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鼻豆転生 ~最強への第一歩は、鼻に豆を入れないことでした~  作者: 明日茂昇
六人の巫女

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7/15

描けば流れる

朝、土間の匂いがまだ昨日の匂いをしていた。


根の灰焼きの、苦くて、甘くて、湿った匂い。


ユルダが昨日撒いた皮の名残だった。

匂いというものは、片付けても少し残る。

話というものも、たぶん同じだ。


「お前の話」は、昨日で終いと言われた。

だが、終ったあとの空気だけは、まだ家のどこかに残っていた。


私は土間の隅で、手を膝に置いて座っていた。


──昨日、止まり方を教えとる、と聞いた。

──理由は、私が私を殺すからだ、と聞いた。


理由が分かってしまった止まり方には、止まり方そのものとは別の重さが乗る。


膝に置いた手の甲を、小さい、と思った。

昨日より、特に小さくなったわけでもない。

ただ、自分が自分を殺す手なのだと聞いたばかりの手としては、ずいぶん大人しく見えた。


課題は多い。鼻の中に豆を生成できるなら、そして安全に射出できるなら、鼻の容量は即ち装填数だ。火縄銃の一発から、リボルバー、そしてマガジンと発達してきたのは、そんな思いから始まったはずだ。装填数は、生死に直結する。

また、この腹を、この距離で、貫通できないのならば、威力も足りない。デザートイーグルの開発も、そんな思いから始まったはずだ。威力は、生死に直結する。


ユルダは朝の井戸の水を、甕の中で揺らしていた。

杓で底を撫でて、上の方の水だけを別の盆へ移している。

古い水と新しい水を、毎朝、ユルダはこうして分けていた。


この時、彼女はなにかに集中しているようなので、私の自由な思考が咎められることは少ない。マナでなにかしようとしない限りにおいて、私は自由になる。


家の朝の音は、いつも通りだった。

鼻の奥は、今朝は静かだった。


ただ、私の方が、いつも通りではなかった。


           *


ユルダが杓を盆の縁に置いた。


それから、こちらを見ずに、言った。


「魔法は、頭の中で、幾何を描いて、そこにマナを流せばいい」


ぽ、と、水滴がひとつ、別の盆へ落ちた。


それだけだった。


──マジか。

──雑か。


私は、しばらく黙っていた。


ユルダの背中に向かって、口だけが動いた。


「それだけか」


「それだけじゃ」


「それだけ」


「あとは、何を描くかと、何にマナを流すかと、どう流すかと、流したあと、どうするかじゃ」


三段、雑に並んだ。


頭の中で描く。

何かに流す。

流したあと、どうする。


──いま、何か、雑に重要なものが、通り過ぎた気がする。


私が黙っていると、戸口の脇から声が落ちた。


「それは、それだけ、とは言わん」


バルドだった。

膝に短い刃と、丸い木があった。

削っているのは、また杭らしい。

バルドの杭は、いつでも、たぶん、足りない。


ユルダは振り向かなかった。


「言うてもよい」


「言うてもよい、で済ますな」


「やる本人が、描かんと、進まんでな」


バルドは、ふん、と短く息を抜いた。

削りの音が、こつ、と一つ鳴る。


それで、良くわからない議論は終わったらしい。


魔法原理の議事録としては、たぶん、世界一短い。


           *


「やってみるか」


ユルダが、こちらを見ずに言った。


「私が」


「お前以外、誰がやる」


それはそうだ。


私は、口を一度、唾で湿らせた。


「事前に言う」


「言うた」


「ユルダとバルドが、二人ともいる時にやる」


「おる」


「身体を勝手に塞がない」


「塞ぐな」


「止めない、押さない、出さない」


「うむ」


「豆も」


「特にじゃ」


特にだった。


私は深く納得し、それから、深く納得しすぎていることに気づいて、顔を直した。

深い納得は、ユルダの目を細くする。

ここ数日の経験で、それくらいは私も覚えていた。


ユルダは杓を置き、土間の隅から、平たい木の盆を一つ持ってきた。

盆の上には、灰が薄く均してあった。

火の入っていない灰だった。

冷たい灰の表面に、ユルダは指の腹で、ごく短い線を一本引いた。


それから、灰の中から、小さな炭の粒を一つだけ拾い上げ、線の端へ置いた。


炭の粒は、私の親指の爪より小さい。

丸くなく、角もない。

ただの、欠けた粒だった。


「これを」


「動かす」


「動かすか、動かさんか、お前が決める」


「どちらでも」


「どちらでも、と言える稽古じゃ」


私は、灰の上の粒を見た。


止まっていた。


止まっている粒を、止まっているまま見るのは、私の苦手な分野だ。

鼻が、まず、奥の方で軽く反応した。

線の端、低い側、乾いている。粒は、線のすぐ右にいる。

線の左には、何もない。

だが、左には、何もない、という形が、ある。

あの稽古を覚えていた。


私は鼻を働かせかけて、止めた。


「鼻を」


「使わん」


ユルダが先に言った。


「使うな、ということか」


「使うな、ということじゃ」


「鼻でない方を使う」


「目で見るな」


──え。


「目でも」


「目で見ると、お前は、見たものを目の前に出す」


そうだった。


灯りの一件があった。

家の灯りをばらして、魔石を覗き込み、回路の働きを目の前に出してしまった、あの件だ。

あれ以来、目には保留がかかっている。

私の目は、見るだけで、もう触っている。


「では、鼻も目も使わずに、何を使う」


「手」


ユルダは杓の柄で、私の手の甲を、こつん、と軽く叩いた。


「目で見るな。手で測れ」


「手」


「手の先で、灰の上の重みを測れ。粒の位置を、自分の指の関節の長さで測れ。線の長さを、爪の幅で測れ」


「触らずに」


「触らずに、測れ」


非常に難しい注文だった。


しかし、よく考えると、私の鼻は、ここ数日、まさにそれをやっていた。

触らずに、測る。

触らずに、向きや、湿りや、奥行きを、粗く言葉にする。


それを、鼻ではなく、手でやる。


手は、まだ、目ほど信用されていないわけではない。

ただし、過去の私の手の用途を考えると、手にも保留はかかっているはずだ。

私は、自分の手を、少しだけ警戒した。


私の右の親指は、灰の盆の端から、粒まで、指三本分。

線の長さは、爪二つ分くらい。

粒の重みは、たぶん、空気よりは少しだけ重い。

それが、爪一つ分、動けばいい。


爪一つ。


それだけだ。


私は、頭の中で、線と粒の位置を、もう一度置いた。


ここから、ここまで。


その間に、何を描くか。


──幾何。


ユルダは「幾何」と言った。


幾何、という音は、私の中で、座りどころがあった。

座りどころがあるが、座っていいかは、分からない。

私は、その音を、いったん脇へ置いた。


私は、頭の中で、まず点を置いた。

線の端、粒のいるところ。

そこから、爪一つ分、左へ。

点と点を結ぶ。短い線。

線の上に、力の向きを置く。粒が転がる向き。

それから、その線の終わりに、止めの点を置く。

止めの点が、いちばん大事だった。

止めの点を先に置かないと、私は止まれない。

これは、誰にも教わっていないが、私はそう思った。


そう思ったところで、私の右の手が、ほんの少し、勝手に動いた。


膝の上に置いていた、はずだった。


指の腹が、自分の手のひらの上で、短い円を一つ撫でていた。


円。


私は、円を描こうとしていない。

描こうとしていたのは、点と、短い線と、止めの点だ。

円ではない。


だが、手は円を一度撫でていた。


私は、手を膝へ戻した。


「顔」


ユルダが言った。


「いま、何かした」


「何もしていない」


「手がした」


「手は、私のものだ」


「お前のものでも、お前と同じ顔をするとは限らんでの」


それはそうだった。


私の手は、私の顔ほど信用されてはいないが、私の顔ほど勝手でもないと思っていた。

これは、評価を改めなければならない。


「いま、円を描いた」


「自分でか」


「いや」


「では」


「手が、勝手に」


ユルダはバルドを見た。

バルドはユルダを見た。

二人の視線は、私を経由しなかった。


それから、ユルダは、灰の盆を私の方へ少し近づけた。


「もう一度、頭で、描き直せ」


「頭で」


「手の癖は、置いておけ。頭で描いたものに、流せ」


私は息を、一つ入れた。


止めなかった。

ここ数日で覚えた、いちばん大事な作法だった。


頭の中で、もう一度、点を置いた。

線の端、粒のいるところ。

爪一つ分、左へ。

点と点。短い線。

力の向き。

止めの点。


頭の中だけで、置いた。

手は膝にあった。

円は描かなかった。


そして、私は、その線の上に、何かを「流せばいい」のだという。

何を流すかは、ユルダは、言わなかった。

言わないものを、私は、知らないはずだった。


知らない、はずだった。


私の中の、たぶん、どこかが、その「流すもの」を、すでに知っていた。

知らない名で。

私が呼んでいない名で。


胸の、少し下。

鎖骨と胸の間、昨日の線の通った場所。

そこが、ふっ、と、軽くなった。


灰の上で、粒が、爪一つ分、左へ転がった。


ことり、ともいわなかった。

本当に、爪一つ。

線の端から、線の上へ、粒は乗った。

それだけだった。


光は出なかった。

音もなかった。

鼻からも、口からも、何も出なかった。


私の胸は、軽くなった分だけ、戻った。

息は浅くなりかけて、私は普通にした。


灰の上の粒は、線の上で、止まっていた。


止めの点を、私は先に置いていた。


止めの点があったから、粒は、線の終わりで、止まった。


それだけのことだった。


           *


ユルダは、こちらをちらりと見て、また杓を取った。


杓で甕の底を一度撫でる。


「やっぱり」


杓の柄で、盆の縁を、ことり、と叩いた。


「教えるほどでもなかったの」


声は、井戸の水を量る時と同じ温度だった。

驚いていなかった。

拍子抜けもしていなかった。


ユルダの中で、ずっと、たぶん、こうなるはずだった。


「やっぱり」


私は、繰り返した。


繰り返してから、その「やっぱり」の意味を、頭の中で、少し遅れて、ほどいた。


「やっぱり」は、いま初めてできた子供にかける言葉ではない。


いま、初めて教えて、いま、初めて描いて、いま、初めて流して、いま、初めて動かした、はずの子供にかけるなら、それは「ほう」とか、「やるな」とか、もう少し別の語であるはずだった。


「やっぱり」は、知っていた者がかける言葉だった。

やる前から、知っていた者が、結果を確かめるように、置く言葉だった。


──ということは。


私は、土間の盆の上の、線の上に乗った粒を見た。


私が頭の中で描いた、点と、短い線と、止めの点。

そこに向けて、私が、寄せた、何か。


──描けば、流れた。


それは、たぶん、いま初めて、ではなかった。


──歩き方を、私は忘れていない。

──首は、ナラム、という名を、私より先に覚えていた。

──私は、滑空なら、と、たぶん言った。

──そのとき、たぶん、私には、それが言えるだけの、何かが、あった。


──ということは。


私は、その文を、頭の中で、もう一度、ゆっくり置いた。


頭は、幾何を、忘れていない。


身体だけではなかった。

頭も、忘れていなかった。


本人だけが、忘れていた。


私だけが、初めての顔をしていた。


頭は、私の顔を見ていなかった。


──私は、忘れていなかった。


歩くこと、豆を鼻に入れること、それと同じ温度で。


           *


バルドが、膝の上の刃を、布で拭いた。


「じゃから」


刃を一度、削り口に当てた。


「止まり方を、先に教えた」


私は、灰の上の粒を見ていた。


爪一つ分、左の位置で、止まっている。

止まっているのは、私が止めの点を先に置いたからだった。

止めの点を先に置けたのは、私が、ここ数日、止まる稽古をしていたからだった。

止まる稽古を、ユルダとバルドが先にしていたからだった。


昨日の話が、私の中で、もう一度、別の音で鳴った。


──誰かが私を殺すより先に、私が私を殺す。


止まり方を先に教えなければ、私は、いま、爪一つでは済まなかった。


私は、たぶん、もっと派手なことを試した。

そのもっと派手なことのために、私の頭は、もう、線も、点も、止めの点も、勝手に並べた。

ユルダの「幾何を描いて、マナを流す」は、私にとって、知らない言葉ではなかった。

私が、覚えていないだけだった。


そこまで考えて、私は、もう一つ、別のことに気づいた。


──マナは、流せるだけ、流せる。


たぶん、そういうものだった。

水でも、息でも、流れるものは、止める点がなければ、流せるだけ、流れる。


──私は、いつも、流せるだけ、流していた。


鼻から吹き出した風も。

腹にめり込んだ豆も。

目の前へ出してしまった光も。

たぶん全部、流せるだけ、流していた。


今日は、違った。


欠片は、爪一つ分の小さい粒だった。

線は、爪二つ分の短い線だった。

止めの点を、先に置いていた。


描いた図形が、小さかった。


だから、流す量も、小さく済んだ。


──この規模で、灯りの回路を組んでいたなら。


──目を焼くこともなく、ぼんやり、光らせる程度で、済んだのかも知れない。


そこまでで、止めた。

頭は、もう、そこに進みかけていた。

進ませると、たぶん、悪い。


灰の上で、粒は、まだ止まっていた。


止まっていた粒の輪郭が、ふと、別の何かに似ていた。


爪一つ分動いた粒の、線の上の位置。

点と点を結んだ、短い線の終わり。

止めの点の置き方。


──飛ぼうとした、あの時の。


そこで止めた。

形までは、追わなかった。

追えば、たぶん、悪い。

ユルダとバルドが、いま、ここにいる、その理由を、もう一度繰り返さないために。


私は、頭の中の図形を、ゆっくり、消した。


消した、つもりだった。

頭は、たぶん、消えていなかった。

だが、私は、もう、見なかった。


           *


ユルダが、杓で甕の中をもう一度撫でた。


それから、灰の盆を引き寄せ、指の腹で、線をひと撫でで消した。


粒は、線と一緒に、灰の中へ混ざった。


何もなかったように。


「終いじゃ」


「終い」


「今日は、爪一つでよい」


「爪一つ」


「次は、なくてよい」


「ない方が」


「うむ」


ない方がよい、と、ユルダは言った。


魔法を教えた本人が、教えた次の動きで、なくてよい、と言う。


たぶん、それが、いちばん、ユルダの教え方らしかった。


バルドは、削った木の表面を、もう一度、親指で撫でた。

撫でて、頷いた。

頷いた相手は、私ではなかった。

木でもなかった。

たぶん、ユルダでもなかった。

バルドの中の、誰か。

たぶん、もっと若い、何かを覚えたばかりだった頃のバルド自身に。


私は、膝の上で、手を揃えた。


右の親指は、もう、勝手に円を描かなかった。

描こうとしたら、いつでも描けることを、いま、私は知っていた。

だから、いま、私は、描かない方を選んだ。


描けば、流れる。


流すかどうかは、私が決める。


止め方を先に覚えたのは、たぶん、よかった。


灰の盆の上には、もう、線も、粒もなかった。

鼻の奥も、静かだった。


豆の射出時の威力の向上には、やはりライフリングだろう。銃身の内側にある螺旋状の溝のことで、これに豆が食い込みながら進むことで、豆に回転が加わって弾道が安定する。さらに、豆と銃身の隙間からガスが漏れるのも抑えられて、初速も上がる。

問題は、銃身、つまり鼻の穴だが、そこにライフリングの溝を掘る方法と、鼻腔などに掛かる負荷も増すことだ。

片鼻ずつにして、口を開けても、耐えられないかも知れない。

銃の開発史から学べる知見から推測すると、首や咽頭が破裂する。脳にも行くかも知れない。悪ければ、鼻も弾け飛び、もう、豆を入れることも、出すことも、かなわなくなる。


──これは、試す前に止まる必要がありそうだ


朝の水は、ユルダの手で、まだ、古い方と新しい方に、分けられていた。


[描けば流れる 了]


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