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鼻豆転生 ~最強への第一歩は、鼻に豆を入れないことでした~  作者: 明日茂昇
六人の巫女

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5/15

鼻で見るだけ

椅子から降りる時、私は少し慎重になった。


慎重になる理由は、昨日から増えすぎている。


頭。

鼻。

喉。

耳。

腹。

目。


身体というものは、部位ごとに危険を持ちすぎではないだろうか。


できれば一括管理してほしい。


「顔」


ユルダが言った。


私は顔を直した。


慎重に。

上品に。

実験計画を立てていない顔に。


「立つだけだ」


「立つだけで済んだことがない」


ひどい。


だが反論するには資料が足りない。

いや、資料は多い。

多すぎて私に不利だ。


私は椅子から降り、足の裏を土間につけた。


少し冷たい。

土と灰と乾いた草の匂いがする。


鼻の奥には、昨日の細い線がまだ残っていた。

豆を鼻の縁に当てられた時の、息ではない風。


もう一度追いたい。


追えば、たぶん少し分かる。

分かれば、試したくなる。

試せば、たぶん怒られる。


怒られるだけで済めばよいが、私の場合、怒られる前に血を吹く可能性がある。


「今、何を考えた」


バルドが言った。


「何も」


顔は本当に難しい。体の中で、顔だけが勝手に供述する。


手足はまだ黙っている。膝も黙っている。すばらしい部位だ。


           *


私は土間の上で、手を膝に置いて座っていた。


座っているだけ。非常に模範的である。


両手は膝。

指は寝ている。

背筋は上品。


三歳児としては、不自然なほど礼儀正しい。


礼儀正しいだけで、信用はない。


鼻の奥が少し重くなった。


右ではない。左でもない。真ん中の奥。


細い線が、戸口の外からこちらへ引かれている。

石杭の列の、低いところ。

水に濡れた糸のような感じだった。


私は手を膝に置いたまま、動かなかった。


止まる。


分からない変化が出たら、成果と思う前に止まる。


そう言われたばかりだ。


「止まった」


私が言うと、ユルダの手が止まった。

バルドの杖も止まった。


「何が」


「鼻の奥。下。戸口の外。石杭の低いところ」


「見たか」


「見ていない」


「動いたか」


「動いていない」


「よし」


バルドは戸口から外へ出なかった。

杖の先を、土間の石の端に置いた。


こつん。


家の外の空気が一枚だけずれた。


戸口の外で、草の先がひとつだけ逆に揺れた。

風は右から左へ流れている。

その草だけ、左から右へ撫でられている。


「あれか」


私は指を上げかけた。


「指すな」


私は手を戻した。


手は膝にある時だけ無害で、指になった瞬間に危険物扱いになる。


人体は、部位ごとの信用差が大きい。


ユルダは黒っぽい葉を三枚抜き、指先で揉んだ。

浅い皿へ落とし、火のない灰の上に置く。


火はない。


なのに、灰から細い煙が立った。


「口を閉じろ」


閉じた。


煙は床を這う薄い布のように戸口へ流れた。

外へ出たところで、何もない場所に引っかかる。


短い影が浮いた。


足。


いや、足のようなもの。


透明に近い細いものが、草の間に何本もあった。

虫の脚にも見える。

だが、数が合わない。


多い。


数える気が少し起きた。


やめた。


今は、数える場面ではない。


「虫か」


「虫なら潰せる」


バルドが言った。


つまり、虫ではない。


「何だ」


「風の食い残しじゃ」


分からない。


だが、分かりすぎる説明よりは信用できる気がした。


バルドの動きは遅い。

しかし、杖の先だけは迷わなかった。


こつん。戸口の石。

こつん。左の石杭。

こつん。土間の端。


三つの音が、ばらばらの場所で鳴った。


そのあと、音の間に線が張った。


見えたわけではない。

鼻の奥で、三角形が閉じた。


ユルダが皿を足で少し押した。


手ではない。

足である。


今、かなり高度なことをしているはずなのに、見た目だけなら、邪魔な皿を端へ寄せているだけだった。


魔法というものは、もう少し光ったり、唱えたりするのではないのか。

それなのに、視覚上ではほぼ何も起きていない。鼻だけが、状況の変化を追えている。


苦い煙が、三角形の中へ入る。


じゅ、と小さな音がした。


草の先についた露が、逆向きに落ちた。


上へ落ちた。


私は身を乗り出しかけた。


「動くな」


二人が同時に言った。


私は止まった。

かなり速く止まった。


透明な脚は煙に触れるたびに薄くなり、やがて草は普通の向きに揺れた。

鼻の奥の重さも、少し遅れて消えた。


「終わったのか」


「通した」


「倒したのではなく」


「倒すと残る」


ユルダが皿を引き戻した。

中の葉は黒くなっている。


「残るとどうなる」


「お前が触る」


説明が簡潔すぎる。

そして、たぶん正しい。


「触らない可能性も」


ユルダが私を見た。


私は口を閉じた。


かなり低い可能性だった。


「触るだけでも済まん」


バルドが言った。


「お前は鼻へ入れる」


「入れない」


「今はな。以前のお前は入れた」


否定材料が、記憶の中にない。


「なぜ鼻なんだ」


「お前の鼻が、一番利くからじゃ」


バルドは自分の口元を、杖の先で軽く示した。


「乳飲み子は、何でも口へ入れて確かめる。硬いか、温いか、食えるか。お前はそれを鼻でやる。豆も、石も、草も、黒い苔もじゃ」


「黒い苔も」


「入れた」


ユルダが短く言った。


「死ぬところじゃった」


かなり悪い。


「前に倒した後の残りも、吸い込んだ。鼻の奥から胸まで固まりかけた。だから、倒さん。通す」


説明がつながった。

つながりすぎて、少し嫌だった。


私の鼻は、手より先に伸びるらしい。

便利な感覚器だ。

ただし、持ち主が悪い。


「だが、前よりはましじゃ。体が育ってきた。鼻も育っとる」


鼻は育つらしい。

かなり嫌な知見だ。


「鼻へ入れんでも、マナがよく見えるようになってきとる。記憶を失う直前のお前と、今のお前は、鼻だけなら変わらん。コウノトリから奪ってきた時とは、ものが違う」


鼻だけ褒められている。


私が褒められたのではない。

鼻が褒められた。


それは、嬉しいような、嬉しくないような、かなり判断に困る評価だった。


「だから、お前があれや苔を鼻に入れようと思わんのは、慎重になったからではない。鼻が育っただけじゃ」


バルドは、戸口の外を見た。


「お前は、お前を信用するな」


短い言葉だった。

戸口の石杭と同じだ。

抜くなと言われたら、抜いてはいけない。


           *


そのあと、バルドは戸口から三歩だけ外へ出た。

石杭の一つを杖で押し、半分沈んだ石の角度を、ほんの少し変える。


ユルダは草束を二つ入れ替え、虫除けの皿を指一本分動かし、戸の上の乾いた枝を一本折った。


それだけだった。


この家では、世界の危機が模様替えの手つきで処理される。


私はまだ、椅子から安全に降りる審査中なのに。


「今のを、私もできるようになるのか」


「ならんでいい」


バルドの返事は速かった。


「まず、気づけ」


「気づいた」


「次は、知らせろ」


「知らせた」


「その次は、待て」


待つ。

止まるの次は、待つ。

魔法への道は、思ったより静止が多い。


「待っている間に観察は」


「してよい。ただし、触るな。動かすな。真似るな。出すな」


「見るだけ」


「お前の見るだけは信用ならん」


そうだった。

見るだけで目の前を光らせた前科がある。


私は少し考えた。


「では、鼻で見るだけ」


二人が黙った。


私は、良い提案だと思った。


ユルダがゆっくり言った。


「それも、わしらの前でやれ」


条件付きで、許可された。


私は顔を直した。

今度は、先に直した。


バルドが鼻で笑った。


「少しは覚えたな」


           *


朝食は、薄い粥と豆だった。


豆。


椀の中に二粒。


食べるには少ない。

測るにも少ない。


今朝の私は、測らない私である。


「食べる顔だ」


「入れる顔じゃ」


「口に」


「鼻へじゃ」


厳しい。


私は豆を噛んだ。


口に入れる豆は、普通にうまい。

少し屈辱的だった。


粥を食べ終えるころ、バルドが椀の横へ、小さな灰色の石を置いた。


大豆ほどの、魔石だった。


私は昨夜から決めている。

鼻の穴に入れるものと、口に入れるものを区別する。


人間として、かなり基礎的な決意だ。


豆ならばまだしも、豆のような魔石の装填は避けるべきだろう。

たぶんまだ口径も合わない。


覚えていないものほど、たぶん、この石に近い。


私は石から、鼻を、そらした。


目ではなく、鼻を。


「やめた」


「うむ」


バルドは石を布へ戻した。


少しだけ褒められた気がした。


私は背筋を伸ばしかけた。


「伸びるな」


褒められ待ちの背筋は、やはり危険信号らしい。


           *


食後、バルドは空いた椀を片付けず、低い板の上へ載せた。

板の下に小石を一つ噛ませる。


椀は、ほんの少し傾いた。


杖で土間の石を、こつん、と突く。


椀の縁へ、水を細く垂らす。


傾いているので、本来なら外へ落ちる。

だが水は、縁の外側で丸くふくらんだまま止まった。


「おお」


地味だが、明らかに物理法則に反している。


私が声を出すと、ユルダが後ろから頭を押さえた。


「近づくな」


「近づいていない」


「気持ちが近い」


気持ちの距離まで管理されるようになった。


「今日は、見る稽古じゃ」


「鼻で見るだけ」


「そうじゃ。水を見るな」


「水ではないのか」


「水は目印じゃ。見るのは、水が落ちん理由じゃ」


ユルダが、私の両手を膝の上へ置かせた。


「手は膝。指は寝かせる。息は普通。鼻に触らん。止めん。吸い込まん。出さん」


「何を出さない」


「候補を増やすな」


それはそう。

候補を増やすと、私の中で実験計画が増える。


鼻で見る。


水の匂いは薄い。

粥の匂いがまだ残っている。


だが、それらとは別に、椀の右側だけ、少し上へ張っている。


「右。上。引く。湿る」


「よし」


バルドが杖を引いた。

水滴は普通に椀の外へ落ちた。


ぽとり。


私はその音を聞いてから、少し遅れて息を吐いた。


「浅い」


ばれていた。


「息を普通にするのは難しい」


「難しいから稽古じゃ」


正しい。

正しいことは、たいてい面倒だ。


次に、ユルダが薬草の茎を一本置いた。


短い、どこにでもありそうな草だ。


だが鼻の奥で、奥から手前へ、薄い冷たさが来た。


「手前。冷たい。乾いているが、端だけ湿る」


ユルダは茎を折った。

内側が黒い。


「毒か」


「薬じゃ」


「黒いが」


「黒い薬もある」


この世界は、見た目に頼らない方がよい。

私の鼻も、頼りすぎるとよくない。


あとは、次々だった。


バルドが豆を一粒置く。


「手前。軽い。乾く。少し逃げる」


「豆も学ぶ」


豆に先を越された。

豆には、意外と物語がある。


次に、ただの石。


土。冷たさ。水気。

鼻の奥には何も引っかからない。


「何もない」


「よし」


「何もないものを置く意味は」


「何もない、と言えるようにする」


それは、思ったより難しい。

私は、何もないところから何かを探しがちだ。


次に、刻みの入った石片。


石杭の欠けだ。

三本線。


「奥。押す。乾く。真ん中の線が重い」


「よし」


線で流れを決めるなら、小さくして鼻の近くへ置けばいい。


つまり、鼻孔外部補助具。


「作るな」


「まだ言っていない」


「顔が工房へ行った」


顔は移動もするらしい。


「顔を戻せ」


私は顔を戻した。


最後に、バルドは懐から布包みを出し、土間の板へ置いた。


それだけで、空気が少し変わった。


「魔道具か」


「外殻じゃ。魔石は抜いてある」


布が開かれる。


小さな回路。

内側に細い刻み。

片側が焼け、黒くなっている。


私は見た瞬間、目を閉じた。


目で追うと、たぶん悪い。


鼻で見る。


幾何は、鼻の奥に丸く残った。

空洞のはずなのに、真ん中に熱の跡がある。


欠けている。


なら、埋められる。


そこへ小さな線を足せば、熱は回る。

石の代わりに、空気の硬い点を、その回路の内側に、ほんの少し。


ほんの少しなら。


「戻れ」


ユルダの声がした。


耳ではなく、額の前で聞こえた気がした。


私は息を吸った。

吸ってから、止めていたことに気づいた。


目を開ける。


ユルダの指が、私の額の前で止まっていた。

バルドは布を閉じている。


二人とも、顔が怖い。


「何をした」


「欠けを見た」


「それで」


「埋めようとした」


「何で」


「鼻で」


自分で言って、かなり嫌になった。


鼻で欠けを埋める。


見るだけのつもりだった。


だが、たぶん事実だ。


「私は手を入れていない」


「お前は手の代わりが多い」


かなり不名誉な評価だ。


ユルダが、薬を傷へ置く時の手つきで、指を一本立てた。


「見たものを追うな」


「追わない」


「欠けを埋めるな」


「埋めない」


「線を足すな」


「足さない」


「熱を入れるな」


「入れない」


「光らせるな」


「光らせない」


「鼻から出すな」


「出さない」


「豆も」


「豆も」


豆は、やはり入る。

事故の歴史に豆が多すぎる。


私は反論しなかった。


           *


稽古の最後に、バルドは最初の椀をもう一度置いた。


もう水滴はない。

粥の匂いも薄い。

豆もない。


鼻で見る。


何もない。


だが、ただ空っぽなだけではない。


押さない。

引かない。

奥へ来ない。

欠けを見せない。

私が何かを足そうとしない。


「何もない」


私は言った。


「何もない形がある」


バルドが少し笑った。


「面倒な子供じゃ」


外では、戸口の向こうの草が、普通の向きに揺れている。

さっきまであった、湿った糸の感じは、もうない。

家の中は、薬草と、灰と、木と、煙の匂いだった。


「悪くはない」


ユルダが言った。


悪くはない。


かなり良い言葉だ。


私は胸を張りかけた。


張らない。


「血が出ておらん。変な汁も出ておらん」


ユルダが言った。


「かなり良い」


基準が血である。


しかし、確かに今日は血が出ていない。

喉も詰まっていない。

鼓膜も破れていない。

腹にも豆が刺さっていない。

目の前に光も出ていない。

皿も割っていない。


部位ごとに危険を持ちすぎる身体が、今日は、ひとつも壊れなかった。


かなり良い。


私は椀の底を見た。


空っぽだった。


鼻も空っぽだ。


だが、空っぽにも形がある。


今日のところは、それでよい。


[鼻で見るだけ 了]


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