第九章 偽りの勝利
王都の塔の上で、直樹は王の前に立っていた。三月前まで深夜の工場で日報を書いていた男が、玉座の前で世界の救済法を語っている。彼は思った。これは夢だ、と。
謁見の間は、想像していたよりもずっと静かだった。大理石の床に、自分の足音が響いた。十五歳の少年の歩幅で、彼は玉座の前まで歩いた。途中、宮廷魔術師たちが両脇に並んでいた。皆、白い長衣を着て、皆、無表情だった。
国王は四十代の男だった。痩せていて、眼の下に深い隈があった。最近の世界の異変で、彼もまた、ろくに眠れていないのだろう、と直樹は思った。
「あなたが、あばれ読みのカイレンか」
「はい」と直樹は答えた。
「セリディア嬢と宮廷魔術師長の推薦を受けた。発表をしてもらいたい」
直樹は持参した樹皮紙の束を、傍らの机に広げた。
「世界全体のあばれは、特定の七カ所の応力集中点を矯正することで、止められると考えています」
ざわめきが起きた。直樹は構わず続けた。
「応力集中点というのは、現在、世界の歪みが集まっている地点のことです。私が三月の間、村と森と街道沿いで取った数字を分析した結果、応力は無作為に分布しているわけではなく、特定の七つの場所に集まっています。その七点を矯正すれば、世界全体のあばれは一気に解消するはずです」
「矯正、というのは、どうやって」と国王が問うた。
「木取りの応用です」と直樹は答えた。「木取り、というのは、一枚の板から部材を切り出すときに、木目の向きや応力の分布を読んで、最も歪みの出にくい配置で切る技術です。世界という大きな板を、木取りの理論で読むのです」
国王は黙って、紙束に目を落とした。直樹の図面と数字を、しばらく見つめた。やがて、彼は宮廷魔術師長を呼んだ。
「これは、本当か」
「数値の理論は」と魔術師長が答えた。「我々の魔術理論と、不思議なほど対応しております。我々が魔素流動と呼ぶものを、彼は応力と呼んでいる。同じものを、別の言葉で説明しています」
「ならば、信じてよいか」
「実証は、いまだございません。しかし」魔術師長は咳ばらいをした。「彼が辺境の三つの村のあばれを止めた事実は、確認しております」
国王は長い時間、目を閉じていた。それから、ゆっくりと目を開けた。
その目に、深い疲労があった。何ヶ月も、彼は世界の崩壊の報告を、受け続けてきた。地方の村々の悲鳴。北の山岳地帯の岩盤の歪み。南の砂漠の地平線の傾き。すべての報告書が彼の机の上に、積まれてきた。彼は、寝ずに、それらを読んできた。だが、答えは、見つからなかった。
今日初めて、彼の前に、答えの形をした何かが、立っていた。十五歳の少年の体をした、よその世界の魂。
「カイレン殿。あなたを王宮の客分として遇する。七点の矯正作業に必要なすべての権限を、あなたに与える。我が王国の総力を、あなたの図面のために動かす」
直樹はゆっくり頭を下げた。
頭を下げながら、彼は、なぜ自分が、と思っていた。
なぜ、自分なのか。なぜ、他の誰でもなく、自分なのか。
答えはたぶん彼の十年だった。彼が、十年間、誰にも読まれない数字を、書き続けてきた。その積み重ねが、世界を救うための、唯一の鍵に、なっていた。
別の誰かが、別の積み重ねを持っていたら、その人が、選ばれただろう。だが、たまたま、彼の積み重ねが、ここで、必要とされていた。
それは、運命と呼ぶには、地味で、確かなものだった。
その夜、王宮の小ホールで、彼を迎える宴が開かれた。
セリディアが、青いドレスを着て現れた。昼の馬車旅では見せなかった姿だった。彼女は直樹の前に来て、酒杯を差し出した。
「礼を言うわ。私の判断を、信じてくれて」
「ご令嬢が、最初に俺の紙を読んでくれたから、ここまで来ました」
「私の名はセリディア。令嬢は要らない」
「セリディア様」
「様も、要らない」
「セリディアさん」
彼女は笑った。
「いいわね。それで」
直樹は照れて、頬が赤くなった。十五歳の体は、感情の動きに弱い。三十四歳の魂が落ち着こうとしても、肉体が反応してしまう。
セリディアはその照れを、興味深そうに、見ていた。
「あなた、不思議な人ね」と彼女は言った。「十五歳の少年なのに、目だけ、五十歳くらいに見える」
「気のせいですよ」
「気のせいじゃない。でも、いいわ。今は、追究しない」
彼女は酒杯を傾けて、一口飲んだ。それから、こう続けた。
「私の母は、三年前、流行り病で亡くなったの」
「それは」
「いえ、同情は要らない。私が言いたかったのは、母も、あばれを止める方法を、探していたということ」
「お母さまも、ですか」
「私の家系は、代々、地脈の研究をしているの。世界の地下を流れる魔力の脈動。それが乱れると、地震や水害が起きる。母はその地脈を、安定させる方法を、十年かけて探していた。答えを見つける前に、亡くなった」
「セリディアさん」
「あなたの数字は、母の研究の続きを、別の言葉で、書いているように見えた。だから、私は、あなたを呼んだ。母の研究の続きが、別の世界の言葉で、進んでいるかもしれない、と思って」
直樹はしばらく彼女の青い瞳を、見つめていた。
「セリディアさん、あなたも、誰かの未完成の仕事を、引き継ごうとしているんですね」
「あなたも、誰かの未完成の仕事を、引き継いでいる」
「俺は、ただ、自分の日報を、書いてきただけです」
「日報。それは何」
「俺の世界での、毎日の記録の名前です。誰も読まないと知りながら、書き続けるものです」
「素敵な名前」と彼女は言った。「日報。日々の報告。誰にも、ではなく、自分自身に向けた報告ね」
直樹は微笑んだ。
彼女はそれを、正しく、理解していた。
宴の途中、直樹は壁際の鏡に近づいて、自分の姿を眺めた。十五歳の少年。痩せた肩。整った顔。これが自分だ、と思おうとした。
その瞬間、鏡の中の顔が、一瞬だけ、別人になった。
四十五歳の、丸顔の、目の細い男。
島原だった。
直樹は息を呑んだ。瞬きをすると、鏡の中はまた十五歳の少年に戻っていた。汗が背中を伝った。心臓が早鐘を打った。
あれは、なんだ。
幻覚だ、と自分に言い聞かせた。疲れているのだろう。十五歳の体は、まだ大宴会の刺激に慣れていない。
だが、直樹の手は震えていた。
その夜、彼は与えられた寝室で、なかなか寝つけなかった。窓の外、王都の街並みが眠っている。遠くで犬が吠えた。直樹はベッドの中で、目を閉じても、鏡の中の島原の顔が浮かんだ。
部屋は広く、天井が高かった。前世の独身寮の四畳半の部屋と比べると、何倍もある。だが、広いほど、人は孤独を感じる、と彼は気づいた。狭い部屋では、孤独は壁の近さで紛らされる。広い部屋では、孤独が、空間いっぱいに、広がる。
彼は、ベッドから起き上がって、机に向かった。
今日の数字を、書き始めた。
最初の応力集中点の矯正作業は、三日後に予定されていた。直樹は何度も計画を見直した。準備は完璧だった。数字は正しかった。だが、何かが、胸の奥でざらついていた。
偽りの勝利、という言葉を、彼は知らなかった。
知らなかったが、今、感じていた。
前世でも、こういう感覚を、何度か味わったことがあった。プロジェクトが、表面上はうまく進んでいるのに、心の奥のどこかで、嫌な予感がする。その予感は、ほぼ必ず、的中した。彼はいつもその予感を、口に出さなかった。誰も、彼の予感を、信じなかったから。
今夜の予感を、彼は、誰にも、話さなかった。
ただ、紙束の最後に、一行、書き加えた。
「明日からの作業、警戒すべき」
それだけだった。
彼は紙束を閉じてもう一度、ベッドに横になった。
眠れない夜が続いた。
眠れない夜は、十年間、何度もあった。だが、今夜の眠れなさはその種類が、違っていた。前世の眠れなさは、徒労の眠れなさだった。今夜は、警戒の眠れなさだった。同じ眠れなさでも、意味が、違っていた。
表は、勝った。
内側で、何かが、始まっていた。




