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鼻豆転生 ~最強への第一歩は、鼻に豆を入れないことでした~  作者: 明日茂昇
六人の巫女

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3/15

名前

豆を出す魔法は、夢の中では完成していた。


右の手を開くと、一粒。

左の手を開くと、二粒。

呼吸に合わせて、鼻から直接生成もできる。


美しい。


そう思ったところで、目が覚めた。


手のひらには何もなく、鼻も澄んでいた。

そして、豆壺がない。


非常に悪い目覚めだ。


頭の表面はまだ熱い。

包帯が巻かれているところだけ、皮膚が自分のものではないように重かった。


だが、昨日より世界は遅れていない。

部屋の隅の紙束が、紙束として見える。

黒い石の輪も、穴の開いた骨のようなものも、同じ速さでそこにある。


部屋はあたたかい。

かまどの方で、粥が小さく鳴っている。

煙と、乾いた草と、少しだけ鉄の匂い。


豆壺だけが、見当たらない。


「ナラム」


入口の方から声がした。

肩がピクリと跳ねた。


私は天井を見たまま、黙っていた。

知らない誰かが呼ばれたのだろう。


「おい、ナラム」


老爺の声だった。


私は少し考えた。

この部屋には、私と老爺しかいない。

老婆の気配は、かまどの方にある。


つまり。


「私か?」


「お前じゃ」


名は、戸を叩く音に似ていた。

自分だと知っていれば、開ける。

知らなければ、板の向こうで鳴っているだけだ。


「ついでに、あなたの名は」


「バルド」


短い。

名乗るというより、置いた、という感じがした。


「かまどの方は」


「ユルダじゃ」


かまどの方から、ユルダが答えた。


「バルドさんと、ユルダさん」


「さんはいらん」


「礼儀として」


「呼び捨てろ。名に余計なものを足すな」


名前に余計なもの。


敬称まで危険物扱いされるとは思わなかった。


「バルド。ユルダ」


口に出すと、まだ少し硬い。

だが、さっきよりは、相手に札が掛かった気がした。

名を呼べる相手と、呼べない相手。家の中には、呼べる相手が二人いる。


バルドは椀を片手に立っていた。もう片方に木の匙。


朝から匙。昨日の敗北を思い出す。


「ナラムというのは、私のことか」


「そう呼んどる」


「昨日も?」


「昨日も」


「私は返事をしていた?」


「半分くらいは」


半分。名前としては、かなり弱い。


「残り半分は」


「アホ面で豆を見ているか、空を見ていた」


それは仕方ない。


バルドは椀を寝床の横へ置いた。湯気が立っている。薄い粥だ。草の匂いがする。

豆ではない。


「飲め」


「名前の説明は」


「飲みながら聞け」


私は上体を起こした。

頭の後ろがずきりとする。身体が小さい。腹に力が入らない。

バルドの手が背中に回った。乱暴に支えられた。だが、痛むところには当たらない。


腹立たしいほど慣れている。


「ナラム」


今度は、かまどの方からユルダが言った。


私が返事をする前に、肩が動いた。

ほんの一拍。首が、そちらを向こうとした。


私は止まった。


「いま、私より先に身体が反応した」


「そりゃそうじゃろ」


ユルダが椀をもう一つ持って来た。自分の分らしい。


「呼ばれ慣れた名じゃ。耳より先に、首が覚える」


名前は、脳だけで処理されるわけではないらしい。

少なくとも、この身体は「ナラム」という音を知っている。私は知らない。


その差が、少し気持ち悪かった。


自分の身体に、知らない引き出しがある。

誰かが外からそれを呼ぶと、私の意思を通さず、首だけが、勝手に戸を開けようとする。


「前の名なら分かる」


私が言うと、ユルダは粥をすすりながら、目だけをこちらへ向けた。


「今はいらん」


「重要では」


「頭が割れとる時に、名を増やすな」


「大丈夫だ。適切な処置だった」


「うるさいわ」


ユルダは、匙の先で椀の縁を、軽く叩いた。


「名は、紐じゃ。持っとる者が増えると、引く者も増える」


引く者。


誰が引くのかは、言わなかった。

私も、聞かなかった。

聞いても、たぶん、今はいらん、と言われる。


だが、紐の端を、誰が握っているかは、見えない。

見えないので、少し腹が立つ。


           *


ユルダが、私を試すように、呼んだ。


「ナラム」


「はい」


「豆」


「はい」


二人が黙った。


私は椀を持ったまま、少しだけ視線を逸らした。


「いまのは、返事ではなく条件反射だ」


「悪化しとるの」


失礼な。

豆に反応することは、悪化ではない。世界へ適切に応答しているだけだ。


「いいか」


ユルダは、棚の上へ手を伸ばした。

高い。私の手では、絶対に届かない。


そこに豆壺があった。蓋をされ、紐までかけられている。


信用がない。


ユルダは紐をほどき、蓋を開け、豆を一粒つまんだ。赤茶色で、丸い。


私は、椀を置いた。


「置くな」


「手を清める必要がある」


「鼻へ運ぶ準備をするな」


なぜ分かる。


ユルダは豆を、私の手のひらに置いた。


私は固まった。


来た。

世界は、まだ私を見捨てていない。


「入れるな」


「まだ何もしていない」


「する顔じゃ」


豆は軽い。だが、たしかにある。

夢の中で出した豆でも、魔法で出した豆でもない。現実の豆だ。


「これは何の豆だ」


「名の重しじゃ」


「食べ物では」


「今は違う」


「鼻では」


「なお違う」


ユルダは私の手を包むようにして、指を閉じさせた。

皺だらけの手は、乾いていて、温かい。


「呼ばれても、返事をする。豆を持っていても、鼻には入れん」


「条件が多い」


「生きるとはそういうもんじゃ」


バルドが言った。

その言い方は少しずるい。大抵の面倒なことに使えてしまう。


私は豆を握ったまま、粥を飲んだ。

苦い。昨日より、少し薄い。


頭は痛い。包帯は重い。名前は、まだ私の中へうまく入ってこない。

だが、手のひらの豆は、よく収まっていた。重しというには軽いのに、握っていると、名前の方が逃げにくくなる気がした。


「ナラム」


「はい」


「豆」


私は手を握りしめた。

返事はしなかった。


かなり成長したと思う。


           *


粥を飲み終えると、バルドが戸を開けた。


外の光が入ってきた。

私は首から下げられた小袋を押さえた。中で、名の重しが一度だけ揺れる。


「行くぞ」


私は土間の段差を越えた。外の土は柔らかく、湿った葉が靴底で潰れる。


家の横に、母屋より大きい離れがあった。戸口のあたりが黒く、煙突が太い。壁に焦げ跡と、細い金具と、黒い石の欠片が埋まっている。


工房だ。


非常に入りたい。


「見るな」


「まだ見ていない」


「足が見とる」


足。


私は自分の足を見た。たしかに、工房の方へ半歩、出ていた。


朝、名を呼ばれて首が動いた。

いまは、工房に足が向かう。


この身体は、私の意思を通さずに、戸を開ける。


「あそこは」


「入るな」


「何がある」


「入ったら死ぬものと、死なんが怒られるものじゃ」


「分類が粗い」


「お前には十分じゃ」


十分ではない。


だがバルドは、工房の戸口から少し離れた石を杖で示した。

地面に半分埋まり、表面に細い線が三本、刻まれている。


「これを抜くな」


「抜けそうに見えない」


「お前は、抜けそうに見えんものも抜く」


否定できない気がした。この身体の前科は多い。


家の周りを、同じような石が間隔を空けて囲んでいた。どれも半分沈み、線か点が刻まれている。

垣根ではない。結界か。何の結界かは知らないが、結界が要る場所なのだ。


その境界を越えると、鼻の奥が重くなる。


私は立ち止まった。


「どうした」


いつの間にか、ユルダが籠を抱えて出ていた。


「ここから先、匂いが重い」


「風かもしれん」


「なら、止まれ」


「止まっている」


「次もそうせい」


説明はそれだけだった。


「鼻で変と思うたら、足を止めろ。考えるのは、その後じゃ」


バルドが言った。


「鼻を信用してよいのか」


「お前の頭よりは、早い」


ひどい。だが、反論材料が少ない。

この二人は、私より私に詳しい。


ユルダは軒下に草を吊るしていく。青い束を一つ。


「これは触るな」


「毒か」


「薬じゃ」


「なら触っても」


「薬は、量を間違えると毒じゃ」


別の束を、私の届かない高さに上げる。


「それは」


「毒じゃ」


「では、なお触らない」


「薬にもなる」


面倒だ。薬と毒は、この世界でも仲が良いらしい。


ユルダは干し草の下の浅い皿を、足で少しずらした。灰のような粉が薄く敷かれている。


「この皿を蹴るな」


「乾燥用か」


「虫除けじゃ。あと、お前除けじゃ」


私は一歩下がった。正しい判断だ。


壁際に、腰ほどの高さの甕があった。蓋がしてある。

ユルダが片手で持ち上げる。


水は澄んでいた。ただ、底に灰色の砂のようなものが薄く積もり、光の角度で鈍く光る。


「底に、何か」


「砕いた魔物の核じゃ。悪いものが、寄って、沈む」


「ずっと?」


「色が変わったら、替える」


引き寄せて、沈める。色が変わるまで留め、変わったら捨てて、新しい核を入れる。

ようするに、これは。


ユルダは懐の布袋から、白い粉を指の先でひとつまみ、水へ落とした。

粉は、すぐに見えなくなった。


「それは、毒、ではなかったか」


「毒じゃ」


「殺す気か」


「殺す気じゃ」


私は息を、半分だけ吐いた。


「私を」


「悪いものを、じゃ」


ユルダは蓋を戻した。


「お前が飲む頃には、毒は薄まる。悪いものは、その前に、死んどる」


ようするに、これは、沈殿浄水と、塩素処理だ。


前世では、水道局という、もう少し機械の多いところが、毎日やっていた。ここでは、ユルダが、甕でやっていた。

機構の名は、現地語にはたぶん、ない。だが、原理は同じだった。


「水も、勝手に飲むな」


「儂らが、分けた方だけ飲め」


「井戸の水を、そのまま飲めば」


「死ぬか」


「治療しないと、死ぬ。治療は面倒じゃ」


私は、深く納得した。


家の裏手へ回ると、地面の色が変わった。

黒っぽい苔が、石の間に薄く広がっている。湿っているのに、光を吸うような色だ。


「踏むな」


ユルダとバルドが、同時に言った。


私は足を止めた。

同時に言われるものは、たぶん危ない。


「毒か」


「滑る」


「滑るだけ?」


「滑った先が悪い」


バルドが杖で苔の向こうを示した。少し先に、細い沢がある。水は澄んでいるのに、水面の上だけ、空気がわずかに歪んで見えた。


「夕方に渡るな」


「朝ならよい?」


「儂かユルダがいればな」


「ひとりでは」


「朝でも渡るな」


「昼は」


「渡るな」


「条件を整理すると、私は渡ってはいけない」


「そうじゃ」


最初からそう言えばいいのに。


沢の向こうの森は、こちらと色が違う。葉の緑が濃く、幹の影が深い。鳥の声はするのに、どこから鳴いているのか分からない。


私は息を吸った。


鼻の奥で、何かが細く鳴った。

音ではない。匂いでもない。けれど、近づきすぎるな、という形だけが分かる。


「あそこは、悪い」


私が言うと、二人が顔を見合わせた。


「何が悪い」


「分からない。だが、鼻の奥で、細いものが鳴る」


「なら今日は近づかん」


バルドが即座に言った。


軽い。だが、疑ってはいない。

それが少し変だった。私自身、何を言っているのか分からないのに。


「信用するのか」


「鼻は嘘をつかん」


ユルダが言った。


「人は嘘をつく。お前の口は、余計なことも言う」


「否定はしない」


私は首から下げた小袋に手を伸ばしかけた。

ユルダが見た。


「入れるな」


「確認しただけだ」


「確認も、鼻の前でするな」


豆は袋の中で、一度だけ揺れた。それで十分だ。


今日は、豆の数ではなく、足を止める場所を覚える日らしい。

家の戸口。工房の石。虫除けの皿。黒い苔。夕方の沢。鼻の奥で細く鳴る森。


覚えるものが多い。


「谷の掟じゃ」


バルドが言った。


「書いてあるものは」


「お前は読む前に触る」


「見るだけなら」


「お前の見るは、触る前じゃ」


前にも聞いた。規則というのは、何度も言われるものらしい。


「お前は、儂らの所に来てから、二度、死にかけておる」


「昨日のことか」


「もっと小さい頃じゃ。油断したわい。死なせてしもうたかと思った」


バルドはそれ以上、語らなかった。


私は、黒い苔の手前で、膝を揃えて立った。できるだけ上品に。

鼻の奥は、まだ細く鳴っている。


朝、名を呼ばれて首が動いた。

工房の前で、足が半歩出た。

この沢の前で、足は止まっている。


名も、場所も、戸締まりだ。

そして身体は、私より先に、戸を開ける。


だから二人は、戸を閉める係を、私に教えている。


「今言うたことは、だいたい全部、お前を一度は殺しかけとる。気をつけい」


この谷では、分からないものへ近づく前に、まず止まる。


かなり難しい。


[名前 了]


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