鼻に入れる豆ではない
酷い、と評された私は、ひとまず姿勢を正した。
三歳児の身体であっても、背筋を伸ばすことはできる。
椅子は少し高く、足は床に届かない。だが、膝を揃え、手を置き、相手の目を見るくらいはできた。
「ひどくはない」
口から出た音は、やはり知らない言葉だった。
だが意味は通じる。
老婆は、まぶたを指で押し上げ、私の目をのぞきこんだ。
「ひどいのは、そこではない」
失礼な。
老爺が、水の入った鉢と、布と、小さな木箱を持ってきた。
木箱の中には、乾いた葉、黒い根、白い粉、細い針のようなものが並んでいる。
針のようなもの、であってほしい。
用途を当てるには、私の頭は痛すぎた。
「吐いたか」
老婆が聞く。
「吐いてない」
「めまいは」
「ある」
「どれくらいじゃ」
「頭の中で、世界が少し遅れている」
老婆と老爺が顔を見合わせた。
「いつもよりは、ましじゃな」
老爺が言った。
いつもより。
私は、この身体でいったい何をしていたのだろう。
老婆は、私の頭に水をかけた。
冷たい。
「痛い。冷たい」
「生きとるからじゃ」
「生きていることと苦痛は、論理的には別では」
「口は元気じゃな」
布が頭に押し当てられた。
乱暴だった。
だが、傷口をこする指の力は、ぎりぎりで止まっていた。
雑に見えるのに、深いところへは触れない。
老婆は水を一度捨て、もう一度洗った。
細い針のようなもので、傷の縁から砂粒と木屑らしきものを拾い出す。
白い粉を溶いた水で布を濡らし、傷の周りを拭う。
しみる。
これは、かなり消毒に近い。
前の世界なら、こういう傷は破傷風のようなものを警戒する場面だ。
この老婆がそれを同じ言葉で知っているかは分からない。だが、やっていることは正しい。
血の流れを見る目つきも、皺だらけの顔に似合わず冷えている。
手つきだけなら乱暴。
判断は、かなり細かい。
老婆は乾いた葉を二枚取り、指で折った。
茎は捨てた。
葉の裏だけを爪で削り、黒い根の粉を少し混ぜ、石の上ですり潰す。
匂いが立った。
青い。
苦い。
土と煙の奥に、甘いような、鼻の奥を細く開かせるような匂いがある。
私は思わず息を吸った。
「嗅ぐな」
「もう嗅いだ」
「なら次から嗅ぐな」
ひどい教育方針だ。
薬草らしきものを傷口に塗られると、頭の表面が熱くなった。
痛みとは少し違う。皮膚の下を小さな虫が歩くような、ぞわぞわした感覚がある。
老婆は、傷口ではなく、私のこめかみと後頭部のあたりに皺だらけの手をかざした。
黙ったまま動かない。
私もなんとなく、つられて黙っていた。
薬草の熱が、一瞬だけ輪を描くように揃った。
頭の中で遅れていた世界が、急に同じ速さへ戻る。
胸と腹の奥、太腿の奥に残っていた痛みも、少しだけほどけた。
ただ、頭の傷そのものは閉じていない。
表面はまだ熱く、ひりひりしている。
「いま、何かした?」
「手当てじゃ」
「塗っただけじゃない」
薬草の効き方ではない。
少なくとも、私の知る薬理ではない。
「……魔法か?」
老婆が一瞬だけ目を細めた。
「言葉だけは早いの」
当たった。
わお。魔法がある世界に来ていたらしい。
「魔法」
自分で言って、胸の奥が跳ねた。
「魔法があるのか」
「はしゃぐな。頭が開いとる」
「閉じていないのは、そちらの方針では」
「口も閉じとけ」
「中を少し寄せた。外はまだ塞がん」
「なぜ」
「汚れを閉じ込めると腐る。膿むと面倒じゃ」
老婆は私の服をつまんだ。
「これも替える」
「何を」
「服じゃ。水と血と薬草で、座らせておくには汚い」
確かに、頭へ水をかけられたせいで、首元から胸のあたりまで濡れている。
血も少し染みている。
薬草の匂いもする。
私は、わりと処置済みの野菜に近かった。
老婆は私の脇に手を入れ、椅子から下ろした。
三歳児の身体は軽い。
私の尊厳も軽い。
「自分で脱げる」
「遅い」
「尊厳が」
「崖から綺麗に飛び降りた者が言うな。見事な飛び方じゃったぞ」
それは強い。
私はおとなしく腕を抜いた。
濡れた布が肩を滑った時、視界の端に白い線が見えた。
最初は、服の糸くずかと思った。
違った。
肩に、細い傷跡があった。
白く、少し硬そうな線。
そこだけ皮膚の色が違う。
私は反対側の腕を見た。
肘の近くにも、短い傷がある。
胸の下には、薄く引きつれた跡。
鳩尾の少し下に、小さな丸い跡が二つ。
脇腹には、斜めに走る細い線。
膝には、転んだ痕にしては古すぎる丸い跡。
足首の近くにも、火傷のような跡がある。
三歳児の身体である。
なのに、古傷の密度だけ歴戦の勇者だ。
私は少し黙った。
自分の身体なのに、初めて見る。
いや、正確には、この身体を初めてまともに観察している。
「この身体、古傷が多いな」
老婆は乾いた布で私の肩を拭いている。
反応が薄い。
「何と戦ったんだ」
老爺が土間の方から言った。
「お前じゃ」
ひどい。
ひどいが、たぶん事実だ。
「私は、敵だったのか」
「今もじゃ」
「老爺の敵か」
「お前の敵じゃ」
老婆が私の脇腹を押した。
少し痛い。
「ここは」
「沢の石」
「これは」
「工房の戸口」
「これは」
「薬草棚」
「薬草棚は攻撃してくるのか」
「お前が攻撃した」
私は静かに息を吐いた。
幼児期の私。
かなり活動的だったらしい。
そして、かなり迷惑だったらしい。
「治せなかったのか」
口にしてから、少し失礼だったかと思った。
老婆の手は止まらなかった。
「治したから生きとる」
「傷跡は残っている」
「すぐ塞げば残らん」
「なら、なぜ」
老婆は私の肩に乾いた布を押し当てた。
「傷の中に土や虫や毒が残っとったら、塞いだ分だけ中で育つ。お前は特に、余計なものを付けて帰ってくる」
余計なもの。
虫。
毒。
土。
たしかに、魔法のある世界である。
普通の土ですら、普通とは限らない。
「内部の傷は寄せる。血も止める。息も戻す。じゃが外は洗ってからじゃ。急いで閉じると、あとで腐る」
かなり正しい。
外科的にも正しい気がする。
私の前世知識が、老婆に一票入れた。
「では、この傷跡は」
「生き残った跡じゃ」
言い方は雑だが、内容は重かった。
私は自分の胸の白い線を見た。
生き残った跡。
歴戦の勇者ではない。
歴戦の私である。
意味が分からない。
着替えが終わると、私はもう一度椅子へ戻された。
私は椅子の縁を握った。
「それ、私にもできる?」
「できるようにはしとった」
老爺が笑った。
「さきほど、無駄にしたがの」
笑い事ではない。
だが、どう考えても悪いのは私だ。
しかし、魔法とは。
詠唱も格好いいが、無詠唱こそ花形だ。
無詠唱ができるなら、デタラメな詠唱もできるし、空も飛べるかもしれない。
そしてこの老婆、かなりできる。
何ができるのかは、まだ分からない。
だが、少なくとも、三歳児の頭を雑に扱って死なせない程度には、できる。
部屋の中へ目を逃がす。
本はない。
少なくとも、本棚に並んだ背表紙のようなものは見当たらない。
その代わり、紙束がある。
紐で縛られ、棚に押し込まれ、壁際の箱にも入っている。
紙の端には、文字なのか図なのか分からない線が見えた。葉の形、骨のようなもの、輪を重ねた模様、刃物の寸法らしきもの。
読みたい。
読めるかどうかは分からない。
だが、読みたい。
その横に、用途の分からない道具が並んでいた。
黒い石の輪。
細い銀色の針金。
手のひらより小さな槌。
穴の開いた骨のようなもの。
生活の道具にしては、どれも妙に整っている。
家の壁は歪んでいるのに、道具だけが正確だった。
「見るな」
老爺が言った。
「見ているだけだ」
「お前の見るは、触る前じゃ」
「見ると触るは別の行為だ」
「お前は別にせん」
この身体の前科が多すぎる。
私は、ひとまず手を膝の上に戻した。
できるだけ上品に。
老爺が少し目を細めた。
「所作だけは、妙に良いんじゃがな」
「褒め言葉として受け取る」
「所作以外すべてが悪い」
今のところ、私はかなり、いい感じだと思う。
老婆は包帯を結び、私の顎を上げた。
「鼻は打っとらんな」
「鼻は重要だ」
「知っとる」
知っているのか。
私は少し安心した。
この家には、鼻の重要性を理解する土壌があるのかもしれない。
「なら、豆を」
「なら、の繋がりが分からん」
老婆が即座に言った。
分かってほしい。
鼻の状態を確認するには、基準物が要る。
前の体との比較は不可能になったし、半年前にやったらしい検証は覚えていない。
ならば、せめて今の体の初期値を取るべきだ。
私は棚の隅を見た。
小さな壺がある。
蓋は少しずれていた。
中に、赤茶色の粒が見えた。
豆だ。
世界は、まだ私を見捨てていない。
私は椅子から降りようとした。
足が床に届かないので、少し滑った。
老爺が片手で私の襟を掴んだ。
「どこへ行く」
「豆を見に」
「座っとれ」
「見るだけだ」
「お前の見るは、入れる前じゃ」
前科が具体的になってきた。
私は襟を掴まれたまま、壺へ手を伸ばした。
届かない。
身体が小さい。
非常に不便だ。
老婆が壺を手に取った。
—豆を、くれるのかもしれない。
胸の奥が跳ねた。
老婆は蓋を開け、豆を一粒つまむ。
丸い。
小さい。
小豆より少し大きいかもしれない。
表面には薄い艶があり、乾き方は悪くない。
よい豆だ。
私は真剣にうなずいた。
しかし一つだけとは。
「それを」
「何に使う」
「鼻に」
老婆は、私の手の届かないところへ豆を上げた。
「その豆は、鼻に入れる豆ではない」
「では、どの豆なら鼻に入れてよい?」
「ない」
「そんなことはない。世界に豆がある以上、鼻との関係は検討されるべきだ」
「そうかも知らんな」
「この身体の容量を知らない」
「知らんでよい」
「よくない。私は、前の鼻の記録を失った。今の鼻だけでも測らねば、連続性が」
老婆の指が、私の鼻先をつまんだ。
「鼻血は出とらん」
「ふが」
「骨も曲がっとらん」
「ふがが」
「息は通る」
老婆は手を離した。
「なら今日は終わりじゃ」
違う。
今のは医学的な確認であって、容量評価ではない。
そう言おうとしたが、口の中に木の匙が入ってきた。
老爺が、椀を持っていた。
中身は薄い粥のようなものだ。
湯気が立っている。草の匂いがする。豆ではない。
「飲め」
「豆は」
「飲め」
「豆は」
「飲んだら、考えてよい」
私は飲んだ。
苦い。
「考えた。豆を」
「寝ろ」
交渉が成立していない。
だが、粥は胃に落ちた。
落ちると、身体が急に重くなった。
痛い。
眠い。
頭の表面が熱い。
鼻の奥には、まだ薬草の匂いが残っている。
私は椅子の上で姿勢を保った。
膝は揃えている。
手も置いている。
たぶん、かなり行儀がよい。
だが目線は豆壺から離れなかった。
老婆が鼻で笑う。
「やっぱり、困らんな」
「何が」
「忘れても、お前はお前じゃ」
それは、良いことなのだろうか。
少なくとも、今の私には判断材料が足りない。
この身体の名前も、ここがどこかも、この老夫婦が何者かも分からない。
分かっているのは、頭が痛いこと。
この家の道具が妙に良いこと。
老婆の手当てが乱暴で正確なこと。
老爺が私の行動を先読みしていること。
そして、豆と魔法があること。
豆があるなら、明日がある。
私はそう結論づけた。
かなり妥当な結論だと思う。
「寝床へ運ぶぞ」
老爺が言った。
「自分で歩ける」
そう言った直後、足が椅子の縁を探し損ねた。
老爺に抱え上げられる。
屈辱だ。
だが、三歳児の身体は軽いらしい。
視界が揺れ、紙束と道具と豆壺が遠ざかる。
老婆が壺に蓋をした。
わざわざ紐までかけた。
信用がない。
「明日」
私は言った。
「何じゃ」
「明日、豆を測る」
「寝ろ」
「他の豆もあれば用意しておいてくれ」
「寝ろ」
寝床は硬かった。
布は古いが、洗われている。
煙と草と、少しだけ鉄の匂いがする。
私は目を閉じた。
前の鼻に小豆が幾つ入ったかは、もう分からない。
だが、この体の鼻なら、まだ間に合う。
明日、この体で、新しい豆を、試す。
私はその決定を胸に刻んだ。
魔法で、いつでも豆を出せるようにもしたい。
眠りは、不自然なほどすぐに来た。
[鼻に入れる豆ではない 了]




