お前の話
数日経った。
数日経ったというのは、自分の感覚ではない。
ユルダが、軒下に吊る薬草の束を入れ替えながら「もう三日じゃの」と言った。
私はそれで、三日経ったらしいと知った。
三日。
血は出ていない。
喉も詰まっていない。
鼻からも何も出ていない。
椀も割っていない。
壁にも頭をぶつけていない。
非常に立派な三日である。
私はそう思っているが、二人は思っていない。
二人にとって、三日無事は、三日に過ぎないらしい。
止まる稽古は、まだ続いていた。
ユルダの前で座る。
鼻の奥で何かを拾う。
追わない。
言葉にする。
待つ。
それだけのことが、思ったより身体に入ってきていた。
追いたい、という衝動の手前で、肩のあたりが少しだけ重くなる。
重くなったところで、私は息を一度入れて、止まる。
身体は、案外まじめだ。
本人より、少しまじめである。
*
夕方の前だった。
ユルダは土間の隅で、根の太い草を捌いていた。
皮を剥ぐ手は速い。
緑の皮が一枚一枚、足元の盆へ落ちていく。
バルドは、戸口の脇の低い椅子に座っていた。
膝に丸い木と、短い刃。
削っているのは、たぶん、また何かの杭だ。
鉋屑が、足元へ細く落ちる。
私は土間の板の上で、手を膝に置いて座っていた。
座っているだけ。
非常に模範的である。
すると、バルドが顔を上げず、削りながら言った。
「ナラム」
「うん」
「お前の話をしておこう」
私は、削られていた木の方を見た。
バルドの手は止まらない。
「いま」
「いま」
「なぜ」
「お前も思い出さんようじゃし、もう一度するのは面倒じゃ」
「もう一度」
「儂も忘れていくでな。歳じゃ」
ユルダが、根の皮を一枚剥ぎながら口を挟んだ。
「お前も忘れんようにな」
「ふむ」
「もう、記憶喪失にはなるな」
ユルダの手の動きと、口から出た言葉の温度が同じだった。
緑の皮が一枚落ちる。
私の記憶喪失が一回禁じられる。
重みは、たぶん、同じくらいである。
「気をつける」
「気をつけて済むやつとは思っとらん」
「努力する」
「努力で済むやつとも思っとらん」
ひどい評価だが、反論の材料が私にはない。
バルドはまだ顔を上げなかった。
削りの音が、こつ、こつと続く。
「お前は」
こつ。
「コウノトリに運ばれて、この辺りへ来た」
こつ、と一つ音が抜けた。
私は、削られた木の表面を見ていた。
──マジか。
口は閉じていた。
顔は、たぶん閉じていなかった。
「顔」
ユルダが言った。
私は顔を直した。
──メルヘンやんけ。
直しても、内側はうるさい。
鳥に運ばれてきた幼児という導入で始まる物語の主人公を、私は前世でも何度か目にした覚えがある。
だいたい、皆、健気だった。
私は健気ではない。
「鳥か」
外へ出した声は、ずいぶん短かった。
「鳥に見えるものじゃ」
バルドはそこでようやく顔を上げた。
「実態は、たぶん鳥ではない。頭が大きすぎる。首が長すぎる。胴は小さく、立つと全体の釣り合いが悪い。鳥は足で立つが、あれは翼を腕のように地面へつく。喉と胸も、羽の付き方も、鳥のそれとは違う。空にいる時は鳥に見えるが、地に降りた形はもっと古いものに近い」
──ケツァルコアトルスやんけ。
私は、口の代わりに肩を少し動かした。
「うむ。お前も、しばらくケツァルなんとかに育てられたと言っていた」
口に出てしまっていたかもしれない。この口にも止まり方が必要だ。
「翼が大きい」
私は言った。
バルドは小さく頷いた。
「子を攫う」
ユルダが、根の先を切り落としながら、横から付け足した。
「鳥のくせに、乳を出す」
ぽとり、と切り落とした根の先が盆に落ちた。
私の頭の中では、もっと不穏な音が落ちた気がした。
──鳥が乳を出す。
「乳」
「うむ」
「飲ませる」
「飲ませる。攫った子を、すぐには食わん」
バルドが、削った木の表面を親指で撫でた。
「そして、乳が絶品らしい。母の乳よりずっと美味く、貪るように飲み、すくすく育ったらしい」
なるほど。飲んでみたい。いや、思い出せばいいのか。いや、機会があったら飲んでみよう。
「飲みに行くな」
ユルダは、やはり、読心術を使えるらしい。
「違う、お前が自分で言っておった。また、飲みに行きたい、と」
なるほど、言うだろうな。
「あれは強い。賢く、危険のない狩りしかせんから、普通の人間の大人でも襲われることは少ない。じゃが、向かってくる相手には躊躇せぬ」
「わかった。飲みに行かない」
当面は、飲みに行かない。
「あれは子を、囮にする。泣くもの、匂うもの、動くもの。攫った子を生かしておいて、それに近づいてきた獣や魔物を狩る」
「私が、囮」
「お前は囮で、ここまで運ばれた」
「いつまで囮なのか」
「人の子なら、運べる大きさまでじゃ。八つか九つで、危うい」
私は、自分の鼻の奥を一度確認した。
なぜ鼻なのかは、自分でもよく分からない。
身体の中で、いちばん私らしい場所が鼻だからだろう。
そこに、薄い記憶のようなものはあるか。
ない。
匂いの記憶は、ある。
草、灰、薬、煙、ユルダの皺の匂い、バルドの木屑の匂い。
それより前の匂いは、思い出せない。
ただ、ふと、首の付け根の少し下、鎖骨と胸の間のあたりに、温かいものの匂いが、線のように一瞬だけ通った。
通っただけだった。
追わなかった。
追えば、たぶん、悪い。
「追うな」
ユルダが、根を捌きながら言った。
見ていない。
鼻でも見ていないはずだ。
だが、ばれた。
「追っていない」
「追いかけた目をした」
私は目を戻した。
目も危険物だった。
*
バルドは、削った木を膝の上で持ち替えた。
「お前を、儂が奪った」
短い。
「奪った」
「コウノトリの巣に近いところで、ばたばたと羽の音をさせとった。儂は、たまたまそこにおった」
「たまたま」
「たまたまじゃ」
それは嘘ではないが、全部でもなさそうな言い方だった。
木屑が一枚、また落ちた。
「儂は若くなかった。今ほどではないが、若くはなかった。だから、力で奪ったわけではない」
「では、何で」
「相手を間違えさせた。鳥は、近くにあった別の動くものに気を取られた。儂はその隙にお前を取った」
「鳥は怒ったか」
「怒った」
「殺されかけたか」
「殺されかけた」
「生きているが」
「生きとる」
短い往復で、長い場面が、ぱきり、ぱきりと省略されていく。
英雄譚にならない。
英雄譚にはならないが、たぶん、相当のことが起きている。
バルドは続けなかった。
私も、続けなかった。
ユルダが、土間の隅の盆を引き寄せ、皮を一掴み拾って竈の灰の上へ撒いた。
緑の皮が灰の上で湿る。
匂いが立ち上がる。
苦い匂いではなかった。
甘いというより、湿った青さに近い。
「飯にすると不味い根じゃが、灰でくすぶらせると、虫が嫌がる」
ユルダは、私の話とは別の話のように言った。
ただ、ナラムの話を切る合いの手としては、ちょうどよかった。
──ありがとうユルダ。
私はそう思った。
口には出さなかった。
出すと、たぶん、ろくなことにならない。
*
しばらく、削りの音と、灰の上で湿る皮の音だけが続いた。
私は、聞いた。
「変なことは、知っていたのか」
「拾った時に、か」
「拾った時に」
「服でな」
刃が、ひと削り。
「お前が着とった服が、変じゃった」
「服」
「子供の服のくせに、刃が立たん」
私は膝の上で、自分の身体を見下ろした。
今着ているのは、ユルダが繕った薄い麻のような布だ。刃は普通に立つだろう。
拾われた時の服は、たぶんもう、私の前にはない。仕舞われている、と感じる程度に。
「お前は、一歳になる前に、ここへ来た」
「私が」
「お前が」
「歩けたか」
「歩けん」
「話せたか」
「話せた」
「歩けず、話せたのか」
「めずらしいやつじゃった」
──それは、まあ、めずらしいだろうな。
「お前は、しばらくしてから、自分のことをこちらへ話してくれた」
バルドの手が、削りの間に一度だけ止まった。
「だから、今、儂が話しておるのは、半分はお前が儂に教えてくれた話じゃ」
「私が」
「お前が、まだ一歳になる前の頃のお前が、儂とユルダに、自分の家のことを話した」
私は、自分の喉のあたりを意識した。
一歳に届かない子供が、家のことを話す。
何の家か。
誰の家か。
「家、というのは」
「お前の家じゃ」
「私の家」
「辺境じゃが、貴族の家じゃ」
私は、削られていた木の表面を見ていた。
──貴族の子です、と告げられた瞬間。
私の中で、何かが反応するべきだった。
していない。
私は、内側で、自分の反応を待っていた。
待っても、出てこなかった。
──マジか、貴族なのか、私は。
内側はうるさい。
だが、出てきている言葉は、状況を観光している人のそれだった。
誰かの観光であって、自分のそれではない。
「貴族か」
私が外へ出した言葉も、結局、観光的だった。
「貴族じゃ」
バルドは、こちらの温度を測ったような、測らなかったような声で受けた。
「名も、その時に聞いた」
「ナラムではなく」
「ナラム・オ・アルドヴェイン」
長い。
自分の名前としては、急に重い。
ナラムだけなら、まだ身体のどこかが反応する音だった。
オ、と、アルドヴェインまでつくと、名ではなく、荷物を渡されたような気がした。
「それが、私の名か」
「外では言うな」
即答だった。
「確認しただけだ」
「確認で口に出すな」
名前にも、抜いてはいけない杭があるらしい。
「と言っても、領主の家じゃ。広い領地の上で偉そうにするやつではない。山と森と痩せ地と、変人の番をするような家じゃ。お前の親は、その家の主夫婦じゃ」
「父」
「父」
「母」
「母じゃ」
確認するように私が言って、確認するように彼が返した。
それで、私の中の何かが、揺れたかというと、揺れなかった。
揺れなかったことに、少し驚いた。
──私には、両親の顔の記憶がない。
──だが、私の身体には、たぶん、ある。
身体は、案外まじめだ。
本人より、少しまじめである。
そう先ほど思ったばかりだったのに、その身体は、いま、二人の話を聞いて、首の付け根の少し下、鎖骨と胸の間のあたりで、ふたたび、短く線を立てた。
短い線だった。
追わなかった。
追えば、たぶん、悪い。
*
「お前は」
バルドが、また少し言葉を切った。
「鼻が、生まれた時から、少し他人と違う作りじゃった。鼻だけではない、ない。胸の中の、小さな石も含めてじゃ」
「石」
「お前の中には、人間が普通持っとらん小さい石がある」
「魔石」
「言葉だけは早いの。それじゃ」
ユルダが、薬草を一掴み竈に追加しながら、口を挟まずに横顔だけ動かした。
私は、自分の胸に手を当てかけて、やめた。
──触るな、と言われる前に、自分で止めた。
──それくらいは、私も学んだ。
「親は、それを早くから知っとった」
「親が」
「特に母じゃ。お前が乳のころから、息と気の流れが普通でないことに気づいた。父も気づいておったが、口にせんかった」
「父は、黙る人」
「黙る人じゃな」
そこだけ、バルドの口元が少し緩んだ。
笑ったわけではない。
口の端が動いただけだった。
だが、その動きで、見たことのない父の顔が、わずかにこちらへ近づいた気がした。
近づいた気がしたが、顔は浮かばなかった。
浮かばなかったので、近づきもしなかった。
「禍い子と祝い子。忌子と祝子とも言う」
ユルダが、根を切りながら、横から言った。
「上の方の人間が、お前のような子を呼ぶ呼び方じゃ。忌むやつもおる。祝うやつもおる。だが扱いは似たようなもんじゃ。連れていかれて、囲われる」
「囲われる」
囲うのは、たぶん、優しい言葉ではなかった。
「お前の家は、お前を上にやらん覚悟だった」
バルドが言った。
「だが、家の外から、人が動き始めた。家まで来てから判断するのでは遅いと、お前の母が考えた」
「来た」
「まだ来ていない頃に、来る前に動いた」
「動いた」
「お前を、コウノトリに攫わせた」
私は、椀の縁を見ていた。
椀は土間の板の上にあった。
中には、何もなかった。
「呼んだのか」
「呼ぶ笛がある。人には聞こえん。お前の母は、夜中から何時間も吹いた」
「夜明け前に、お前を高いところへ出した。鳥が一羽降りた」
そこから先を、バルドは語らなかった。
風が冷えていた、とは言わなかった。
母が泣いていた、とも、言わなかった。
父はその場にいたともいなかったとも、言わなかった。
ただ一つだけ、付け足した。
「お前は、たいそう泣いたそうじゃ」
「私が」
「お前は、たいそう泣いたそうじゃ」
繰り返された。
それは、たぶん、私の身体が一度知っているはずの泣き声だった。
身体は思い出さなかった。
鼻の奥も、何も拾わなかった。
──よかった。
──よかった、と思った自分に、私は、少しだけ姿勢を崩した。
──よかった、で、いいのか。
──それを思っていいのは、その時に泣いた当人なのではないか。
私は、当人だった。
当人だったはずだが、当人のはずの私には、その時の記憶がなかった。
身体には、たぶん、ある。
本人には、ない。
距離があった。
距離があることに、少し罪悪感が出た。
罪悪感は、表に出さなかった。
出すと、たぶん、ろくなことにならない。
息は少し浅くなった。
「浅い」
ユルダが言った。
見ずに分かるらしかった。
「普通にする」
私は息を入れた。
入れた息は、根の灰焼きの匂いだった。
苦くて、甘くて、湿っていた。
それが、たぶん、いま、私の身体にとっての家の匂いだった。
*
「お前の母は、お前に言うた」
バルドが続けた。
「儂の話ではない」
「分かっている」
「お前が、儂にそう話した」
「私が」
「お前がな」
刃が、ひと削り。
「大きくなって、自分で逃げられる足ができたら、逃げて、できれば帰ってきてほしい、と」
「帰らなかったら」
「無事に、生きてほしい、と」
「父」
「黙っとったらしい」
「黙っとった、で、よいのか」
「そういう男なのじゃろう。お前の父は、止める権利と止めない権利の両方を持っとって、後者を選んだ。儂は、そういうやつを責めん」
「責めない」
「責めるとな、責めた側が動けんようになる」
それは、たぶん、バルドが何度も使ってきた小さな知恵だった。
ユルダは、その横で、根の最後の一本を切り終え、刃を布で拭いた。
刃を拭く音が、思ったより長く続いた。
その間、私は、口を閉じていた。
顔も、たぶん、閉じていた。
──アルドヴェイン。
その家名は、私の中で、一度だけ静かに鳴って、止まった。
バルドは、そこで二度目を口にしなかった。
私もそれに従って、口に出さなかった。
*
しばらく、根を捌く音も、削りの音も、止まっていた。
そして、バルドが、ようやく、いちばん短い話に入った。
「ここへ来てから、お前を、人里へ返すという話もあった」
「あったのか」
「あった。儂とユルダで、何度か話した」
「返さなかった」
「返さなかった」
「なぜ」
バルドは、削りかけの木を一度膝に置いた。
それから、両手を膝の上で組んだ。
組んだ手は、ごつごつしていて、皺と古傷が多かった。
私の身体にある古傷より、ずっと多かった。
「理由は二つじゃ」
「二つ」
「一つは、人里へ返したら、お前は、上の方の人間に渡される。お前のような子は、囲うか、あるいは、もっとよくないことをされる」
「よくないこと」
「噂じゃが、中の石を、取りに来る者もおる」
「中の」
「中のじゃ」
私は、息を、止めかけた。
止めなかった。
止めるなと、ここ数日、何度も言われた。
私は普通に息をした。
普通にしたつもりで、たぶん、少しだけ浅くなっていた。
「もう一つは」
バルドの口が、少し、止まった。
止まった口は、止まった、と分かる止まり方だった。
重い話の手前で止まる時の、止まり方だった。
「もう一つは」
「もう一つは、お前を人里へ置いたら、誰かがお前を殺すより先に、お前がお前を殺すじゃろう、と思うたからじゃ」
私は、椀の縁から、目を上げなかった。
──誰かが私を殺すより先に、私が私を殺す。
笑えなかったのは、心当たりがあったからだった。
喉。
鼓膜。
腹に二つ。
目の前の光。
崖からのダイブ。
それから、私がまだ知らないだけで、たぶん、ほかにも何回かあるはずの、未遂と未遂の間の、まじめな失敗。
私は、私を殺すのが、たぶん、いちばん上手い。
人里でも、ここでも、同じだろう。
だがここには、それを止める二人がいた。
「じゃから」
バルドの手は、膝の上で組んだままだった。
「止まり方を、教えとる」
私は、息を吐かなかった。
吐くと、たぶん、震えた。
震えるのは、嫌だった。
身体は、まじめに少し震えた。
本人より、少しまじめに。
「止まると」
「うむ」
「私が、私を殺さない」
「とりあえずは、な」
とりあえずは、というところで、バルドが、初めてこちらをまっすぐ見た。
「お前を生かすやり方を、儂とユルダで、全部は知らん。じゃが、止めることくらいは教えられる。教えられるところから教えとる」
「うん」
「うん、で、よい」
「うん」
私は、もう一度、うん、と言った。
うん、しか出てこなかった。
うん、しか出てこないのは、たぶん、いま、ちょうどよかった。
*
ユルダが立ち上がった。
立ち上がる音は、ほとんどしなかった。
ただ、根の皮の盆を片手で持ち上げ、灰の方へ運び、ばさり、と残りを灰の上へ落とした。
苦いような甘いような匂いが、もう一度立った。
それから、ユルダは、土間の板の上にあった空の椀を、伏せた。
ことり、と音が一つ鳴った。
「お前の話は、終いじゃ」
ユルダは言った。
私の話、らしかった。
それが、私の話、らしかった。
椀の伏せた底の上に、薬草の屑が一つ落ちて、止まった。
赤茶色の小さな粒だった。
豆ではなかった。
たぶん、根の屑だった。
だが、形は豆に似ていた。
私は、それを、一瞬だけ目で追って、追ってから、追うのをやめた。
止めるのは、思ったより、上手になっていた。
豆壺の場所は、知っていた。
今、見なかった。
[お前の話 了]




