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鼻豆転生 ~最強への第一歩は、鼻に豆を入れないことでした~  作者: 明日茂昇
六人の巫女

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4/15

実験は二人の前で

家の周りを一周しただけで、三歳の体は私の許可なく疲れた。


戻ると、ユルダが軒下の低い椅子を足で引いた。


「座れ」


私は座った。バルドは工房の方へ歩き、戸口の前で一度だけ振り返って、こちらを見た。今度は、顔がこちらを向いている。


「逃げるな」


「逃げる予定はない」


「お前の予定は当てにならん」


反論材料は今日だけでも多いので、私は黙った。


ユルダは腰の袋から小さな皿を出した。赤茶色の豆が三粒。


前の私が最後に数えていたのは、鼻に小豆が幾つ入るかだった。これは小豆ではない。それでも、鼻の奥が、わずかに前のめりになる。


私は背筋を伸ばした。


「入れるな」


まだ何もしていない。


「顔が入れとる」


顔は難しい。私は鼻から意志を消すように、できるだけ上品に座り直した。


「今日は、入れる日ではない。当てる日じゃ」


ユルダは豆を一粒つまみ、指先に水を少しつけて、右の鼻孔の縁に軽く当てた。入ってはいない。だが、触れている。それだけで鼻の奥がむずむずした。昨日の傷の痛みとも、薬草の匂いとも違う。石杭を越えた時の、あの重い感じに似ている。


「吸うな」


「吸っていない」


「吸いたい顔をしとる」


「息は普通にせい」


「吸うなと言われた」


「強く吸うな。止めるな。詰めるな。普通にせい」


普通の条件が多い。私はできるだけ普通に息をした。豆がほんの少し震える。呼気のせいか、吸気のせいか、それとも私の鼻が勝手に迎えに行こうとしているのか。最後の可能性は、十分にある。


「右」


「何が」


「重い方じゃ」


「豆か」


「鼻じゃ」


鼻が重い。奇妙な表現だが、分からないわけではない。右の鼻の奥だけ、薄い布を一枚かけられた感じがする。


「右が重い。上の、奥」


「これは、何を測っている」


「お前じゃ」


範囲が広い。


「鼻の通りか」


「それも見る」


「では、他には」


「風じゃ」


息でも匂いでも音でもない、通る向きだけの細いものが、鼻の奥に残っている。


「魔法の風か」


ユルダは、やはり答えなかった。


私は左の鼻を指で押さえようとした。


ぱしん、と指が叩かれる。


「塞ぐな」


声が低かった。私は手を膝に戻した。


「対照実験を。片側だけ塞げば、左右の差が」


「塞ぐな」


「では片側を半分」


「塞ぐな」


三回言われた。かなり重要らしい。バルドの目が、工房の前で細くなっている。


「塞いだら、何が起きる」


ユルダは豆を皿に戻した。


「中が、破れる」


それだけだった。聞くべきではない話の匂いがした。いや、匂いではない。軒下の空気が、少し重くなった。


バルドが工房の戸口で杖を地面についた。こつん。


「見るな」


見るなと言われると見たい。だが今朝の私は少し成長している。私は目を閉じた。ユルダが豆を、今度は真ん中、鼻の下に当てる。


鼻の奥に細い線が立った。


こつん。


線が、少し遅れて左へ寄った。音の方へ寄ったのではない。戸口の薄い膜のようなものが先にずれ、それに押されて鼻の奥の線が傾いた。


「左。戸口の薄いもの」


叩かれない。つまり、違っていない。


こつん。今度は石杭の方。線は上ではなく下へ、濡れた糸が重くなるように沈んだ。


「下。線が三本ある石のあたり」


「目は」


「閉じている」


私は目を閉じたまま、その線を追った。追おうとすると形を変える。吸うと濁り、止めると細くなり、強く意識すると逃げる。なら、見るのではなく待つのだろう。


豆を鼻に入れたい気持ちを、皿の外へ置く。比喩である。本当に置くと叱られる。


鼻の奥で、流れの壁が少し滑らかになった。前世の言葉で言えば乱流が減った――いや、三歳児が鼻の中で乱流制御をするな、と私の中のまともな部分が忠告する。


豆が、肌に当たったまま動かなくなった。息はしている。だが揺れない。


「……止まった」


ユルダの指が止まる。


「何をした」


「分からない。分からないが、止まった」


「だから、するなと言うとる」


理不尽だ。しかし鼻の奥は、たしかに静かだった。


「飛べそうか」


バルドの声だ。少し笑っている。私が可能性を口にしかけた瞬間、


「飛ぶな」


二人が同時に言った。同時に言われるものは、たぶん危ない。私は口を閉じた。


ユルダは豆を皿に戻し、私の鼻の下を布で拭いた。


「今日はここまでじゃ」


「もう少し」


「昨日、頭を打った子供が言うことではない」


「頭でなく鼻の稽古だ」


「鼻は頭についておる」


それは正しい。


           *


ユルダは豆の皿を腰の袋にしまった。手つきに迷いがない。つまり交渉の余地がない。


だが、鼻の奥にはまだ細い線が残っている。風。息ではない風。おそらく魔法の風。ならば、当然、次にするべきことがある。


「もう一度。条件を変えずに」


「せん」


即答だった。私は方針を変えた。


「では、魔法を教えてほしい」


言ってから、少し胸が跳ねた。口に出すと、ずいぶん大きい言葉に聞こえる。だが、ユルダは傷口でない場所へ手をかざして頭の奥の痛みを減らし、バルドは杖で石を突くだけで空気の膜を動かした。あれを魔法と呼ばないなら、私の語彙の方が悪い。


バルドが戻ってきて、少し離れた場所に腰を下ろした。それだけで圧がある。二人が揃っている。


「教える前に、前科を数える」


「多いのか」


「豆よりは少ない。たぶん」


不安になる比較だ。


私は膝の上で手を見た。小さい。傷跡が多い。歴戦の戦士かのように、白い線と、丸いへこみが散っている。昨日、着替えのときに数えかけて、やめた。何と戦ったのかと聞いたら、バルドは「お前じゃ」と言った。


その丸い跡の一つ――腹の、鳩尾の少し下に、二つ。


私は、自分の腹をなぞりかけた。ユルダの目が止める。手を膝に戻す。


「まず言うておく」とバルドが言った。「お前は、鼻で風を扱うのは、拾った時から、もうやっとった。儂が教える前からじゃ。コウノトリを見て練習したと、お前が言うておった」


私は前のめりになった。


「できるのか」


「できとった。今も、身体は忘れとらんじゃろ」


拾われる前から。私が教わったのではなく、私が独りで掴んでいた。それを、私はもう覚えていない。だが手の傷は覚えている。腹の二つの跡も、たぶん覚えている。覚えていない私の代わりに、身体が記録を取っていた。


「ただ、お前は鼻を、読む場所と、少し整える場所にしとった。風を、外へ出す場所には、あまりしとらんかった」


「出す」


「その日が、鼻から外へ出そうとした、初めての日じゃった」


「で、二歳のお前は、その風で、空気が作れると思うた。風魔法じゃから、空気を生む魔法じゃと」


なるほど。分かる。鼻から空気を生めるなら、外気を吸う必要がない。水中でも毒気の中でも息ができる。課題は、生成された空気が外気と混じらないことの確認。


「それでお前は、口を閉じた」


口を閉じれば、鼻から出るものが「生成由来」だけかどうか確認できる。


閉鎖系。再現性。それこそ美しい。


「外気が混じらんように、か」


二人が同時に黙った。あまり良くない沈黙だ。


「分かった顔をするな」


「分かってしまった」


理不尽だが、構造は見えてしまっている。私は内側で、二歳の自分の実験ノートを再構成した。


口を閉じる。鼻から、一瞬で、思いきり、風を出す。


そこで、計画は破綻している。


たぶん、風魔法は空気を生まなかったのだろう。あるものを動かすだけ。口を閉じた閉鎖系で、鼻から外へ一気に吹けば、補給路はない。内側の空気が一気に外へ引かれ、鼻から気道にかけてが瞬間的に真空に近くなる。負圧パルス。それが内へ伝播して――


「内側がちぎれた」


とバルドが言った。


「気道も、喉も、耳の奥もじゃ。鼻と口から血を吹いた。耳からは汁が出て、見とるうちに血に変わった。気道が血と腫れで塞がって、息ができなんだ」


鼓膜が中耳側へ陥没破裂し、内耳のどこかが破れて液が漏れ、やがて血になった。私の頭の中で、損傷の絵が一枚ずつ揃っていく。


なるほど、よくあるやつだ。


「ユルダがおらなんだら、死んどった」


ユルダは否定しなかった。


「内側は戻した。外は洗った。しばらく聞こえなんだ」


二歳の私は、それを取り違えた。最悪のセットアップで検証した。実験対象が自分の喉と耳でなければ、悪くない設計だったと思う。


だが、実験対象は自分の喉と耳だった。


「次じゃ」


まだあるのか。いや、二度死にかけたと聞いている。ある。


「鼻に詰めとった豆を、撃った」


「撃った」


「撃つな」


まだ撃っていない。だが、これも分かってしまう。魔法があるなら、鼻に詰めた豆は弾丸のように射出されるべきだ。前世では少し飛ばす程度で中耳炎になり、悔しい思いをした。さらに、軌道を制御できれば、応用は広い。


鼻腔射出術。あるいは、鼻豆弾。合理性はある。これも美しい応用だ。

前世において人間の身体は豆すらまともに飛ばせなかったが、この世界においては、銃と弾丸、砲弾と大砲となるのかもしれない。すでに開発され、織田信長のような人間に運用がされた歴史があるかも知れない。あるいは、コンスタンティノープルの城壁を砕いたメフメト二世の巨砲のように、鼻豆が城塞を穿った時代があったのかもしれない。ナポレオンが砲兵から皇帝へ駆け上がったように、鼻腔射出術を極めた者が軍事史を変えた可能性もある。力の影には、いつも美しさがあるのだから。


「その時、息を止めておった」


ユルダが私の思考を引き戻す。


「条件を一定にするためか」


ユルダが私の額を、こつんではなく、ぐい、と押した。


「そういう顔をするなと言うとる」


「だが、呼気が混じれば射出条件が」


「混ぜろ」


「再現性はどうなる。軌道の再現性を捨てろと? コンスタンティノープルを砕いた巨砲も、弾道の再現性があってこそだ!」


「死ぬよりましじゃ」


それはそう。


「圧縮したマナを解放したじゃろ」とバルド。「それが衝撃波になって、耳の中で暴れた。頭にも抜けた。マナ脈が乱れて、鼻から血を吹いて倒れた。数日、聴こえなんだ」


豆は飛んだらしい。豆は、マナによく食いつくのかもしれない。空気を介さず、解放したマナにそのまま押された――そう考えないと、合わない。だが、問題はそこではない。解放した衝撃波が、豆を押し出したあと、そのまま私自身の頭を通り抜けた。


空気の圧縮で撃たなかったのは英断だったと思う。だが、空気を使わなくても結果は同じだった。マナというものは、圧のかかった気体やその衝撃波と同じように、それだけで肉体を損傷させられるらしい。


「そして、上を向いていなかった」


ユルダが私の腹を指した。


「鼻から撃った豆が、鳩尾の下に二つめり込んだ。ほじくり出す羽目になった」


私は腹の二つの跡を見た。射出装置としての鼻。標的としての腹。被験者としての私。設計が、ひどい。


「マナ衝撃波の逃がし方を――」


「違う」


ユルダの返事が速い。


「考えるところが違う。撃たん、じゃ」


頭を通さない経路を先に描く、射線は上へ逃がす、と私は一瞬で組み立てていた。組み立ては、たぶん、正しい。


「あと、見るだけもだめじゃ」とバルドが言った。


私は工房の方を見そうになった。見そうになっただけで、ユルダの目が細くなる。


「見るだけなら安全では」


「ない」


バルドは即答した。


「お前の見るは、もう触っとる。家の灯りをばらしたことがある」


「私が」


「魔石を覗き込んだ。魔石が光ったんじゃない。お前の眼の前が、強烈に光った。灯りの回路を見て、その働きを、そのまま眼の前に出したんじゃ。指一本ほどのところにな」


回路を観察する。働きを読む。読んだものを眼前に再現する。順番だけなら、美しい。まさに科学的な手続きだ。


「数日は何も見えんかった。光で焼けただけなら、まだましじゃった」


「そうですか」


「眼の中のマナの通りが、ぐちゃぐちゃに乱れとった。無理に戻せば、見える形ごと歪む。少しずつ戻した」


「ユルダでも数日か」


「わしだから数日で済んだんじゃ」


光だけなら、まだ理解できる。だがこれは光の事故ではない。見るという行為そのものが、私の場合、マナを動かしてしまう。魔法のある世界では、前世の事故の知識が役に立たないらしい。鼻も、目も、勝手に手が出る。


「お前は天才じゃ」


不意に褒められた。かなりうれしい。


「じゃが、馬鹿じゃ。そして、危なすぎる」


うれしさは、すぐに馬鹿な危険物として回収された。


確かに、危険人物が馬鹿だとその危険度は上がる。


           *


ユルダが指を一本立てた。


ここからは、私が叩かれて覚えてきたものの、改訂版だった。塞ぐな、強く吸うな、鼻へ入れない、止まる。軒下で一つずつ覚えた小さな掟が、二人の前で、もっと太い線へ引き直されていく。


「魔法の実験は、事前に言う」


「事前に言う」


二本目。


「わしとバルドが、二人ともおる時にやる。片方が止めて」


「片方が戻す」とバルド。


「私は」


「倒される側じゃ」


役割が一つしかない。


三本目。指が、私の覚えた小さな掟を一つに束ねた。


「身体を、勝手に塞がない。止めない。押さない。出そうとしない」


「塞がない。止めない。押さない。出そうとしない」


軒下で叩かれた「塞ぐな」も、「強く吸うな」も、「鼻へ入れない」も、この一本の中にいる。範囲が広い。だが私の過去を見る限り、広く取るしかないのだろう。


四本目。


「魔石や道具を見る時は、マナを動かさない。見るだけ、真似るだけ、少しだけ、は信用せん」


「動かさない。信用しない」


灯りの一件が、この一本の裏側で鳴っている。


五本目。


「分からん変化が出たら、成果と思う前に止まる」


「分からない変化が出たら、成果と思う前に止まる」


これは難しい。分からない変化は、だいたい成果に見える。私は少し考えた。


「今、何を考えた」


「分からない変化と成果の、判別基準を」


「止まれ」


「今か」


「今じゃ」


私は止まった。何を止めればいいのか分からないので、とりあえず呼吸だけは普通にした。呼吸は止めてはいけない。これは、かなり重要だ。


「実験は、許可制ということか」


「違う。勝手にするな、ということじゃ」


ユルダの声は、いつもより少しだけ低かった。


「お前は、教えれば覚える。だが、覚えた端から試す。試した端から死にかける。だから先に、止まり方を覚えろ」


魔法の前に、止まり方。


私は膝の上の手を見た。小さい。傷跡がある。この小さい手が過去にどれだけ余計なものを触ったのか、私は知らない。腹の二つの跡も、喉も、耳も、目も、私は覚えていない。だが二人は知っている。覚えていない私の代わりに、二人が数えている。


その上で、今も私を椅子に座らせている。覚えた端から負傷する子供に、教えるつもりでいる。教えないと、もっと酷いことになると知っている。


「分かった」


私は言った。


「実験は、二人の前でやる」


ユルダが頷いた。バルドも、少しだけ頷いた。


実験は、禁止ではない。二人の前でなら、できる。事前に言えば、できる。つまり、条件付きである。


条件があるということは、実行可能性があるということだ。


ユルダが私を見た。


「顔」


私は顔を直した。慎重に、エレガントに、そして大胆に。


許可申請書を内心で起草し、顔で印刷しないように。


[実験は二人の前で 了]


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