名前
豆を出す魔法は、夢の中では完成していた。
右の手を開くと、一粒。
左の手を開くと、二粒。
呼吸に合わせて、鼻から直接生成もできる。
美しい。
そう思ったところで、目が覚めた。
手のひらには何もなく、鼻も澄んでいた。
そして、豆壺がない。
非常に悪い目覚めだ。
頭の表面はまだ熱い。
包帯が巻かれているところだけ、皮膚が自分のものではないように重かった。
だが、昨日より世界は遅れていない。
部屋の隅の紙束が、紙束として見える。
黒い石の輪も、穴の開いた骨のようなものも、同じ速さでそこにある。
部屋はあたたかい。
かまどの方で、粥が小さく鳴っている。
煙と、乾いた草と、少しだけ鉄の匂い。
豆壺だけが、見当たらない。
「ナラム」
入口の方から声がした。
肩がピクリと跳ねた。
私は天井を見たまま、黙っていた。
知らない誰かが呼ばれたのだろう。
「おい、ナラム」
老爺の声だった。
私は少し考えた。
この部屋には、私と老爺しかいない。
老婆の気配は、かまどの方にある。
つまり。
「私か?」
「お前じゃ」
名は、戸を叩く音に似ていた。
自分だと知っていれば、開ける。
知らなければ、板の向こうで鳴っているだけだ。
「ついでに、あなたの名は」
「バルド」
短い。
名乗るというより、置いた、という感じがした。
「かまどの方は」
「ユルダじゃ」
かまどの方から、ユルダが答えた。
「バルドさんと、ユルダさん」
「さんはいらん」
「礼儀として」
「呼び捨てろ。名に余計なものを足すな」
名前に余計なもの。
敬称まで危険物扱いされるとは思わなかった。
「バルド。ユルダ」
口に出すと、まだ少し硬い。
だが、さっきよりは、相手に札が掛かった気がした。
名を呼べる相手と、呼べない相手。家の中には、呼べる相手が二人いる。
バルドは椀を片手に立っていた。もう片方に木の匙。
朝から匙。昨日の敗北を思い出す。
「ナラムというのは、私のことか」
「そう呼んどる」
「昨日も?」
「昨日も」
「私は返事をしていた?」
「半分くらいは」
半分。名前としては、かなり弱い。
「残り半分は」
「アホ面で豆を見ているか、空を見ていた」
それは仕方ない。
バルドは椀を寝床の横へ置いた。湯気が立っている。薄い粥だ。草の匂いがする。
豆ではない。
「飲め」
「名前の説明は」
「飲みながら聞け」
私は上体を起こした。
頭の後ろがずきりとする。身体が小さい。腹に力が入らない。
バルドの手が背中に回った。乱暴に支えられた。だが、痛むところには当たらない。
腹立たしいほど慣れている。
「ナラム」
今度は、かまどの方からユルダが言った。
私が返事をする前に、肩が動いた。
ほんの一拍。首が、そちらを向こうとした。
私は止まった。
「いま、私より先に身体が反応した」
「そりゃそうじゃろ」
ユルダが椀をもう一つ持って来た。自分の分らしい。
「呼ばれ慣れた名じゃ。耳より先に、首が覚える」
名前は、脳だけで処理されるわけではないらしい。
少なくとも、この身体は「ナラム」という音を知っている。私は知らない。
その差が、少し気持ち悪かった。
自分の身体に、知らない引き出しがある。
誰かが外からそれを呼ぶと、私の意思を通さず、首だけが、勝手に戸を開けようとする。
「前の名なら分かる」
私が言うと、ユルダは粥をすすりながら、目だけをこちらへ向けた。
「今はいらん」
「重要では」
「頭が割れとる時に、名を増やすな」
「大丈夫だ。適切な処置だった」
「うるさいわ」
ユルダは、匙の先で椀の縁を、軽く叩いた。
「名は、紐じゃ。持っとる者が増えると、引く者も増える」
引く者。
誰が引くのかは、言わなかった。
私も、聞かなかった。
聞いても、たぶん、今はいらん、と言われる。
だが、紐の端を、誰が握っているかは、見えない。
見えないので、少し腹が立つ。
*
ユルダが、私を試すように、呼んだ。
「ナラム」
「はい」
「豆」
「はい」
二人が黙った。
私は椀を持ったまま、少しだけ視線を逸らした。
「いまのは、返事ではなく条件反射だ」
「悪化しとるの」
失礼な。
豆に反応することは、悪化ではない。世界へ適切に応答しているだけだ。
「いいか」
ユルダは、棚の上へ手を伸ばした。
高い。私の手では、絶対に届かない。
そこに豆壺があった。蓋をされ、紐までかけられている。
信用がない。
ユルダは紐をほどき、蓋を開け、豆を一粒つまんだ。赤茶色で、丸い。
私は、椀を置いた。
「置くな」
「手を清める必要がある」
「鼻へ運ぶ準備をするな」
なぜ分かる。
ユルダは豆を、私の手のひらに置いた。
私は固まった。
来た。
世界は、まだ私を見捨てていない。
「入れるな」
「まだ何もしていない」
「する顔じゃ」
豆は軽い。だが、たしかにある。
夢の中で出した豆でも、魔法で出した豆でもない。現実の豆だ。
「これは何の豆だ」
「名の重しじゃ」
「食べ物では」
「今は違う」
「鼻では」
「なお違う」
ユルダは私の手を包むようにして、指を閉じさせた。
皺だらけの手は、乾いていて、温かい。
「呼ばれても、返事をする。豆を持っていても、鼻には入れん」
「条件が多い」
「生きるとはそういうもんじゃ」
バルドが言った。
その言い方は少しずるい。大抵の面倒なことに使えてしまう。
私は豆を握ったまま、粥を飲んだ。
苦い。昨日より、少し薄い。
頭は痛い。包帯は重い。名前は、まだ私の中へうまく入ってこない。
だが、手のひらの豆は、よく収まっていた。重しというには軽いのに、握っていると、名前の方が逃げにくくなる気がした。
「ナラム」
「はい」
「豆」
私は手を握りしめた。
返事はしなかった。
かなり成長したと思う。
*
粥を飲み終えると、バルドが戸を開けた。
外の光が入ってきた。
私は首から下げられた小袋を押さえた。中で、名の重しが一度だけ揺れる。
「行くぞ」
私は土間の段差を越えた。外の土は柔らかく、湿った葉が靴底で潰れる。
家の横に、母屋より大きい離れがあった。戸口のあたりが黒く、煙突が太い。壁に焦げ跡と、細い金具と、黒い石の欠片が埋まっている。
工房だ。
非常に入りたい。
「見るな」
「まだ見ていない」
「足が見とる」
足。
私は自分の足を見た。たしかに、工房の方へ半歩、出ていた。
朝、名を呼ばれて首が動いた。
いまは、工房に足が向かう。
この身体は、私の意思を通さずに、戸を開ける。
「あそこは」
「入るな」
「何がある」
「入ったら死ぬものと、死なんが怒られるものじゃ」
「分類が粗い」
「お前には十分じゃ」
十分ではない。
だがバルドは、工房の戸口から少し離れた石を杖で示した。
地面に半分埋まり、表面に細い線が三本、刻まれている。
「これを抜くな」
「抜けそうに見えない」
「お前は、抜けそうに見えんものも抜く」
否定できない気がした。この身体の前科は多い。
家の周りを、同じような石が間隔を空けて囲んでいた。どれも半分沈み、線か点が刻まれている。
垣根ではない。結界か。何の結界かは知らないが、結界が要る場所なのだ。
その境界を越えると、鼻の奥が重くなる。
私は立ち止まった。
「どうした」
いつの間にか、ユルダが籠を抱えて出ていた。
「ここから先、匂いが重い」
「風かもしれん」
「なら、止まれ」
「止まっている」
「次もそうせい」
説明はそれだけだった。
「鼻で変と思うたら、足を止めろ。考えるのは、その後じゃ」
バルドが言った。
「鼻を信用してよいのか」
「お前の頭よりは、早い」
ひどい。だが、反論材料が少ない。
この二人は、私より私に詳しい。
ユルダは軒下に草を吊るしていく。青い束を一つ。
「これは触るな」
「毒か」
「薬じゃ」
「なら触っても」
「薬は、量を間違えると毒じゃ」
別の束を、私の届かない高さに上げる。
「それは」
「毒じゃ」
「では、なお触らない」
「薬にもなる」
面倒だ。薬と毒は、この世界でも仲が良いらしい。
ユルダは干し草の下の浅い皿を、足で少しずらした。灰のような粉が薄く敷かれている。
「この皿を蹴るな」
「乾燥用か」
「虫除けじゃ。あと、お前除けじゃ」
私は一歩下がった。正しい判断だ。
壁際に、腰ほどの高さの甕があった。蓋がしてある。
ユルダが片手で持ち上げる。
水は澄んでいた。ただ、底に灰色の砂のようなものが薄く積もり、光の角度で鈍く光る。
「底に、何か」
「砕いた魔物の核じゃ。悪いものが、寄って、沈む」
「ずっと?」
「色が変わったら、替える」
引き寄せて、沈める。色が変わるまで留め、変わったら捨てて、新しい核を入れる。
ようするに、これは。
ユルダは懐の布袋から、白い粉を指の先でひとつまみ、水へ落とした。
粉は、すぐに見えなくなった。
「それは、毒、ではなかったか」
「毒じゃ」
「殺す気か」
「殺す気じゃ」
私は息を、半分だけ吐いた。
「私を」
「悪いものを、じゃ」
ユルダは蓋を戻した。
「お前が飲む頃には、毒は薄まる。悪いものは、その前に、死んどる」
ようするに、これは、沈殿浄水と、塩素処理だ。
前世では、水道局という、もう少し機械の多いところが、毎日やっていた。ここでは、ユルダが、甕でやっていた。
機構の名は、現地語にはたぶん、ない。だが、原理は同じだった。
「水も、勝手に飲むな」
「儂らが、分けた方だけ飲め」
「井戸の水を、そのまま飲めば」
「死ぬか」
「治療しないと、死ぬ。治療は面倒じゃ」
私は、深く納得した。
家の裏手へ回ると、地面の色が変わった。
黒っぽい苔が、石の間に薄く広がっている。湿っているのに、光を吸うような色だ。
「踏むな」
ユルダとバルドが、同時に言った。
私は足を止めた。
同時に言われるものは、たぶん危ない。
「毒か」
「滑る」
「滑るだけ?」
「滑った先が悪い」
バルドが杖で苔の向こうを示した。少し先に、細い沢がある。水は澄んでいるのに、水面の上だけ、空気がわずかに歪んで見えた。
「夕方に渡るな」
「朝ならよい?」
「儂かユルダがいればな」
「ひとりでは」
「朝でも渡るな」
「昼は」
「渡るな」
「条件を整理すると、私は渡ってはいけない」
「そうじゃ」
最初からそう言えばいいのに。
沢の向こうの森は、こちらと色が違う。葉の緑が濃く、幹の影が深い。鳥の声はするのに、どこから鳴いているのか分からない。
私は息を吸った。
鼻の奥で、何かが細く鳴った。
音ではない。匂いでもない。けれど、近づきすぎるな、という形だけが分かる。
「あそこは、悪い」
私が言うと、二人が顔を見合わせた。
「何が悪い」
「分からない。だが、鼻の奥で、細いものが鳴る」
「なら今日は近づかん」
バルドが即座に言った。
軽い。だが、疑ってはいない。
それが少し変だった。私自身、何を言っているのか分からないのに。
「信用するのか」
「鼻は嘘をつかん」
ユルダが言った。
「人は嘘をつく。お前の口は、余計なことも言う」
「否定はしない」
私は首から下げた小袋に手を伸ばしかけた。
ユルダが見た。
「入れるな」
「確認しただけだ」
「確認も、鼻の前でするな」
豆は袋の中で、一度だけ揺れた。それで十分だ。
今日は、豆の数ではなく、足を止める場所を覚える日らしい。
家の戸口。工房の石。虫除けの皿。黒い苔。夕方の沢。鼻の奥で細く鳴る森。
覚えるものが多い。
「谷の掟じゃ」
バルドが言った。
「書いてあるものは」
「お前は読む前に触る」
「見るだけなら」
「お前の見るは、触る前じゃ」
前にも聞いた。規則というのは、何度も言われるものらしい。
「お前は、儂らの所に来てから、二度、死にかけておる」
「昨日のことか」
「もっと小さい頃じゃ。油断したわい。死なせてしもうたかと思った」
バルドはそれ以上、語らなかった。
私は、黒い苔の手前で、膝を揃えて立った。できるだけ上品に。
鼻の奥は、まだ細く鳴っている。
朝、名を呼ばれて首が動いた。
工房の前で、足が半歩出た。
この沢の前で、足は止まっている。
名も、場所も、戸締まりだ。
そして身体は、私より先に、戸を開ける。
だから二人は、戸を閉める係を、私に教えている。
「今言うたことは、だいたい全部、お前を一度は殺しかけとる。気をつけい」
この谷では、分からないものへ近づく前に、まず止まる。
かなり難しい。
[名前 了]




