崖
気がついたら、知らない体に転生していた。
前の体はどうなったのだろうか。
あずきは、幾つを数えたのだったか。
最後の記憶は、鼻の穴に小豆が何個入るかを検証していた、何気ない記憶だ。
その日も、その前も、退屈でも平穏な日々だった。
死の予感など、少しも抱いていなかったのに。
—一体、いくつ入ったんだろうか。
今の私には、もうあの体の鼻に、幾つの小豆が入るかを知る術はなくなってしまったのかもしれない。
転生と言っても、赤子ではない。
自分の足で歩ける、三歳くらいの幼児の体だ。
理由は分からないが、状況から見て、私はこの崖から落ちてきたらしい。
ただ、崖の真下にいる、というには少しだけ位置がずれている気がした。落ちたというより、横へ流されたような。
—この体は、幾つのあずきを数えるだろうか。
身体中が痛み、頭からは血が滴っている。
崖の縁に、老婆が立っていた。
私を助けようともせず、ただ黙って見下ろしている。
状況証拠的には、彼女が落としたのかもしれないが……
「見てないで助けてよ!」
そう叫んだつもりだった。
だが私の口から出たのは、聞いたこともない音だった。
意味は、分かる。
自分が何を言ったのかも、分かる。
どうやら、言葉には困らないらしい。
「もうじいさんが向かったから待っておれ! お前はそれくらいじゃ死なん!
突然、『飛べる気がする』とか、また馬鹿なことを言いながら飛び降りおって」
そんな馬鹿なことは言うまい。大方、老婆も混乱しているのだろう。
おそらく、「滑空からなら飛べる気がする」とか、その程度だ。
ケツァルコアトルスや大型のコンドルはロマンだ。
それはそれとして、私は転生したらしい。
*
老爺の後について家へ向かう間、私はずっと考えていた。
転生。
小豆。
記憶。
小豆。
死後の魂の連続性。
大豆。
そういう問題も、確かにある。
だが今はそれよりも、
「あの高さから落ちて生きてるんだ……」
という感想の方が強かった。
老爺も、特に慌てた様子がなかった。
この世界の人間は頑丈なのか。
それとも、私が異常なのか。
多分、後者だろう。
家は森の外れにあった。
小屋、というほど粗末ではないが、裕福さとは無縁の木造家屋だ。
老夫婦の手作りかもしれない。
その横には、いま連れてこられた家より大きい離れがあった。
戸口のあたりが黒く、太い煙突が一本出ている。
中に入ると、少し印象が変わった。
本らしいものは見当たらないが、紐で束ねられた紙がいくつも積まれ、筆、刃物、金具、乾かした草が、用途ごとに分けられている。
用途の分からない道具らしきものも、いくつか並んでいた。
家の粗さと、中にあるものの質が釣り合っていない。
老爺は私を椅子に座らせると、乱暴な手つきで包帯を巻いた。
痛い。
「のう」
向かいで老婆が口を開く。
「どこまで覚えとる」
鋭い。
私は少し考えた。
「豆を鼻に詰めていた」
老爺と老婆が顔を見合わせた。
「最後に見たのは半年前くらいじゃな。その後のことは、頭を打ったせいで、忘れてしもうたのかもしれん」
老婆が言う。
私はこの老夫婦に、少なくとも半年は世話になっているらしい。
しかも、その頃の私も豆を鼻に詰めていた。
つまり、私は転生直後から、かなり私だったのだろう。
おそらく、成長や体の変化による豆の収納量の増加を追いたかったのだ。
ならば。
—いくつ、入ったのだろうか。
いや、それよりも。
「どの豆だ? 見せてくれ」
私の要求を聞き流し、老婆が言った。
「名前は分かるか」
分からない。
いや、違う。
自分の名前なら分かる。
だがそれは、この身体の名前ではない。
私は少し迷ってから答えた。
「わからない」
「豆の記憶から先は、ずっとか?」
「生まれてから全部? なにもわからん」
老婆は一瞬考えてから鼻で笑った。
「なら、別に困らんな」
軽い。
「お前、元から昨日のことも怪しかったしの」
「三歳児の記憶なんぞ、大半は泥遊びじゃ」
それもそうかもしれない。
「お前は、もっと酷いがな」




