六人の巫女
このごろ、二人の目が遠くなっていた。
叱る回数が減ったのではない。叱る前に、私が止まるようになった。鼻で変と思ったら足を止める。分からない変化が出たら成果と思う前に止まる。覚えた端から試して死にかける子供は、覚えた端から止まる子供に、半分だけ、なっていた。
だから、二人は離れた。バルドは工房で輪の溝を削っている。ユルダは沢の手前で青い草を摘んでいる。私は軒下にいた。両手を膝に揃えて。
座る膝は、ちゃんとあった。
ただ、頭の置いておく方の場所では、まだ一つの形が薄く残っていた。効かないものの形だ。二人との遠出で見たマナの塊に、私のライフルは効かなかった。撃たずに、鼻で知った。知ったが、効くものを、私はまだ知らなかった。
知らないものへ近づく前に、止まる。
私は止まっていた。
止まりながら、別のことを考えていた。
*
掟は、よく出来ている。
身体を勝手に塞ぐな。止めるな。押すな。出そうとするな。魔石を見る時はマナを動かすな。
並べてみて、私は気づいた。どれも、マナを動かす話だった。
豆を鼻に入れるだけなら。詰めるだけなら。マナは動かない。風も出さない。何も射出しない。ただ入れる。乳飲み子が口へ持っていくように、鼻へ持っていく。それだけなら、掟のどの一本にも触れない。
抜け穴だ、とは思わなかった。
掟を守った、と思った。
軒下の小袋に、豆が入っていた。名の重し。カスタンの実ではない、小さい赤茶の粒。前に一度、ユルダの指の届かないところへ上げられた、鼻に入れる豆ではない、と言われた、あの豆だ。
では、どの豆なら鼻に入れてよいのか。
ない、と言われた。
だが、世界に豆がある以上、鼻との関係は検討されるべきなのだ。
私は一粒、つまんだ。
右の鼻孔へ、ゆっくり入れた。一つ。連続性の検証だ。前の体の記録は失われた。今の体だけでも、初期値を取らねば。
二つ。
息は普通にした。止めない。強く吸わない。マナは、動かさない。私は掟の中にいた。掟の中で、数えていた。
三つ。
奥が、少し前のめりになる。これは私の鼻が勝手に迎えに行く分だ。前にもあった。
四つ。
入る。まだ入る。この体は、思ったより容れる。
五つ。六つ。
七つ目を、入れた時だった。
*
奥で、一つ、ずれた。
迎えに行った鼻が、深く引いたのかもしれない。豆が一つ、鼻の奥の、地図の曲がるところへ、嵌った。
喉の方だった。
息が、止まった。
吸おうとした。入らない。
息が止まったことで、吸おうとしてしまった。それが、豆をさらに沈めた。
吐こうとした。出ない。肺に、十分な空気が、なかった。
鼻の奥の地図の、いちばん細いところに、丸いものが一つ、栓のように嵌っていた。
声を出そうとした。声は、空気が通らないと出ない。空気は、通らなかった。だから声も出なかった。
私は軒下にいた。バルドは工房。ユルダは沢。あいだに、石杭と、薄い膜があった。それで、ここは静かだった。
静かだ、と私は思った。半分は冷静に。
恐怖は少し遅れて来る。先に頭が動いた。何個目だ。七つ目だ。六つは入って、七つ目で嵌った。
—前の体は、幾つのあずきを数えただろうか。
そこで、止めた。
止めの点ではない。届かなかったのだ。前の体の記録に。
胸が、薄く跳ねた。手が膝から離れて、左が喉を掻き、右が喉の奥に伸びた。だが、掻き出せはしない。指は鼻の奥の地図までは届かない。届く道具は、私の中にしか、ない。
*
魔法だ。風の魔法で、出す。だが、二歳の私は、ここで死にかけたらしい。
その時は、口を閉じて、鼻から一気に風を出した。内側が一気に外へ引かれ、負圧が奥へ伝わって、気道も喉も耳の奥もちぎれた。
今度は、引きすぎてはいけない。
私は、鎖骨と胸の間の、いつも緩むところを探した。灰の粒を爪一つ分だけ転がした、あの場所だ。流せるだけ流すのではない。流す量を、描く。
豆の、すぐ隣に、小さな絵を置いた。点。短い線。止めの点を、先に。線は、爪二つ分。
そこの空気を、ほんの少しだけ、薄くした。
風を出すのではない。あるものを、わずかに、退ける。豆の口側を、髪一筋分、薄くする。鼻の側は、そのままにする。差が、できる。
差は、流れになる。
豆が、動いた。
爪一つ分。鼻の側から、口の側へ。栓が、ほどけた。
私はそのまま、口側の絵を、もう一度、ごく薄く緩めた。豆が、喉の細いところを下りて、口の中へ、転がり落ちた。
口から、それは出た。
赤茶の粒が一つ、軒下の土に落ちた。少しの血と一緒に。
私は息を吸った。
入った。
吐いた。出た。
世界が、戻ってきた。
*
しばらく、動かなかった。
息ができる。たったそれだけのことが、いま、いちばん濃い場所だった。
それから、頭が、後から言葉にした。鼻はもう、先に分かっていた。
もし、いまの絵が、描けなかったら。
私は、死んでいた。鼻に詰めた豆で喉を塞いで、声も出せずに、軒下で、一人で。
魔法がなければ、死んでいた。
頭の中で、絵が一枚、揃った。前の体の、最後の日。退屈で平穏な、何気ない日。鼻に小豆が何個入るか、検証していた。死の予感など、少しも抱いていなかった。
最後の記憶が、そこで切れている。
切れた先を、私はずっと、頭を打ったせいだと思っていた。
違った。
あの体には、魔法がなかった。だから、嵌った豆は嵌ったままだった。掻き出せず、抜けず、誰も間に合わず。
—あずきは、幾つを数えたのだったか。
六つだった。
あの体でも六つまでは、鼻に収まっていた。そこへ七つ目を押し込んだ時、列のいちばん奥の、一つ目が、行き場を失った。
古代ローマの聖火を守るウェスタの巫女は、六人と決まっていた。新しい少女がひとり選ばれて列に加わるたび、三十年を勤め上げた最年長のひとりが、務めを解かれ、俗世へ送り出される。数は六、つねに一人入って、一人こぼれる。
だから、鼻に入ったのは、六つ。残りの一つは、鼻という聖域を出て、喉という俗世へ、送り出されたのだから。
私は、前世で死ぬ直前のことを、死にゆく瞬間のことを、思い出していた。
*
私は土の上の豆を見た。
鼻に入れる豆ではない、と言われた豆。鼻から入り、口から出た豆。この小さな私を殺しかけた豆。前の体では、本当に殺していた豆。
掟は、守った。マナは、動かさなかった。詰めただけだった。
だが、止まったことには、ならなかった。
そこが、臓腑に落ちた。頭ではない。喉の、たったいま栓が抜けたあたりに、ことん、と落ちた。
掟を全部守っても、好奇心は、抜け穴を通る。止める係が、掟の側にしかいなければ、私はまた、掟の中で、死ぬ。
止める係は、私の内側に、要る。
止まれなかった体は、止まれずに死んだ。この体は、止まり方を、先に教わった。それでも、いま、止まれなかった。止まりながら進む、というのは、たぶん、こういう日を、何度も越えることだった。
私は、少し冷めてもいた。
助かったのは、魔法があったからだ。絵が描けたからだ。次も描ける保証はない。くしゃみ一つで、絵は崩れる。今日は、ただの猶予だった。死を、後ろへ、爪一つ分、ずらしただけの。
成長、と言ってよいのかもしれない。
*
工房の方で、こつん、と杖の音がした。
少し遅れて、沢の方から、籠を抱え直す気配がした。来た時より、少しだけ速い手だ。
二人は、まだ気づいていない。私が、どれだけ近かったかを。
私は土の上の豆を拾った。血のついた方を下にして。小袋へは戻さなかった。
この豆は、私の生涯の誓となる。そんな予感があった。
あの塊を見た日にしまった、効かないものの形。その隣に、今日、もう一つ増えた。
外のどんな敵よりも、私は、私自身が脅威だ。
手遅れになる前に、止める係を、私の内側へ置かなければならない。
だが今日、その係は、まだ私を止められなかった。
私を殺す脅威は、脅威の顔をしていない。
鼻の奥には、まだ豆の形が残っていた。
だからもう、幾つを数えるか、検証はいらない。
豆は六つ。
ウェスタの巫女と同じだ。
かつて、死の宣告を受けた若き日のユリウス・カエサルの側に立ったのが六人の巫女なら、
今日、私の側にあったのは、小さな風の絵だった。
[六人の巫女 了]
――第一部 了。




