第十二章 完全なる喪失
世界が割れる音を、直樹は初めて聞いた。地平線が一直線に裂け、空が下に落ちた。ロウラが彼の手を握っていたが、その手は半分が消えかかっていた。
さらに次の応力集中点に到着したとき直樹は遅すぎたことに気づいた。彼の予測より世界の崩壊速度の方がわずかに速かった。
応力集中点は、王都から南の砂漠地帯。地平線が一直線に伸びる、見渡す限りの平地だった。だが、その地平線は、もはや一直線ではなかった。歪んでいた。
地平線の左半分が、右半分より、明らかに低い位置にあった。
空が、傾いていた。
「カイレン」とセリディアが言った。「これは、間に合うのかしら」
「分かりません」と直樹は答えた。
彼は紙束を開いた。今日までの全データを並べた。砂漠の応力分布を計算した。倒木は、ここでは使えない。砂漠には木がない。代わりに、現地の魔術師たちが石を運んできた。
「石でも、原理は同じはずです」と直樹は説明した。「重量と密度が、応力を吸う」
配置を始めて、二時間が経った。
砂漠の昼の日射しは、容赦がなかった。十五歳の体はすぐに汗まみれになった。喉が、乾いた。だが、直樹は、止まれなかった。一秒でも、止まれば、世界が崩れる。彼の指は震えていた。震える指で、彼は紙束の上に、次の計算を、走らせた。
セリディアは彼の横で、補佐をした。彼女もまた、青いドレスが、砂で汚れていた。十九歳の貴族令嬢の身なりとは、思えない姿だった。だが、彼女は、止まらなかった。彼女もまた、世界を救おうとしていた。
その時、空が割れた。
地平線の傾きが、ある一線を越えたのだ。空の方が、地面についていけなくなった。きしむ音とともに、地平線に沿って、一筋の亀裂が走った。
亀裂は、見る間に広がった。
空がゆっくり地面の方へ落ちてきた。
誰もが息を呑んだ。世界の終わりの光景だった。
その時、ロウラが現れた。
彼女は森から砂漠まで、瞬時に移動してきた。だが、その代償として、彼女の体は半分が消えていた。腰から下が完全に霧になり、肩から下の輪郭も曖昧だった。
「ナオキ」と彼女は呼んだ。前世の名で。
「ロウラ。なぜここに」
「あなたの数字を読んだ。間に合わないことを知った。せめて、私が」
「ロウラ、戻って。あなたが消える」
「もう、消えている」と彼女は微笑んだ。「私はこの世界の精霊。世界が壊れれば、私も壊れる。だから、最後まで、あなたの側にいる」
彼女は直樹の手を取った。彼女の手は、半分が消えかかっていた。直樹はその手を強く握った。だが、霧の手を握ることはできなかった。指はロウラの手をすり抜けた。それでも、彼女の手があった場所には、わずかな冷たさが、残っていた。
その冷たさを、直樹は、覚えた。彼女が、ここにいた、という証拠の冷たさ。たとえ霧でも、手を伸ばしてくれた、という事実の冷たさ。
彼はその冷たさを、生涯、忘れないだろうと思った。
空が、さらに落ちてきた。
その時、空気が、ねじれた。
砂漠の砂が、空中で、ぐるぐると渦を巻いた。視界の中で、すべての景色が、傾いた。直樹は地面に膝をついた。耳の奥で、低い唸り声がした。木材の悲鳴と、人間の咆哮を、混ぜ合わせたような音だった。
直樹の目の前に、黒い影が立ち上がった。最初は煙のようだった。だが、次第に形を取った。人間の形を取り始めた。
四十五歳の、丸顔の、目の細い男。
スーツを着て、ネクタイを締めていた。
島原だった。
今度は声だけではなかった。完全な、肉体を持った姿で、彼は直樹の前に、立っていた。
「やあ、郷田くん。ご苦労さま」
その声は、湖の畔で聞いた響きと、完全に同じだった。だが、今度はその声に、顔がついていた。表情がついていた。
「お前」と直樹は言った。
「俺は世界の歪みの結晶だよ。お前の心の弱さが、俺をここまで育てた。お前が日々、自分を否定するたびに、俺は太くなった。今や、俺は世界を割る力を持つ。お前を倒すには、十分だ」
黒ずみの口調はずっと淡々としていた。怒鳴ったり、興奮したりはしない。それが、本物の島原と、まったく同じだった。本物の島原は、感情を露わにすることが、ほとんどなかった。冷たい笑みと、皮肉と、淡々とした暴力。それが彼の武器だった。
「黙れ」
「黙らない。十一年間、お前は俺に黙ってきた。お前の番だ。今度は俺が黙らない」
黒ずみは笑った。コーヒーカップを取り出して、それを唇に運んだ。会社の給湯室で、何百回も見た仕草だった。
直樹は膝をついた。十五歳の体の限界を超える絶望が彼を押し潰した。砂が、頬に張りついた。彼は、地面を、両手で掻いた。砂粒が、爪の中に入った。指先が痛んだ。
ロウラの霧の手が彼の頬に触れようとした。だが、触れる前に、彼女の手は完全に消えた。
「ナオキ」と彼女は呟いた。「私はもう、世界に居られない。先に行ってる」
「ロウラ」
「あなたなら、できる。私の数字は、あなたが持っている。森の声は、あなたが聞ける。だから、行って」
彼女の体は、徐々に薄くなっていった。最後に、淡い緑の髪が、風に流れた。直樹は手を伸ばして、その髪に触れようとした。だが彼の指は、空を切った。
最後に残ったのは彼女の声だけだった。
「ナオキ。あなたは、誰かに読まれるためにいないの。あなた自身を、読んで」
その声が消えると、ロウラは完全に霧散した。
砂漠の風が、彼女がいた場所を、通り過ぎていった。あとには何も、残らなかった。何百年も森に生きてきた精霊が、たった今、ここで、消えた。直樹の十年と引き換えに、彼女の何百年が消えた。
その重さを、直樹はしばらく量れなかった。
量ろうとして、量れなかった。彼女の何百年と、彼の十年はたぶん釣り合わない。釣り合わないものを、彼女は自分の意志で、捧げた。
その意志を、直樹は、覚えておかなくては、ならなかった。
直樹は砂漠の地面に、顔を伏せた。
胸の懐の葉が、急激に、冷たくなった。
今までかすかな温度を保っていた葉が、ただの枯れ葉のように、冷えた。
彼は葉を取り出して、両手で握った。
葉は、暗く、乾いていた。だがまだ葉脈の中に、薄い文字のような模様が、残っていた。
ロウラが消える前に、最後に直樹のために、何かを葉に書き残してくれていたのが、感覚で分かった。
黒ずみが彼の上に立った。
「ほら、見ろ。お前の唯一の理解者まで、消えた。これでお前は、本当に独りだ」
直樹は答えなかった。
黒ずみは笑い続けた。
「お前の日報なんか、誰も読まない。前世でも、今世でも。お前はずっと誰にも読まれない男だった。世界を救うなど、お前には荷が重すぎる」
直樹は地面に手をついた。砂が冷たかった。指の隙間から、砂粒が零れた。
砂は彼の十五歳の手のひらの中でゆっくり、流れた。
砂時計の砂のように、時間が、流れていた。
ロウラが消えた。ガリスが死んだ。直樹は、独りになった。
彼の十五歳の体は、ずっと痩せていたが、今、さらに痩せていくように、感じた。胸の中に、何かが、抜けていく感覚があった。これまで彼を支えていた、勝てる、という確信。それが、今、抜けていく。
空はまだ傾いていた。世界はまだ終わっていなかった。だが、彼は、続ける力を、失っていた。
「俺は」と彼は呟いた。
声は自分でも驚くほど、小さかった。
完全なる喪失。
彼の人生で、最も低い場所に、彼は落ちた。
砂漠の砂が彼の頬に、張り付いていた。風が強く、吹き始めていた。砂が彼の顔の上を、流れていった。涙が、流れ出る前に、砂と混ざって、頬に固まった。
彼は、動けなかった。
動こうとする意志がもう彼の中に、なかった。
最も低い場所、というのは、こういう場所のことだった。動こうとしても、動けない。声を出そうとしても、出ない。十五歳の体が、抱えるには、重すぎる絶望が彼の上に、覆い被さっていた。
その重さの下で、彼はしばらくじっとしていた。




