第十章 黒ずみの声
最初の応力集中点を矯正する作業中、空気がきしんだ。木材の悲鳴ではない。もっと太く、人間の声に近い何かが、直樹の名を呼んだ。「ナオキ」――その響きは、絶対に異世界の人間が持ち得ない響きだった。
最初の応力集中点は、王都から東へ三日の距離にある、古い湖の畔だった。湖は半分が干上がり、半分は奇妙に膨らんでいた。湖底から白い霧のような気体が立ちのぼっている。それは応力の見える化、つまり、世界の歪みが物質化した形だった。
直樹は岸辺に立って、計画を最終確認した。
倒木の配置は三十七本。それぞれの樹種、樹齢、繊維の向きを、計算通りに置く。十二人の作業員が、直樹の指示で動いていた。セリディアが補佐をした。ガリスが警備に立った。
「位置よし」とセリディアが叫んだ。
直樹は最後の倒木を、自分の手で配置した。十五歳の腕では重かった。ガリスが横から支えた。
「あんたの計算なら、これで完了か」とガリスが問うた。
「ええ。あとは、応力が抜けるのを待つだけです」
彼らは岸辺から少し離れて、湖を眺めた。
最初の数分は何も起きなかった。
次の数分で、湖底の白い霧が、ゆっくりと色を変えた。白から薄い緑へ。緑から青へ。そして、青から透明へ。
応力が抜けている。
「うまく行ってるわ」とセリディアが呟いた。
直樹はうなずいた。胸の中の張りが、少しだけ緩んだ。
その時、湖の真ん中で、水面がわずかに揺れた。
次の瞬間、空気がきしんだ。
木材が割れる音に似ていたが、もっと太く、もっと低かった。音は湖の中央から響いていた。続いて、直樹だけに聞こえる声が、頭の中で響いた。
「ナオキ」
直樹はその場で凍りついた。
その響きは、絶対に異世界の人間が持ち得ない響きだった。日本語のイントネーション、日本語の発音、日本語の馴れ馴れしさ。そして、最も決定的なのはその声の質感だった。
島原の声だった。
「ナオキ。お前、こんなところで、何やってるんだ」
「誰だ」と直樹は唇を動かさず、心の中で問うた。
「俺だよ。お前の上司だ」
「……あなたは死んだはずだ。俺と一緒に、いや、俺だけが、死んだはずだ」
「死んだのは、お前の心だろう。俺はいつだって、お前の心の中にいる。お前が日報を書く深夜の事務所にも、今、いる」
直樹は両手で顔を覆った。膝が震えた。
「カイレン、どうしたの」とセリディアが声をかけた。
「いえ、大丈夫です」
「顔色が悪い」
「少し、疲れただけです」
声はそれきり、消えた。
だが消えたあとも、直樹の頭の中にはその響きが残り続けた。十一年間、何百回も聞いた声。会議室で、廊下で、給湯室で、エレベーターの中で、聞いた声。穏やかな表面と、その下に隠された冷たさを併せ持つ声。あの声が、ここ、別の世界の応力集中点で、なぜ響くのか。
彼は自分の手のひらを、しばらく見つめた。
手のひらに、汗が滲んでいた。
矯正作業は成功した。湖の応力は完全に抜け、霧は消えた。半分干上がっていた水域に、ゆっくりと水が戻ってきた。村人たちが歓声を上げた。
成功の歓声の中で、直樹は自分だけが、別の場所にいるような感覚に、襲われていた。皆が喜び、皆が肩を叩き、皆が彼の手を握った。彼は、笑顔を返した。だが彼の頭の中ではまだ島原の声が、こだましていた。
帰路の馬車の中で、セリディアは彼の様子を何度か、横目で見た。彼女は何かを言いたそうにしたが、結局、何も言わなかった。直樹も、何も言わなかった。
二人の間には、奇妙な沈黙が、流れていた。
その夜、彼は宿の部屋で一人、震えていた。
部屋は石造りで、暖炉に火が入っていた。蜜蝋の蝋燭が、机の上で、ゆっくり燃えていた。蜜蝋というのは、蜂の巣から採れる蝋で作った蝋燭のことだ。煤が出にくく、燃焼が安定しており、上等な香りがする。前世なら知識として知っているだけだったが、ここでは、実物だった。
なぜ、ここに島原が、いるのか。
彼は前世で、たぶん死んでいる。だが島原は、まだ生きているはずだ。生きている人間の声が、別の世界の異変の中で響くというのは、どういうことだ。
あるいは彼が言ったように、それは「俺の心の中」の島原なのか。
その仮説は、もっと恐ろしかった。
もし、ここの黒ずみが、彼自身の心が生み出したものだとしたら。彼の十一年間の鬱屈、彼の自己否定、彼の諦め、それらが集まって、別の世界の応力に乗って、人間の形を取った、としたら。
倒すべきは、外の敵ではなく、彼自身の中の何かなのか。
直樹は紙束を取り出した。今日の数字を書き込もうとした。だが、ペンが動かなかった。手が、まだ震えていた。
「俺の日報なんか、誰も読まない」と、過去の島原の声が、頭の中で蘇った。
直樹は紙束を閉じた。
彼はしばらくその紙束を、両手で握っていた。指の関節が、白くなるまで、強く握った。
握りしめても、紙束は彼に答えなかった。紙束は、ただの、紙の束だった。だが、その紙束は彼の十年を、知っていた。誰にも読まれないまま、十年、彼は、書き続けた。その紙束が、今、ここに、ある。それで、十分なのか。
答えは、今夜まだ、出ていなかった。
窓の外で、月が出ていた。地球の月よりも、少しだけ大きく見えた。月の表面の模様が、地球から見たそれとは違って、丸く、何かの花のような形をしていた。
彼は、月をしばらく、見ていた。
月は彼に答えなかった。月は、ただの、月だった。
月の光は、王都の屋根瓦に、青く、当たっていた。同じ青さが彼の前世の工場の蛍光灯の光と、似ていた。世界が違っても、光の質は、似た形を取ることがある。月の光と、蛍光灯の光、それらが、同じ青さで、彼を、照らしていた。
彼はその同じ青さの中に、自分が、十一年と三月、生きてきたと感じた。
「ロウラ」と彼は呟いた。
胸の懐に入れた葉が、わずかに温かくなった。
遠い森の中で、ロウラが直樹の数字を読み取ったのを、彼は感じた。
葉の温度が彼の指に、伝わった。たぶん、これがロウラの返事だった。彼女には彼の状況が、見えている。彼女は彼を、見守っている。
直樹はもう一度、紙束を開いた。
ペンが、ようやく動いた。
今日の数字を書きながら、彼は心の中で、ロウラの言葉を反芻した。
あなたは誰かに読まれるために生きていない。木を読むあなた自身を、まず読みなさい。
まだ、その意味は分からなかった。
だが、今夜、その言葉だけが彼を支えていた。
ペンの先が、紙の上で、小さく、震えていた。だが、書けないほどでは、なかった。
彼は、今夜の数字を、書ききった。
書ききったあと、彼は紙束を丁寧にしまった。
翌日にはまた別の応力集中点の矯正作業が、待っていた。
仕事は、続く。世界の崩壊を止めるための、彼の三月の戦いはまだ始まったばかりだった。
明朝、彼はまた、矯正の指揮を執る。倒木の角度を読み、応力の偏りを計算し、村人たちに、配置を指示する。それを、何度も、繰り返す。
その繰り返しの中で、彼の心の中の黒ずみが、少しずつ、太くなっていくのを、彼は、薄々、感じていた。
止めることが、できるのか。
その問いに、今夜、答えは、出なかった。
彼は紙束をもう一度、胸に押し当てた。
葉の温度が彼の指に、伝わった。たぶん、ロウラもまた、答えを、知らない。だが、彼女は彼の隣に、いる。それだけが、今夜、彼の支えだった。
そして、その「隣にいる」という事実だけが、十一年の前世で、彼が、決して持ち得なかったものだった。誰かが彼の隣に、いる。誰かが彼を、見守っている。それは、奇跡だった。
彼はその奇跡を、抱えて、眠った。
外で、王都の夜が、深くなっていた。城下の道を、見回りの兵士が、規則的な足音で、歩いていた。その足音は彼の窓の下を何度か、通り過ぎた。彼はそれを、半分眠りながら、聞いていた。
遠い世界の、見知らぬ街の、見知らぬ兵士の足音。
その音の中で、彼はようやく眠った。




