描いて、止める
沢の向こうの匂いは、今朝、三だった。
刻みの数で測っている。
家の裏手、私の腰くらいの高さの木の幹に、爪の先で短い刻みを入れる。一はこちらの空気とほとんど変わらない。二は鼻の奥が少し沈む。三は立ち止まる方がよい。四はユルダかバルドに言う。五はたぶん私ではどうにもならない。
五は、まだない。
四も、一度しかない。
三は、季節が変わってから増えてきていた。
前の世界の記憶がある、と二人に打ち明けたのは、三がまだ増え始める前だったか。予想はしていたが、ユルダもバルドも、もう知っていた。記憶を失う前の私は、拾われて間もなく二人に伝えていたらしい。
刻みは私の手の届く範囲で、左から右へ日ごとに増えていく。最初の刻みから数えると、もうずいぶん右まで来ていた。
「数えとるな」
ユルダが軒下から言った。
「数えている」
「数えるのは、よい」
「よい、で済まないやつか」
「数えた結果に、お前が線を引かんならよい」
線を引くという意味は、後で考えることにした。
ユルダは毎朝の井戸の水を、いつものように古い方と新しい方に分けていた。
杓の柄の角度が、ここ数日の平均で、半年前より0.09度ほど寝ていた。
柄の中心線。
水面に対する相対角。
手首の背屈角。
肘から先の軌道。
測定誤差と言うには、ユルダの動作の再現性が高すぎる。
老いと言うには、変化量が小さすぎる。
筋緊張。
微細振戦。
関節可動域。
疲労。
睡眠。
気温。
候補はいくつもある。
それでもバルドやユルダの異常に遅い老いは、たぶん、こういう誤差の顔をして現れるんだと思う。
*
日課は、いくつかある。
朝、土間の隅で、鼻から細い風を出す。手のひらの外で、爪の半分ほどの旋回を一つ。鼻も目も使わず、手で測る。出した風は止めの点で消す。最初の頃は、止めの点を置く前に風の方が先へ行った。今は止めの点がちゃんと先に立っている。
立っているはずだ。
立っていないと、たぶん、もう椅子に座らされている。
ユルダの薬草の選別は、半分くらいは任されるようになった。
棒のような根、糸のような葉、皮の硬いやつ、皮の薄いやつ。匂いと手触りと切り口の色で分ける。間違えると、ユルダが横から手を伸ばして二、三本だけ抜く。抜いた手は黙っている。抜かれた私の方が、なぜ抜かれたかを後から鼻で確かめる。
確かめてから、自分の山に戻す。
「鼻で見るだけ」は、もう許可制ではなかった。
椀の上に手をかざして、見るだけ。皿の縁、戸口の石、軒下の縄、ユルダの根の切り口。見て、追わない、欠けを埋めない、分からないところへ線を足さない。最後の一つは、まだ毎日落ちる。
落ちると、自分で顔を直す。
ユルダがその前に「顔」と言うことは、ずいぶん減った。
*
それでも、頭の中の何かは止まっていなかった。
朝の風で旋回を一つ作るとき、私の頭はその隣に、回り方を反対にしたもう一つの旋回を置きたがる。
二つ並べば、間に誘導流が立つ。
小さい流路ができる。
流路ができれば、そこを通る風は加速するはずだ。
応用は広い。
かなり美しい。
マナ風でも同じことができれば、さらに面白い。
そこまで考えて、止める。
止めると、別の絵がうずく。
鼻の穴と、奥の通路と、その通路の内側の溝。ライフリングを実現させる方法。出る時には、向きと回り方と初速が決まっている。
そこまで考えて、止める。
止めると、また別の絵がうずく。
私は、止めるのがたぶん上手くなってきていた。
上手くなっただけで、出てくる絵の数は減っていなかった。
増えてさえいた気がする。
「進ませると、たぶん、悪い」
これは私の中で、もう決まり文句になっていた。
決まり文句を一日に何度も使うのは、たぶん、決まり文句のせいではなく、決まり文句が出てくる場面の数のせいだった。
*
工房だけは、まだ入っていない。
軒下の左、母屋の倍くらいある離れ。戸口は黒く、煙突は太く、壁には金具と石の欠片が埋まっている。中から低い唸るような音がたまにする。匂いはこちらより少し重い。
工房の煙突は、たぶん、私が拾われてから一度も冷えたことがない。朝、煙が細く出ている日もあれば、出ていない日もある。出ていない日も、戸の脇の壁はほんのり温い。
何度か、足の先が半歩そちらへ出ていることがあった。半歩出ると、バルドかユルダがどこかから「足」と言う。私は足を戻した。
戻しても、頭の中の何かは出たままだった。
「描いて、止める」
これはたぶん、いま私が一番欲しい作法だった。
頭の中で描いて、流さない。流さないが、消さない。消さずに、ただ置いておく。それができれば、たぶん私は、椀の縁から落ちかけた水のように、落ちる寸前で止まれる。
椀の縁の水は、バルドの杖が止めていた。
私の頭の中の絵は、私が止めなければならない。
私の杖は、まだない。というか、杖って何に使うんだろう。
*
その日は、特別な朝ではなかった。
ユルダは水を分けていた。
私は粥を食べ終えて、椀を低い板の上に伏せた。伏せ方はユルダがいつもしている向き。底の上に屑が落ちても追わない向き。
バルドが土間の戸口に立っていた。
杭は削っていなかった。
そういう日は、たまにある。
「ナラム」
「うん」
「ちょっと来い」
私は立ち上がった。両手は膝から離れて、自然に下がった。震えはしなかった。震える理由はまだなかった。
「どこへ」
「離れじゃ」
「離れ」
「儂のだ」
工房、と私は言わなかった。
工房、とバルドも言わなかった。
ユルダは振り向かなかった。
杓の柄が、いつもより少しだけ寝ていた。
*
戸が、ぎい、と鳴った。
中の匂いが最初に来た。
鉄、油、焦げ、削った木、革。それからもう一つ、私の鼻の奥で軽く何かが反応する、奥行きのある匂い。匂いではない方の匂い。マナの何か、と内側で言いかけて、止めた。
止めてから、もう少しだけ進ませた。
進ませた分だけ、奥の方で何かが丸く整っていた。
丸いものは、危険だ。
丸いと、私は近づきたくなる。
「立っとれ」
バルドは私を戸口の内側に立たせて、自分は炉の前まで歩いた。炉は冷えていた。火は入っていない。灰の色は灰のまま落ち着いていて、その灰の上に、削った木の杭が、私の知っているよりずっと多く寝かせてあった。
杭の山。
形は、似ているが同じではなかった。
棒の太さも、刻みの本数も、線の入る角度も、少しずつ違う。それぞれに、誰かが何度も触った跡が残っている。たぶんバルドが、自分で削って、自分で確かめて、削り直して、確かめて、また削った杭。
「足りん杭か」
私は外で口にした。
外で口にしたのは、半分くらい内側だった。
「足りん」
バルドが答えた。
「全部、足りん」
「どれも」
「どれもじゃ。じゃが、どれかは要る。要る時に、どれが要るかは、その時にしか分からん」
私は頷きそうになって、頷かなかった。頷くと、私の中で何かが納得した気になる。納得した気になると、私はそれをすぐ別の場面で使う。別の場面で使うと、たぶん、悪い。
代わりに、私は杭の山の隣に置かれていたものを見た。
低い台の上に、金属の輪が一つ。
輪は、丸い。
輪の内側に、細い溝のような線が一周ぐるりと刻まれている。溝にはところどころ、私の見たことのない記号らしきものが入っていて、その記号はたぶん文字ではない。
私の鼻の奥が、ふっ、と短く軽くなった。
軽くなって、息が浅くなりかけて、自分で戻した。
──美の塊だ。
内側で出た言葉は、それだった。
「触るな」
バルドが、見ないまま言った。
「触っていない」
「足が触っとる」
私は足を戻した。
足は、半歩、輪の方へ出ていた。
「お前は、足の踏みどころが、いっつも顔より先に動く」
「鼻よりはましだ」
「鼻と同点じゃ」
低い評価が並んだ。
私は両手を膝に当てかけて、立っていることを思い出し、両手を脇に戻した。
両手は、座ったときの場所と立ったときの場所を、まだ覚え分けていない。
*
「これを」
バルドが、輪の縁を指で軽く弾いた。
ぴん、と小さい音がした。
「結界は、容器ではないことに気をつけろ」
私は顔を上げた。
「容器」
「容器ではない」
「容器ではない、とは」
「いまは、いらん」
それだけだった。
バルドは指の腹で輪の縁をひと撫でして、それ以上は言わなかった。
私は口の中で、容器ではない、を一度なぞった。なぞった先に、頭の中の何かが別の絵を描きかけた。描きかけたところで、止めた。
進ませると、たぶん、悪い。
今日のうちで、これは三度目だった。
*
ユルダがいつ来ていたかは、私には分からなかった。
気づくと、戸口の内側に立っていた。
杓は持っていなかった。
代わりに、輪の置かれた低い台の前に立ち、輪の縁を人差し指の腹で一度だけ撫でた。撫で方は、ユルダが薬草を撫でる時の手つきとほとんど同じだった。
「家でやると」
ユルダが、バルドの方を向かずに言った。
「壊れるか、壊すか」
「外じゃの」
「外じゃ」
二人で、目だけで何かを決めた。
私は経由されなかった。
経由されないのは、もう何度目か分からない。
「持って出るぞ」
バルドは輪の下に手を入れ、台ごと両手で持ち上げた。
輪は、思ったより軽そうな運ばれ方をした。
軽そうな運ばれ方をするものほど、たぶん、重い。
*
家から少し離れたところに、見通しのよい場所がある。
沢の手前、石杭の内側、家からは木の影の先がぎりぎり見えるところ。
地面は柔らかく、草は短く、空気はほかの場所より少しだけ薄かった。
バルドが台を置いた。輪は低い切り株の上に、台ごと収まった。
ユルダは私の二歩後ろに立った。
バルドは輪の反対側、私の正面の二歩先に立った。
二人が揃っていた。
「事前に言うぞ」
ユルダの声が、私の二歩後ろから落ちた。
「言うた」
「二人とも、おる」
「おる」
「身体を、塞がない、止めない、押さない、出そうとしない」
「うむ」
復唱は私の中で、もう椀を伏せる動作と同じくらい身体に入っていた。
「観察じゃ」
「観察」
「マナを、動かすな」
「動かさない」
私は両手を膝の前で軽く合わせ、息を普通にした。
金具の上の線は、外から内へ流れているように見える。
だが、流れているのではない。
線は止まっている。
線の上で、流れる準備だけが待っていた。
真ん中の魔石は、いま、ほとんど何もしていない。
だが、何もしていない真ん中は、何もしていない形を持っていた。
「止まっている形がある」
私はそう言った。
ユルダが、二歩後ろでほんの少しだけ頷いた気がした。
私は鼻を働かせかけて、半分にした。
鼻を完全に使わないのは、もう難しい。だが鼻で奥まで入っていくのは止められる。鼻は、手前の空気の温度と線の上の乾きを拾うところで止めた。
手は、触らずに測った。
線の長さは、私の親指の爪、四つ分くらい。中心の魔石は、私の小指の爪、一つ分くらい。線と線の間隔は、爪、半分。
止めの点が、外側の縁にも、内側の魔石の縁にも、それぞれ一つずつあった。
止めの点が、二つある。
線の始まりと、線の終わりに。
灰の盆の時とは違う。あの時の止めの点は、線の終わりに一つだけだった。
ここでは、始まりにも終わりにも置かれていた。
──二重に閉じている。
私は頭の中だけで、その音を置いた。
杭の山が、整いきった杭と整いきっていない杭で半々だったのを思い出した。ここの結界も、たぶん似たような構えで作ってある。内も外も止められる。
──美しい。
口には出さなかった。
出すと、たぶん、ユルダの目が細くなる。
ユルダの目は、いま、細くなっていなかった。
それはたぶん、私が出さなかったからだった。
*
「次じゃ」
ユルダが言った。
「次は、頭で、描かない」
「描かない」
「いま、お前はもう、頭の中に置きそうじゃろう」
「置きそう」
「置くな」
──置きそうだった。
私はいま、観察した線と止めの点と間隔と中心の魔石を、頭の中のいつもの場所に並べ始めていた。いつもの場所というのは、灰の盆の朝に、点と短い線と止めの点を置いたその場所だ。あの場所は空いていた。だから置きたかった。
私は、置きそうな手前で止まった。
止まるというのは、置かないでおくということだった。
止めの点は、線の終わりに置く。これは、線を引き始めないということだった。
線を引き始めないというのは、思ったより面倒だった。私の頭の中の場所は、もう線を引きたがっていた。
「描きかけたか」
ユルダが言う。
「描きかけた」
「止めたか」
「止めた」
「もう一度」
私は観察をもう一度した。線の長さ、間隔、止めの点、中心。そのままを頭の中で置こうとして、止めた。
「もう一度」
「うん」
何度目かで、私は、観察したものと頭の中で置くものを別の場所に分けることを覚えた。別の場所というのは、頭の中のもう一つ奥の引き出しだった。そこへはまだ線を引かない。ただ形を置いておく。
形を置いておく場所と、線を引く場所が、私の頭の中にあるとは、私自身、今日まで知らなかった。
知らなかったというのは、たぶん、嘘だ。覚えていなかったというのが、たぶん、正しい。
歩き方と豆の装填とを忘れていなかった、と同じ温度で。
*
「描かない、ができたら、描いていい」
ユルダは、しばらく経ってからそう言った。
「描く」
「描く。ただし、流さん」
「流さない」
「描いたら、まず止めろ」
「止める」
「流すかどうかは、流せると分かってから決めろ」
「分かってから決める」
これは、もう三度目だった。
私は頭の中の線を引く場所へ、形を置き直した。
描いた。
描いたが、流さなかった。
描いた瞬間、流れたがった。
これは本当に流れたがった。
描いたものは流すためにある、と頭の中の場所が思っていた。
私は頭の中の場所を少し宥めた。
今日は流さない。
今日は、描いて、止める。
「止めた」
「うむ」
ユルダは、それだけ言った。
灰の盆の朝より、ずっと難しかった。
あの時は流すために描いていた。
今日は描くために描いていた。
描くために描くというのは、たぶん私が、いちばん慣れていない描き方だった。
繋がった気がしたところで、私はまた止まった。
進ませると、たぶん、悪い。
*
「流してみるか」
バルドが、低い声で言った。
「いいのか」
「ごく少し、じゃ」
「ごく少し」
「描いた線の、いちばん外側の止めの点だけ、ほんの一目盛り立てる」
「一目盛り」
「目盛りは、お前が決める」
私は頭の中で、目盛りを置いた。目盛りは、私の親指の爪の十分の一くらいに置いた。それより小さくは置けなかった。それより大きくは置きたくなかった。
止めの点を、先に二つ確認した。
線の始まりと、線の終わり。
どちらも、ある。
私は、鎖骨と胸の間の軽くなる場所を、少しだけ動かした。
動かしたというより、ほんの少し緩めた。緩めた量は十分の一くらいだった。
切り株の上の輪のあたりで、空気がほんの少しだけ張った。
光は、出なかった。
音もなかった。
爆ぜなかった。
鼻からも、口からも、何も出なかった。
輪自体は動かなかった。真ん中の魔石も光らなかった。
ただ、私の肩の手前くらいから、切り株の向こう側の二歩先くらいまで、空気の張りが薄くあった。
張りは、私の手のひらの肌がいちばん先に拾った。手のひらの肌に、湿った布を一枚近づけたような、ごく薄い圧。
それだけだった。
「あるか」
ユルダが言った。
「ある」
「動かさんでよい」
「動かさない」
「止めの点は、置いてあるか」
「置いてある」
「では、絞れ」
私は緩めた分を戻した。
戻したというより、もとの場所へ置き直した。鎖骨と胸の間は、ふっ、とまた戻った。
空気の張りは、なくなった。
なくなったが、なくなったことが分かった。なくなる前にあったからだった。
何もなかったということが、ちゃんとあった。
*
「もう一度」
ユルダが言った。
私はもう一度、同じだけ緩めた。張りが出る。止めの点が二つちゃんとある。
私は緩めた分を、もう少しだけ絞った。張りがもっと薄くなった。
今度は、緩めた分をほんの少しだけ足した。張りが少し厚くなった。
厚くなった、と思った瞬間、私は戻した。
戻して、止めた。
戻した時、頭の中で、もう一つの形が立った。
──結界式オブチュレーション。
オブチュレーション。前の世界の、火薬で物を撃つ銃や砲で、隙間を塞ぎ、射手の安全性と弾の初速を上げる美しい機構。
火薬は燃えると猛烈な気体になる。その気体が弾を押す。だが気体は、弾だけでなく後ろや横の隙間からも漏れたがる。漏れた分は弾を押さない。撃つ者の手元へ吹き返すこともある。だから隙間を塞ぐ。弾の後ろをぴたりと閉じる。その閉じる部品を、オブチュレーターと呼んだ。面白いのは閉じ方だ。気体の圧そのもので部品を押し広げ、隙間を塞ぐ。圧が高いほど強く塞がる。撃つ力が、そのまま漏れを止める力になる。受けた力で、受けた力を抑える。布と脂と金物でできた、ただの輪のような部品。それが撃つたびに、自分で膨らんで、自分で閉じていた。
こういうのに、私は弱い。
──あれを、結界でやる。
鼻の奥。豆を装填する場所のすぐ外側。鼻孔の縁に沿って、この輪と同じ結界を、もっと小さく、一周だけ描く。内と外、止めの点を二つ。豆が通り抜ける一瞬だけ、結界を閉じる。閉じれば、射出の風が外へ逃げない。逃げないなら、生み出した圧の全部が豆を押す。鼻の中で風を圧縮しても、漏れない。漏れないなら、低い圧でも初速が出る。鼻の穴に溝を掘らなくていい。ライフリングは要らない。結界の内側を、ほんの少しだけ捩じって閉じれば、豆に回転がつく。出口で結界を解けば、回転を保ったまま、まっすぐ飛ぶ。止めの点は外側の縁。閉じる拍は、豆が縁を越える瞬間。解く拍は、その半拍あと。
完成図が、もう頭の中の壁に貼られていた。線の一本まで引かれていた。間隔も、止めの点も、閉じる拍も、決まっていた。
あとは、流すだけだった。
頭の中の場所が、線を引き終えて、流す側へ手を伸ばした。
私は、止めた。
止めた瞬間、バルドの声が、私の正面の二歩先から低く落ちた。
「結界は、容器ではないことに気をつけろ」
二度目だった。
二度目に言われた言葉は、たぶん、重要だ。
──しかし、結界でのオブチュレーションは、前回私の耳やを破壊したらしいマナ衝撃波を抑え、さらに豆の威力まで増すのではないだろうか。
*
戻った。
工房の戸口で、ユルダが先に入り、バルドが後から入った。私はその間にいた。
工房の奥に、低い作業台がもう一つあった。
そちらは輪の台より小さい。上には、刃と糸と布の切れ端が置いてあった。刃は短く、糸は細い。布は私の知らない素材だった。手触りで分かるというより、置かれている布の落ち方で、ほかの布と違うと分かる。
布の落ち方には、重さがある。
布の中ほどに、フードらしき形になりかけたものがあった。短い外套。袖の作りは丸く、肩の落ちは小さく、丈は私の膝より少し下に来そうだった。
色は、深い。紺というには、もう少し奥がある。紺の中に、黒と、ごく薄い青みのある別の色が混ぜてあった。
触る前から、刃がたぶん立たないと分かる表面だった。
──刃が、立たん。
あの時のバルドの言葉が、私の中でもう一度鳴った。
私はそれを見て、最初は、誰のだろう、と思った。
工房に人の服を作る理由は、私には分からない。
「これは」
「縫いかけじゃ」
バルドは、私の方を向いていなかった。
「服だ」
「服じゃ」
「誰の」
「お前のじゃ」
短かった。
短すぎて、私は最初、その音が自分に向かって発せられたものだと認識するのに、半呼吸かかった。
半呼吸の間に、内側で別のことが鳴った。
──大きくなって、自分で逃げられる足ができたら、逃げて、できれば帰ってきてほしい。
「私の」
外へ出した声は、私の中で鳴ったものより、ずっと短かった。
「お前のじゃ」
バルドは、もう一度だけ言った。
二度目は、最初より少しだけ間が長かった。
「いつ」
「いつ着るかは、その時じゃ」
「いつ縫い終わるか」
「縫い終わる時に終わる」
説明は、それだけだった。
布の上に、フードの形になりかけた縫い目が、私の見ている前で止まっていた。
止まっていたが、止まっているまま、ちゃんとそこにあった。
私は足の重さを、片方ずつ確認した。両足とも、いま、戸口とは反対に向いていた。
向いていることを、私は外側へは出さなかった。
*
ユルダは輪の台の前に戻り、布をかけ直した。
「今日は、これでよい」
「これでよい」
「次は、今日より小さくてよい」
「もっと小さく」
「ない方が」
「ない方が、よい」
魔法を教えた本人が、次はもっと無くてよい、と言う。
これは、半年前と同じ温度だった。
同じ温度が、半年経っても同じ温度であることに、私はたぶん、少し安心しかけていた。
安心しかけたところで、ユルダがこちらを見た。
「顔」
私は顔を直した。
直してから、両手を、立ったままの脇の位置でいったん落ち着けた。
落ち着けた手は、輪のあった台の方ではなく、来た道の方を向いて軽く揺れていた。
来た道の先には、母屋があった。
母屋の横には、いま出てきた工房があった。
工房の中には、縫いかけの短い外套があった。
「戻るぞ」
バルドが、戸口の方へ歩き出した。
私は頷いた。
頷いた相手は、バルドでもユルダでもなかった。
頷いた相手は、たぶん、いずれその外套を着る誰かだった。
そして、その誰かは、たぶん、私だった。
私は両足の重さを片方ずつ確認しながら、ユルダとバルドの少し後ろを歩いた。
この二人の歩みは、見た目の割に確かすぎるし、誤差がなさすぎる。
1フィートとかの単位原器に認定したほうが良いかも知れない。このまま長生きしそうだし。
[描いて、止める 了]




