第十三章 闇夜をさまよう魂
洞窟の中で、直樹は十年分の日報を頭の中で広げた。誰も読まなかった紙束。家具一台の歩留まり、刃物の摩耗、湿度との相関。それは退屈で、地味で、価値のない記録だと、ずっと自分でも思っていた。
砂漠から南西へ半日逃げた山岳地帯の岩穴に、直樹とセリディアは身を潜めていた。空はまだ傾いていた。世界の崩壊は止まっていなかった。直樹の予測では、あと七日で完全に空が地面に落ちる。
セリディアは外で見張りに立っていた。彼女は最近、ほとんど眠っていなかった。十九歳の体が、げっそりと痩せていた。
直樹は岩の上に座って、両手で頭を抱えていた。
俺は何者か。
その問いを、彼は静かに自分に向けた。前世で、深夜の事務所で何百回も問うた問いだった。だが、答えは違ったものになりそうだった。
彼は思い出していた。
十年前。新卒で入った工場の朝。最初に手にした作業実績票。数字の書き方を教えてくれた先輩は、半年で辞めた。彼は一人で、書き方を覚えた。最初の頃、数字を間違えて怒鳴られた日。それでも、翌朝、もう一度書いた。
五年目。後輩が辞めると言いに来た夜。彼は後輩に「日報をちゃんと書いとけ。お前を救うのは、それだ」と言った。意味は、後輩には分からなかった。直樹自身にも、まだ分かっていなかった。
八年目。島原が部署に来た日。最初の半年、島原は彼を褒めた。八ヶ月目から、島原は彼を貶した。十ヶ月目から、彼は手柄を奪われ始めた。
十年目。誰も読まないと知りながら、彼はまだ日報を書いていた。なぜ。
答えはロウラが言ったとおりだった。
彼は自分自身のために書いていた。
誰かに認められるためではない。誰かに読まれるためではない。彼自身が、自分の十年が無意味ではないことを、自分自身に証明するために、書いていた。
それは、すごく地味で、すごく寂しく、すごく強い行為だった。
彼は、洞窟の壁に、自分の手のひらを当てた。冷たかった。岩肌の冷たさが、指先から、腕に伝わってきた。彼はその冷たさの中に、自分の十年の温度を、感じていた。
十年というのは、長い時間だ。だが、振り返ってみれば、ひと続きの時間だった。彼は、毎日、似たような朝を、過ごしてきた。似たような昼食を食べ、似たような午後を過ごし、似たような夜に、日報を書いた。
単調だった。たしかに、単調だった。
だが、その単調さの中に、彼は確かに自分の何かを、積み上げてきた。
積み上げてきたものは、目には見えなかった。会社の業績にも、表れなかった。誰かの評価にも、結びつかなかった。
だが彼の指先に確かに、宿っていた。
今、その指先が、別の世界で、世界を救おうとしている。
その事実が彼の十年に初めて、意味を与えていた。
直樹は顔を上げた。
洞窟の壁に、湿気が伝っていた。指で触れると、冷たかった。岩肌に手を当てて、彼はゆっくり立ち上がった。
「セリディアさん」と彼は呼んだ。
セリディアが入ってきた。剣の柄に手を掛けて、警戒している顔だった。
「カイレン」
「俺もう一度、紙束を全部読み直したいんです」
「紙束を、今、ここで」
「ええ。十年分です」
「あなたの紙束は、ここに来てから書いたものだけのはず」
「いえ。俺の体に、もっと長い記録が、染み込んでいる」
直樹は懐から、ロウラからもらった葉を取り出した。葉は、ほぼ完全に枯れていた。だが、葉脈には、まだうっすらと文字のような模様が残っていた。
彼はその葉を手のひらに置いた。集中した。
すると、葉脈の模様が、徐々に明確になっていった。
数字だった。
日付ごとに並んだ、湿度、温度、応力、刃物の摩耗、樹種ごとのあばれ発生率。十年分の生産日報。彼が前世で書き続けてきた、誰も読まなかった数字。
それが、葉の上に、現れていた。
ロウラの最後の贈り物だった。彼女は消える前に、直樹の体に染み込んだ数字を、葉の上に書き写してくれていた。
セリディアが、息を呑んだ。
「これは」
「俺の十年です」と直樹は言った。
「十年。あなたの前世」
「ええ。誰にも読まれない十年でした。でも、今、これが、世界を救う鍵になるかもしれない」
直樹は岩の上に葉を広げた。十年分の数字が、葉脈に沿って並んでいた。彼はそれをゆっくり、読み返し始めた。
最初の一年。下手な数字。誤字も多い。だが、書こうとする意志だけは、はっきりしていた。
二年目。少し整ってきた。
三年目。コメントが入り始めた。「この日のロットは、含水率が高いが、応力分布は良好。歩留まりは九十二パーセント」。十年前の自分の言葉だった。
四年目。樹種ごとの傾向分析が始まった。
五年目。気温と湿度の組み合わせが、あばれ発生率に与える影響の表が完成した。
六年目から十年目。彼の独自の予測手法が成熟した。
直樹は紙束を読みながら、震えた。
これは確かに自分が書いたものだった。誰にも読まれないと思っていたが、それでも書き続けたものだった。
葉の上で、数字たちは彼を、見上げていた。十年前の自分、九年前の自分、八年前の自分、それぞれが、紙の上に、彼自身の言葉で、彼を、待っていた。
彼の十年は彼を待っていたということだった。世界が読みに来るのを、彼の十年はずっと待っていた。
そして、今、彼が、自分自身で、それを読んでいた。
そして、今、それが世界を救う公式に化けようとしていた。
「セリディアさん」と直樹は言った。
「はい」
「あなた、数学はできますか」
「王立学院で、専攻していました」
「俺の数字を、あなたの魔術理論の式に、変換してくれませんか」
セリディアは葉を見つめた。彼女の頬に初めて、笑みが浮かんだ。
「やってみせるわ」
その夜、二人は岩穴の中で、徹夜で計算を続けた。
直樹の十年分の数字が、セリディアの魔術理論の数式に、ぴたりとはまった。
夜明けに、彼らは答えを得た。
世界全体のあばれを止める、最後の七番目の応力集中点の位置と、そこで打つべき最後の楔の角度。
直樹は、葉を胸に押し当てた。
「ロウラ」と彼は呟いた。
葉の中の数字がわずかに光った。
彼女がまだ、聞いていた。
その光に、直樹は深く息を吐いた。
長い長い夜が、終わろうとしていた。
彼は、岩穴の入口に立った。空はまだ傾いていた。だが、空の傾きはもう彼を恐怖させなかった。彼の中に、答えがあった。答えは彼の十年の中に、最初から、書かれていた。彼がそれを、読まなかっただけだった。
彼は深く息を吸った。
別世界の朝の空気が、肺に入ってきた。
今朝の空気はこれまでよりもわずかに、澄んでいた。
たぶん、彼の中の恐怖が少し晴れたからだった。
直樹は岩穴を出た。空は、まだ傾いていた。だが彼の中の何かはもう傾いていなかった。
彼は自分の十年を、自分自身で、読んだ。
その読書は彼の人生で、最も重要な、読書だった。十年かけて、彼は自分自身の言葉で、自分自身の物語を書いた。今夜、彼はその物語を、自分の目で、読んだ。
他人の物語を読むよりも、自分の物語を読む方がずっと難しかった。なぜなら、自分の物語の中には自分が見たくない部分も、あったから。失敗。諦め。怒り。妬み。それらが彼の十年の中に確かに、書かれていた。
だが、彼はそれを、全部、読んだ。
目を、逸らさなかった。
そして、その全部を、認めた。
失敗も、諦めも、怒りも、妬みも、全部、彼の十年だった。それを、否定しない。それを、抱える。それが彼の、自分への、答えだった。
岩穴の入口から、朝の光が、差し込んできた。砂漠の朝は、急に来る。彼はその光の中に、立っていた。
光に、照らされた彼の十五歳の体は、痩せていた。だが、痩せた体の中に、彼の十年と三月の、すべてが、収まっていた。
彼は、振り返らずに、岩穴を、出た。
次に、世界樹に、向かう。
彼の旅の、最後の道だった。




