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異世界に転生した木工屋は、世界の歪みを矯正する  作者: もしものべりすと


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第十一章 ガリスの最後の冗談

ガリスは笑って死んだ。「次の村に着くまでは保つ」と言って、彼は嘘をついた。直樹はそれを、ずっとあとになって気づいた。


 次の応力集中点は北の山岳地帯にあった。標高千メートルを超える峠の頂上、岩盤の歪みが集中する地点だった。そこに向かう道中、彼らは初めて、人間の敵と遭遇した。


 異端審問官キルヴァスと、その配下の白衣の聖騎士十二人。


「数字を以て神を冒涜する者を、捕えにきた」とキルヴァスは言った。


 四十代の男だった。痩せていて、眼鏡をかけていた。学者のような顔をしていたが、腰には剣を提げていた。直樹はその目を見て、ぞっとした。鏡で見た島原の目と、似ていた。


「私たちは王の許可を得て」とセリディアが前に出た。


「王の許可は、神の許可ではない」とキルヴァスは答えた。「彼の数字は、神の権能を冒涜している」


「数字は祈りです」


「あなたの祈りと、彼の祈りは違う」


 キルヴァスは指を上げた。聖騎士たちが剣を抜いた。


 ガリスがセリディアと直樹を背に押した。


「セリディア様。カイレン殿を連れて、先に行ってください。俺が時間を稼ぎます」


「ガリス」とセリディアが叫んだ。


「俺は騎士です。これが俺の仕事だ」


 ガリスは剣を抜いた。鋼の音が峠の岩に反響した。彼は直樹を一瞥して、笑った。


「カイレン殿。あんたの数字、覚えておこう。世界を救う数字だ。俺はその数字に、命を懸けるに値すると思った」


「ガリス、一緒に来てください」


「次の村に着くまでは、保つよ」とガリスは言った。「先に行って、矯正作業を完了させてくれ。俺はあとから追いつく」


 直樹はガリスの目を見た。十年以上、無数の現場を経験してきた人間として、直樹はその目が嘘をついていることを、理解していた。だが、ガリスが選んだ嘘だった。


「……分かりました」と直樹は答えた。


 彼とセリディアは、山道を駆け下りた。背後で剣戟の音がした。一人で十二人を相手にする男の音だった。叫び声が、何度かした。


 その音を、直樹は、振り返らずに、聞いていた。十五歳の足では、走るのが、辛かった。だが、止まれなかった。止まったら、ガリスの嘘が、無駄になる。


 走りながら、彼は自分の数字のことを、考えていた。今日まで、彼の数字は、誰かを救うものだった。井戸の水を澄ませた。畑の苗を立たせた。岩盤の歪みを止めた。


 今日初めて、彼の数字は、誰かを死なせる場所に、置かれた。


 ガリスは彼の数字を信じて、彼を、世界の中心へ送り出すために、後ろで死んでいた。


 その重さを、走りながら、彼は、感じていた。


 数字は、人を動かす。


 数字は、人を信じさせる。


 数字は、人を、殺す。


 その三つは、別々のことではなかった。同じ数字の、別々の側面だった。彼が、その三つを同時に、自分のものとして引き受けない限り、彼は世界を救う者には、なれない。


 数字の重さを、彼は初めて知ろうとしていた。


 峠の応力集中点の矯正は、二人だけで実行した。直樹は計算を読み、セリディアが補佐をした。倒木の配置は、計画より急ぎ足だった。だが、直樹の数字は完璧だった。岩盤の歪みは止まった。北の山々は、再び安定した。


 矯正が終わったとき、夕暮れだった。


 二人は峠の頂上に立って、来た道を振り返った。


 ガリスは、来なかった。


 代わりに、彼の鎧が一つ、山道の途中に転がっていた。鎧の中身はもうガリスではなかった。


 セリディアが泣いた。直樹は、声を上げなかった。


 代わりに、彼の心の中で、再び島原の声が響いた。


「ほら、お前のせいだ。お前は何も救えない」


「俺は」


「お前の数字が、ガリスを殺した。お前が王都に来なければ、あの男は今も、辺境で平和に暮らしていた。お前のせいだ。お前が、世界を救うなどと、烏滸がましいことを考えるから」


「黙れ」


「黙らない。お前を黙らせるまで、俺は黙らない」


 直樹は両手で頭を抱えた。岩の上にしゃがみ込んだ。


 セリディアが彼の肩に手を置いた。


「カイレン。あなたのせいじゃないわ」


「俺の数字が、人を殺した」


「ガリスは自分の意思で残った。あなたが連れて行ったのではない」


「でも、結果は」


「結果は世界が救われたこと、そして、ガリスが自分の選んだ死に方をしたこと。それだけよ」


 彼女の声は震えていた。だが、彼女は決して、自分のために泣くことを許さなかった。十九歳の貴族令嬢としての、彼女なりの強さだった。


 夜、彼らは峠の麓の村に到着した。直樹は与えられた部屋で、紙束を開いた。今日の数字を書こうとした。


 手が動かなかった。


 彼は紙束を閉じた。


 ロウラの葉を、胸から取り出した。


 葉はわずかに、暗くなっていた。


 遠くの森で、ロウラもまた、何かを失いつつあるのを、直樹は感じた。


 部屋には、暖炉があった。火は弱かった。直樹は薪を一本足して、しばらく火を見つめていた。火は、揺れていた。火は、嘘をつかない。木と同じで、火もまた、物理法則に従って、揺れる。直樹はそれを、十年以上、知っていた。


 火を見つめながら、彼はガリスの最後の冗談を、思い出した。


 次の村に着くまでは、保つよ、と彼は言った。


 その嘘は、嘘の中で最も美しい種類の嘘だった。相手を、生かすための、嘘。直樹自身が彼を残してきたという罪悪感を、少しでも軽くするための、嘘。


 ガリスは、最後まで、騎士だった。


 彼は、机の上に置いた紙束をもう一度、見つめた。誰にも読まれない数字。だが、ガリスは信じた。彼の数字を信じて、彼の指示で動いて、世界を救う仕事の一部を担って、死んだ。


 数字が、人を、動かす。


 数字が、人を、信じさせる。


 数字が、人を、殺す。


 その三つは、同じ数字の、別の側面だった。直樹は、今夜、その三つの側面を、初めて同時に、自分の中に、感じていた。


 その晩、ロウラの声が、頭の中で響いた。今度は島原の声ではなく、彼女自身の声だった。


「あなたの数字は、人を殺すためのものではない。人を救うためのものだったでしょう」


「ガリスは死んだ」


「ガリスは、生きた。彼は自分の人生を、自分の最後の瞬間に決めた。あなたの数字に殺されたのではない。彼は彼自身の選択に殉じた」


「俺は」


「あなたは彼の選択を、無駄にしない責任がある」


 直樹は涙を流した。十五歳の体の感情の起伏は、まだ激しかった。三十四歳の魂はそれに耐えようとしたが、体が泣いた。


 長い時間、彼は泣いた。


 泣き止んだあと、紙束を開いた。


 今日の数字を書いた。


 最後の行に、彼は一文を書き加えた。今日まで、十年近い日報の中で、一度もしたことのない種類の書き込みだった。


 ガリス・ドーラン、騎士。我が数字を信じた者。記す。


 彼は紙束を閉じた。


 ガリスの名前を、紙の上に、残した。彼の名前はこれから、彼の数字と一緒に、世界中に、広がっていくだろう。誰にも読まれない数字、と思っていたものが、誰かの名前を、運ぶようになった。


 数字は、ただの記号ではなかった。誰かの命の、痕跡だった。


 窓の外で、雨が降り始めていた。地球の雨とよく似た音だった。


 雨音がしばらく続いた。


 直樹は、ベッドに、横になった。だが、眠れなかった。ガリスの最後の笑い顔が、目の奥に、焼きついていた。次の村に着くまでは、保つよ、と彼は言った。あの言葉を、何度も、思い返した。


 いつか、彼自身も、誰かのために、同じような嘘を、つくかもしれないと思った。


 いつか、誰かが彼のために、同じような嘘を、つくかもしれない。


 そういう連鎖の中に、彼の人生が、置かれていた。それは、悲しいことだったが、同時に何か温かいことでも、あった。


 暖炉の火が、少しずつ、弱くなっていった。


 直樹は、薪を、もう一本、足した。新しい炎が、跳ねた。火はまだ続いていた。ガリスの命のように、いつか、消える。だが、消えるまでは、燃え続ける。


 彼は、火をしばらく、見ていた。


 火は、嘘をつかなかった。


 ガリスも、最後まで、嘘をつかなかった。彼の「次の村に着くまでは保つ」は、嘘だった。だが、その嘘は彼の最後の真実だった。命を懸けた者の、最後の冗談。それは、嘘ではなかった。

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