実験は二人の前で
家の周りを一周しただけで、三歳の体は私の許可なく疲れた。
戻ると、ユルダが軒下の低い椅子を足で引いた。
「座れ」
私は座った。バルドは工房の方へ歩き、戸口の前で一度だけ振り返って、こちらを見た。今度は、顔がこちらを向いている。
「逃げるな」
「逃げる予定はない」
「お前の予定は当てにならん」
反論材料は今日だけでも多いので、私は黙った。
ユルダは腰の袋から小さな皿を出した。赤茶色の豆が三粒。
前の私が最後に数えていたのは、鼻に小豆が幾つ入るかだった。これは小豆ではない。それでも、鼻の奥が、わずかに前のめりになる。
私は背筋を伸ばした。
「入れるな」
まだ何もしていない。
「顔が入れとる」
顔は難しい。私は鼻から意志を消すように、できるだけ上品に座り直した。
「今日は、入れる日ではない。当てる日じゃ」
ユルダは豆を一粒つまみ、指先に水を少しつけて、右の鼻孔の縁に軽く当てた。入ってはいない。だが、触れている。それだけで鼻の奥がむずむずした。昨日の傷の痛みとも、薬草の匂いとも違う。石杭を越えた時の、あの重い感じに似ている。
「吸うな」
「吸っていない」
「吸いたい顔をしとる」
「息は普通にせい」
「吸うなと言われた」
「強く吸うな。止めるな。詰めるな。普通にせい」
普通の条件が多い。私はできるだけ普通に息をした。豆がほんの少し震える。呼気のせいか、吸気のせいか、それとも私の鼻が勝手に迎えに行こうとしているのか。最後の可能性は、十分にある。
「右」
「何が」
「重い方じゃ」
「豆か」
「鼻じゃ」
鼻が重い。奇妙な表現だが、分からないわけではない。右の鼻の奥だけ、薄い布を一枚かけられた感じがする。
「右が重い。上の、奥」
「これは、何を測っている」
「お前じゃ」
範囲が広い。
「鼻の通りか」
「それも見る」
「では、他には」
「風じゃ」
息でも匂いでも音でもない、通る向きだけの細いものが、鼻の奥に残っている。
「魔法の風か」
ユルダは、やはり答えなかった。
私は左の鼻を指で押さえようとした。
ぱしん、と指が叩かれる。
「塞ぐな」
声が低かった。私は手を膝に戻した。
「対照実験を。片側だけ塞げば、左右の差が」
「塞ぐな」
「では片側を半分」
「塞ぐな」
三回言われた。かなり重要らしい。バルドの目が、工房の前で細くなっている。
「塞いだら、何が起きる」
ユルダは豆を皿に戻した。
「中が、破れる」
それだけだった。聞くべきではない話の匂いがした。いや、匂いではない。軒下の空気が、少し重くなった。
バルドが工房の戸口で杖を地面についた。こつん。
「見るな」
見るなと言われると見たい。だが今朝の私は少し成長している。私は目を閉じた。ユルダが豆を、今度は真ん中、鼻の下に当てる。
鼻の奥に細い線が立った。
こつん。
線が、少し遅れて左へ寄った。音の方へ寄ったのではない。戸口の薄い膜のようなものが先にずれ、それに押されて鼻の奥の線が傾いた。
「左。戸口の薄いもの」
叩かれない。つまり、違っていない。
こつん。今度は石杭の方。線は上ではなく下へ、濡れた糸が重くなるように沈んだ。
「下。線が三本ある石のあたり」
「目は」
「閉じている」
私は目を閉じたまま、その線を追った。追おうとすると形を変える。吸うと濁り、止めると細くなり、強く意識すると逃げる。なら、見るのではなく待つのだろう。
豆を鼻に入れたい気持ちを、皿の外へ置く。比喩である。本当に置くと叱られる。
鼻の奥で、流れの壁が少し滑らかになった。前世の言葉で言えば乱流が減った――いや、三歳児が鼻の中で乱流制御をするな、と私の中のまともな部分が忠告する。
豆が、肌に当たったまま動かなくなった。息はしている。だが揺れない。
「……止まった」
ユルダの指が止まる。
「何をした」
「分からない。分からないが、止まった」
「だから、するなと言うとる」
理不尽だ。しかし鼻の奥は、たしかに静かだった。
「飛べそうか」
バルドの声だ。少し笑っている。私が可能性を口にしかけた瞬間、
「飛ぶな」
二人が同時に言った。同時に言われるものは、たぶん危ない。私は口を閉じた。
ユルダは豆を皿に戻し、私の鼻の下を布で拭いた。
「今日はここまでじゃ」
「もう少し」
「昨日、頭を打った子供が言うことではない」
「頭でなく鼻の稽古だ」
「鼻は頭についておる」
それは正しい。
*
ユルダは豆の皿を腰の袋にしまった。手つきに迷いがない。つまり交渉の余地がない。
だが、鼻の奥にはまだ細い線が残っている。風。息ではない風。おそらく魔法の風。ならば、当然、次にするべきことがある。
「もう一度。条件を変えずに」
「せん」
即答だった。私は方針を変えた。
「では、魔法を教えてほしい」
言ってから、少し胸が跳ねた。口に出すと、ずいぶん大きい言葉に聞こえる。だが、ユルダは傷口でない場所へ手をかざして頭の奥の痛みを減らし、バルドは杖で石を突くだけで空気の膜を動かした。あれを魔法と呼ばないなら、私の語彙の方が悪い。
バルドが戻ってきて、少し離れた場所に腰を下ろした。それだけで圧がある。二人が揃っている。
「教える前に、前科を数える」
「多いのか」
「豆よりは少ない。たぶん」
不安になる比較だ。
私は膝の上で手を見た。小さい。傷跡が多い。歴戦の戦士かのように、白い線と、丸いへこみが散っている。昨日、着替えのときに数えかけて、やめた。何と戦ったのかと聞いたら、バルドは「お前じゃ」と言った。
その丸い跡の一つ――腹の、鳩尾の少し下に、二つ。
私は、自分の腹をなぞりかけた。ユルダの目が止める。手を膝に戻す。
「まず言うておく」とバルドが言った。「お前は、鼻で風を扱うのは、拾った時から、もうやっとった。儂が教える前からじゃ。コウノトリを見て練習したと、お前が言うておった」
私は前のめりになった。
「できるのか」
「できとった。今も、身体は忘れとらんじゃろ」
拾われる前から。私が教わったのではなく、私が独りで掴んでいた。それを、私はもう覚えていない。だが手の傷は覚えている。腹の二つの跡も、たぶん覚えている。覚えていない私の代わりに、身体が記録を取っていた。
「ただ、お前は鼻を、読む場所と、少し整える場所にしとった。風を、外へ出す場所には、あまりしとらんかった」
「出す」
「その日が、鼻から外へ出そうとした、初めての日じゃった」
「で、二歳のお前は、その風で、空気が作れると思うた。風魔法じゃから、空気を生む魔法じゃと」
なるほど。分かる。鼻から空気を生めるなら、外気を吸う必要がない。水中でも毒気の中でも息ができる。課題は、生成された空気が外気と混じらないことの確認。
「それでお前は、口を閉じた」
口を閉じれば、鼻から出るものが「生成由来」だけかどうか確認できる。
閉鎖系。再現性。それこそ美しい。
「外気が混じらんように、か」
二人が同時に黙った。あまり良くない沈黙だ。
「分かった顔をするな」
「分かってしまった」
理不尽だが、構造は見えてしまっている。私は内側で、二歳の自分の実験ノートを再構成した。
口を閉じる。鼻から、一瞬で、思いきり、風を出す。
そこで、計画は破綻している。
たぶん、風魔法は空気を生まなかったのだろう。あるものを動かすだけ。口を閉じた閉鎖系で、鼻から外へ一気に吹けば、補給路はない。内側の空気が一気に外へ引かれ、鼻から気道にかけてが瞬間的に真空に近くなる。負圧パルス。それが内へ伝播して――
「内側がちぎれた」
とバルドが言った。
「気道も、喉も、耳の奥もじゃ。鼻と口から血を吹いた。耳からは汁が出て、見とるうちに血に変わった。気道が血と腫れで塞がって、息ができなんだ」
鼓膜が中耳側へ陥没破裂し、内耳のどこかが破れて液が漏れ、やがて血になった。私の頭の中で、損傷の絵が一枚ずつ揃っていく。
なるほど、よくあるやつだ。
「ユルダがおらなんだら、死んどった」
ユルダは否定しなかった。
「内側は戻した。外は洗った。しばらく聞こえなんだ」
二歳の私は、それを取り違えた。最悪のセットアップで検証した。実験対象が自分の喉と耳でなければ、悪くない設計だったと思う。
だが、実験対象は自分の喉と耳だった。
「次じゃ」
まだあるのか。いや、二度死にかけたと聞いている。ある。
「鼻に詰めとった豆を、撃った」
「撃った」
「撃つな」
まだ撃っていない。だが、これも分かってしまう。魔法があるなら、鼻に詰めた豆は弾丸のように射出されるべきだ。前世では少し飛ばす程度で中耳炎になり、悔しい思いをした。さらに、軌道を制御できれば、応用は広い。
鼻腔射出術。あるいは、鼻豆弾。合理性はある。これも美しい応用だ。
前世において人間の身体は豆すらまともに飛ばせなかったが、この世界においては、銃と弾丸、砲弾と大砲となるのかもしれない。すでに開発され、織田信長のような人間に運用がされた歴史があるかも知れない。あるいは、コンスタンティノープルの城壁を砕いたメフメト二世の巨砲のように、鼻豆が城塞を穿った時代があったのかもしれない。ナポレオンが砲兵から皇帝へ駆け上がったように、鼻腔射出術を極めた者が軍事史を変えた可能性もある。力の影には、いつも美しさがあるのだから。
「その時、息を止めておった」
ユルダが私の思考を引き戻す。
「条件を一定にするためか」
ユルダが私の額を、こつんではなく、ぐい、と押した。
「そういう顔をするなと言うとる」
「だが、呼気が混じれば射出条件が」
「混ぜろ」
「再現性はどうなる。軌道の再現性を捨てろと? コンスタンティノープルを砕いた巨砲も、弾道の再現性があってこそだ!」
「死ぬよりましじゃ」
それはそう。
「圧縮したマナを解放したじゃろ」とバルド。「それが衝撃波になって、耳の中で暴れた。頭にも抜けた。マナ脈が乱れて、鼻から血を吹いて倒れた。数日、聴こえなんだ」
豆は飛んだらしい。豆は、マナによく食いつくのかもしれない。空気を介さず、解放したマナにそのまま押された――そう考えないと、合わない。だが、問題はそこではない。解放した衝撃波が、豆を押し出したあと、そのまま私自身の頭を通り抜けた。
空気の圧縮で撃たなかったのは英断だったと思う。だが、空気を使わなくても結果は同じだった。マナというものは、圧のかかった気体やその衝撃波と同じように、それだけで肉体を損傷させられるらしい。
「そして、上を向いていなかった」
ユルダが私の腹を指した。
「鼻から撃った豆が、鳩尾の下に二つめり込んだ。ほじくり出す羽目になった」
私は腹の二つの跡を見た。射出装置としての鼻。標的としての腹。被験者としての私。設計が、ひどい。
「マナ衝撃波の逃がし方を――」
「違う」
ユルダの返事が速い。
「考えるところが違う。撃たん、じゃ」
頭を通さない経路を先に描く、射線は上へ逃がす、と私は一瞬で組み立てていた。組み立ては、たぶん、正しい。
「あと、見るだけもだめじゃ」とバルドが言った。
私は工房の方を見そうになった。見そうになっただけで、ユルダの目が細くなる。
「見るだけなら安全では」
「ない」
バルドは即答した。
「お前の見るは、もう触っとる。家の灯りをばらしたことがある」
「私が」
「魔石を覗き込んだ。魔石が光ったんじゃない。お前の眼の前が、強烈に光った。灯りの回路を見て、その働きを、そのまま眼の前に出したんじゃ。指一本ほどのところにな」
回路を観察する。働きを読む。読んだものを眼前に再現する。順番だけなら、美しい。まさに科学的な手続きだ。
「数日は何も見えんかった。光で焼けただけなら、まだましじゃった」
「そうですか」
「眼の中のマナの通りが、ぐちゃぐちゃに乱れとった。無理に戻せば、見える形ごと歪む。少しずつ戻した」
「ユルダでも数日か」
「わしだから数日で済んだんじゃ」
光だけなら、まだ理解できる。だがこれは光の事故ではない。見るという行為そのものが、私の場合、マナを動かしてしまう。魔法のある世界では、前世の事故の知識が役に立たないらしい。鼻も、目も、勝手に手が出る。
「お前は天才じゃ」
不意に褒められた。かなりうれしい。
「じゃが、馬鹿じゃ。そして、危なすぎる」
うれしさは、すぐに馬鹿な危険物として回収された。
確かに、危険人物が馬鹿だとその危険度は上がる。
*
ユルダが指を一本立てた。
ここからは、私が叩かれて覚えてきたものの、改訂版だった。塞ぐな、強く吸うな、鼻へ入れない、止まる。軒下で一つずつ覚えた小さな掟が、二人の前で、もっと太い線へ引き直されていく。
「魔法の実験は、事前に言う」
「事前に言う」
二本目。
「わしとバルドが、二人ともおる時にやる。片方が止めて」
「片方が戻す」とバルド。
「私は」
「倒される側じゃ」
役割が一つしかない。
三本目。指が、私の覚えた小さな掟を一つに束ねた。
「身体を、勝手に塞がない。止めない。押さない。出そうとしない」
「塞がない。止めない。押さない。出そうとしない」
軒下で叩かれた「塞ぐな」も、「強く吸うな」も、「鼻へ入れない」も、この一本の中にいる。範囲が広い。だが私の過去を見る限り、広く取るしかないのだろう。
四本目。
「魔石や道具を見る時は、マナを動かさない。見るだけ、真似るだけ、少しだけ、は信用せん」
「動かさない。信用しない」
灯りの一件が、この一本の裏側で鳴っている。
五本目。
「分からん変化が出たら、成果と思う前に止まる」
「分からない変化が出たら、成果と思う前に止まる」
これは難しい。分からない変化は、だいたい成果に見える。私は少し考えた。
「今、何を考えた」
「分からない変化と成果の、判別基準を」
「止まれ」
「今か」
「今じゃ」
私は止まった。何を止めればいいのか分からないので、とりあえず呼吸だけは普通にした。呼吸は止めてはいけない。これは、かなり重要だ。
「実験は、許可制ということか」
「違う。勝手にするな、ということじゃ」
ユルダの声は、いつもより少しだけ低かった。
「お前は、教えれば覚える。だが、覚えた端から試す。試した端から死にかける。だから先に、止まり方を覚えろ」
魔法の前に、止まり方。
私は膝の上の手を見た。小さい。傷跡がある。この小さい手が過去にどれだけ余計なものを触ったのか、私は知らない。腹の二つの跡も、喉も、耳も、目も、私は覚えていない。だが二人は知っている。覚えていない私の代わりに、二人が数えている。
その上で、今も私を椅子に座らせている。覚えた端から負傷する子供に、教えるつもりでいる。教えないと、もっと酷いことになると知っている。
「分かった」
私は言った。
「実験は、二人の前でやる」
ユルダが頷いた。バルドも、少しだけ頷いた。
実験は、禁止ではない。二人の前でなら、できる。事前に言えば、できる。つまり、条件付きである。
条件があるということは、実行可能性があるということだ。
ユルダが私を見た。
「顔」
私は顔を直した。慎重に、エレガントに、そして大胆に。
許可申請書を内心で起草し、顔で印刷しないように。
[実験は二人の前で 了]




