回路が、まっすぐ私の方へ傾いた。
私の方、だった。
三人のうち、いちばん小さい、いちばん遅い、いちばん柔らかいもの。それを向こうは、私の鼻が利くより先に、目で数えていた。
狩りやすい、と。
皮肉な話だ、と思った。
私は、狩られないように、だが狩の標的として、この危険な森に逃がされた子だ。バルドが、そう言っていた。その子が今また、別の庇護のもとで標的となった。
頭は恐怖を感じるが、身体は標的となることに慣れている気がした。
そのことに、右の口角が上がった。
*
私は背のライフルに手をかけかけた。
かけかけて、やめた。
鼻が先に言った。あれには結びつかない。荒れていても、固めている。速いだけの金物は、固めた身体の上を滑って抜ける。
私の知るどの魔法も、腹を穿った鼻豆弾も、あれにはまだ弱い。
だから手は止まった。私は何も流さなかった。
鎖骨と胸の間は緩まなかった。
恐怖はあった。あったが、鼻の奥の冷たいところが、勝手に配分を数え始めた。向こうが狙っているのは、私だ。二人が動くのは、そのためだ。
つまり、私は囮だった。
遅れて、そう気づいた。
少し、いやだった。
*
バルドは走らなかった。跳ばなかった。
昔は派手な動きもしたのかも知れない。だが、今は確かだが緩慢にさえ見える歩みだ。一歩が1bftで誤差がない。
杖を、地面に一度突いた。家の戸口で鳴らすのと同じ手つきだった。ただ、向きが違った。
突いた先、低いところに、線が二本。
私はそれを鼻で拾った。線は私の少し前で、輪になりかけて、また閉じた。二重に閉じた。容器ではない、輪だった。
来た。
荒れた回路が、その閉じた輪へぶつかった。
音はしなかった。
ただ、荒れた尾が、バルドの輪の縁でねじれた。
向こうは固めた身体を、まっすぐ私へ通そうとしていた。だがバルドの輪が、その通り道の幾何を、わずかに捻った。
塞いだのではない。逸らしたのでもない。通る道の、形を変えた。
向こうの荒れた回路は、自分の引いた尾に足を取られた。掻きむしったマナが、捻れた縁で、自分へ巻き返した。
速いものが、自分の速さにつんのめった。
私の前で、それが、半分、横を向いた。
*
横を向いた半呼吸に、後ろから苦い匂いが来た。
ユルダだった。
詠唱はしなかった。草を一束折った。煙は立てなかった。揉んだ匂いだけが、低く地を這って広がった。
虫が嫌う。獣が嫌う。魔物も少しは嫌う。人がいちばん嫌う。
私も顔をしかめた。私はいま、たいへん、人だった。
向こうの荒れた回路の、いちばん外の薄いところが、その匂いでちりちり縮んだ。固めた芯は縮まなかった。芯は固い。だが、芯のまわりの、掻き集めるための薄い手が、匂いで引いた。
掻く手が引けば、固める速さが鈍る。
それから、ユルダの手が動いた。
何も持っていない手だった。詠唱もない。印もない。ただ、傷へ薬を置く時の、あの正確さで、空気の一点を押した。
無詠唱の祈祷だった。奇跡ではなかった。手当ての続きだった。
皮が固くても、固められないところがある。ユルダは、それを知っていた。押した一点が、荒れた回路のいちばん噛み合わない継ぎ目に入った。
継ぎ目が開いた。
固めていたものが、その継ぎ目からほどけ始めた。
*
私は、見ていた。
ただ、見ていた。
バルドの輪が、向こうの道の形を捻る。ユルダの匂いが、掻く手を縮ませる。ユルダの手が、継ぎ目を開ける。
三つは別々ではなかった。
向こうが捻れて遅れる。遅れた分だけ、匂いが芯のまわりに届く。届いて手が縮んだ分だけ、継ぎ目が開けやすくなる。
順に、効いていた。
二人は言葉を交わさなかった。
派手な火は出なかった。光らなかった。爆ぜなかった。
ただ、荒れた回路が、だんだん形をなくしていった。
私の前で。
私を狩りに来たものが。
*
最後は、あっけなかった。
固めるのをやめた身体は、ただの、速いだけの肉だった。マナの抜けた、速い肉。
そこへ、バルドが、もう一度、杖を突いた。
捻れた道が、地面へ向きを変えた。
向こうは、自分の速さのまま、地面へ刺さった。
止まった。
そこにはすでにユルダがいて、一瞬の停止の狭間に、それの頭に優しく手をかざした。私の怪我を癒すのと、同じ手つきで。
その口と鼻から血を吐きだし、耳からは汁が出たと思えば、血に変わった。
……これは、あれじゃないだろうか。
荒れていた回路が、ふっと消えた。生き物が死ぬと、溜めたものが漏れる。漏れて、散る。
散るのを、鼻の奥で薄く拾った。獣の時と同じだった。ただ、量が桁違いに多かった。
しばらく、地図が、その散ったもので白く滲んだ。
*
静かになった。
私はまだ、手を、ライフルから離していなかった。離していないことに遅れて気づいて、離した。
恐ろしいのは、強さではなかった。
速さでも、なかった。
あまりに当たり前に、片付けてしまうことだった。井戸の水を量る時と同じ温度で、二人は、牙を剝いてきたものを地に転がしていた。
「効かんと、分かったか」
バルドが言った。走った息ではない。突いた、だけの息だった。
「分かった。手を、かけかけて、やめた」
「やめたのは、よい」
ユルダが、草の籠を抱え直した。来た時より、ほんの少し速かった。
それが、ユルダの戦いの、全部の緊張だった。
「ユルダ」
私はその名だけ呼んだ。
「薬が毒になるのと同じじゃ。直すのも壊すのも同じ。壊すほうがずっと簡単じゃがの」
ユルダが、私の顔を読み、続ける。
「お前の怪我は参考になる。最小の力で、弱いところを、素早く壊せる」
やはりそうだった。あれは、私が鼻から風を出そうとして死にかけた時の怪我。
その治療の、逆をやったらしい。
かなり嫌な、倒し方だった。
*
「これは、倒せたな」
私は言った。
鼻の奥のずっと向こうに、まだ、桁違いのものがいる。動かずに、いちばん濃いところにいる。あれは、これとは、たぶん違う。
これは端があった。脚があって、首があって、荒れに厚いところと薄いところがあった。形になった。形になるものは、倒せる。
「同じ類じゃ」
バルドが、倒れたものを検めながら言った。
「あの奥のと、これと」
「同じなのか」
「同じじゃ。格が、こっちの方が、上だっただけじゃ」
私はそれを、しまった。
倒せるものと、倒せないもの。線を引くのは、強さの種類ではない。格だ。そしてその格は、いつも向こうにあるとは限らない。
今日は、二人の方にあった。
*
ユルダが、刃で皮を少しめくった。
「核は、大きい。荒れとる分、よう溜めとった。水に使う」
「皮は」
「使う。お前の外套の、裏当てになるかも知れん」
私の、と言われて、半呼吸、何かが鳴りかけた。私は止めの点を先に置いた。形までは追わなかった。
血を、ユルダが小さい器に取った。
倒すと、残る。残ったものは、要るものにする。核は核で、皮は皮で、血は血で、別の面倒だった。谷の掟は、倒したあとにも続くらしかった。
ずいぶん、粘着質な掟だった。
さっきまで私を、狩りやすい獲物と数えていたものが、いま、核と皮と血に分けられていた。
値踏みされていたのは、向こうの方だった。
私は、二人の知らない手つきを、初めて見た。
井戸で水を分け、薬草を選り、私の傷を洗う、あの二人ではなかった。牙を剝いたものを、線と、匂いと、一点で、ほどいてしまう二人だった。
そんな二人を、私は知らなかった。
知らなかったが、たぶん、こちらの方が、長く生きてきた二人だった。
見ても、二人はこちらを見ていなかった。もう、ただの荷を作る手つきに戻っていた。
*
また歩き出して、私は一度、後ろを振り返った。
杖の線も、二重の輪も、もうバルドが回収していた。あったことの跡は、苦い草の匂いと、白く滲んだ地図が薄く戻っていくのだけだった。
二人は、また、ただの老夫婦の足取りで歩いていた。
私は、鼻の奥の、置いておく方の場所に、ひとつしまった。荒れた回路が、二人の幾何にぶつかって、押し負けて、ほどけていく形だった。
*
止まった水の横を、もう一度通った。膜は、まだ息をしていた。私は足を、水とは反対の側へ寄せた。鼻は入れなかった。
濃淡を逆に抜けた。出るたびに、鼻の奥が軽くなった。塊の太い回路が、遠くなった。二本の脈が、一本になった。
来た道だった。だが、同じ道ではなかった。行きは流れと同じ向きで、地面が足を少し持ち上げていた。帰りは逆に踏んで、その持ち上げが、なかった。同じ道で、向きだけが逆で、足の裏が違った。
陽も高くなっていた。草は夜に溜めたものを、空へ返し終えていた。
*
弱い獣を撃った肩は、もう痛みが引いていた。
だが、撃たなかった方が、まだ残っていた。塊に手をかけかけてやめた時の、あの半分引いた絵の方が、後から、ずっと長く残った。
撃った肩より、撃たなかった手の方が、後で効いた。おかしな配分だ、とまた思った。
*
石杭の列を、内から越えた。空気が一枚めくれて、家の薄い膜の内側に入った。
外の濃いマナが、すっと遠くなった。止まった水のぬるい息も、奥の塊も、もう鼻の奥には届かなかった。
バルドが倒した魔物の荷を軒下へ回した。ユルダが草の籠を土間へ下ろした。私は背の小さいライフルを外し、布を解いて、戸口の脇の低いところへ置いた。
道具は、外に置く。
この魔物には、玩具は何もしなかった。ただ、真面目な顔で、肩からぶら下がっていただけだった。真面目なのは、だいたい私より、道具の方だった。
頭の、置いておく方の場所には、いくつかしまってあった。光る苔。マナの降る空。羽ばたかずに昇る輪。止まった水のぬるい膜。二人の、知らない手つき。そして、いちばん奥に、一つ。
効かない、という形だった。
家のライフルも、肩の小さいライフルも、あの塊には効かない。私はそれを、撃たずに、鼻で知った。知ったが、効くものを、私はまだ知らなかった。
知らないものへ、近づく前に、止まる。だから私は、止まっていた。両手を膝に揃えて。
ただ、止まっている間も、鼻の奥のいちばん奥には、効かないものの形が、薄く残っていた。それは、肩の痛みより、ずっとゆっくり引いていった。たぶん、しばらく引かない。
引くより先に、私はそれに効くものを、見つけてしまう気が、少しした。
見つけてしまう前に、私は両手を、膝の上で揃え直した。
[いつも標的 了]




