第八章 王都への招請
村に黒い馬車が来た。馬の蹄が泥を撥ねた。降りてきた令嬢の名はセリディア・ヴァルナント。辺境伯の娘で十九歳。彼女は直樹の樹皮紙を一枚手に取り、しばらく無言で読んだあと言った。「これは、すごい」
季節は変わって、初秋に入っていた。直樹が「あばれ読み」と呼ばれるようになって、二月が過ぎていた。森の周辺三つの村のあばれが彼の予測と矯正でほぼ止まっていた。噂は遠くまで広がり、ついに辺境伯の耳に届いた。
セリディアという令嬢は、想像していたよりずっと若かった。十九歳の、痩せた、青白い顔の少女。だが、目だけは違った。書物を読み込んだ人間の目だった。彼女は紙束を見ると、馬車の傍で立ったまま、半時間ほどそれを読み続けた。
「父の宮廷魔術師に見せたい」と彼女は言った。「あなたを王都に招きたい。費用はすべて辺境伯家で負担する」
「俺は、村の見習いの木工屋です」と直樹は言った。
「あなたが村の見習いだろうと何だろうと、私には関係ない」とセリディアは答えた。「あなたが書いた数字が、本物かどうか、それだけが私には関係ある」
ジョルダン老は黙って聞いていた。
夜、老人は直樹に酒を注いだ。十五歳の体には強すぎたが、直樹は断らなかった。
「行ってこい」と老人は言った。「お前の仕事は、ここでは終わらん」
「親方。俺本当に、ただの木工屋なんですけど」
「ただの木工屋なら、誰にもできることじゃない」と老人は笑った。「百年使える家具を作れる職人を、ただの木工屋と呼ぶか。お前は世界を百年保たせるかもしれん」
直樹は黙って酒を飲んだ。喉が焼けた。胸の奥で、何かが燃えていた。
その夜、母も、寝る前に、彼の部屋に来た。
彼女は彼の旅装の荷物を、確かめた。シャツの替えが足りているか、毛布が一枚多めに入っているか、ろうそくの予備があるか。母は、こういう細部を、彼自身よりもずっとよく覚えていた。
彼女は、最後に、彼の頭を、撫でた。
「カイレン。あなたが、何をしに行くのか、私には、よく分からない。でも、生きて、戻ってきて」
「はい、お母さん」
その時、直樹は、十年前の自分の母の顔を、重ねて見ていた。前世の母は彼が新人で家を出るとき、似たような顔をしていた。何をしに行くのか、よく分からなくても、無事に戻ってきて、と言いたい母の顔。世界中の母が、その顔をたぶん、している。
直樹は、母の手の温かさを、心の中に、刻んだ。
翌朝、出発した。馬車に同乗したのは、騎士のガリス・ドーランという三十歳の武人だった。鎧の下から汗の匂いがする男で、最初の半日、直樹に一言も話しかけなかった。
昼の休憩で、ガリスは初めて口を開いた。
「ガキの力で、世界が救えるか」
「俺は世界を救うとは、言っていません」と直樹は答えた。
「だがセリディア様は、お前を呼んだ。あの方は、軽い理由で人を呼ばない」
「ご令嬢の判断を、信じてください」
「俺は自分の目で見たものしか信じない」
その夜、野営地で焚き火を囲んだ。直樹は地面に枝で線を引いて、ガリスに数字の話を始めた。ガリスは興味なさそうな顔をしていたが、目だけは線を追った。
「明日、この沢で、増水が起きます」と直樹は言った。「いつもの渡し場ではなく、半里上流から渡ってください」
「俺は、いつもの場所で渡る」とガリスは答えた。
「死ぬかもしれませんよ」
「お前のために、自分のやり方を変えるつもりはない」
「俺のためでなく、馬のためです」
ガリスは黙った。
たき火が、ぱちぱちと音を立てた。星空が広がっていた。夜の森の匂いが、漂っていた。獣の遠吠えが、どこか遠くで、聞こえた。
「あんた、まだ十五だろう」とガリスが、ぽつりと言った。
「ええ」
「十五で、世界を救うと、言うのか」
「俺は世界を救う、とは、言っていません」と直樹は答えた。「ただ、目の前のあばれを、止められるかもしれない、と思っているだけです」
「謙虚なのか、傲慢なのか、よく分からんな」
「両方かもしれません」
ガリスは、ふっと笑った。
翌朝、彼らは沢に到着した。いつもの渡し場の前で、ガリスは馬を止めた。十分待った。何も起きなかった。彼は直樹を一瞥して、馬に拍車をかけようとした。
その瞬間、上流から濁流が押し寄せた。
水位が一気に膝の高さまで上がった。
ガリスは馬を後退させた。馬は驚いて棒立ちになった。直樹は反射的にガリスの手綱を掴んで、引いた。十五歳の力では足りなかった。だが、間合いを取るには十分だった。
半里上流に移動して、彼らは無事に渡った。
その日の夕方、ガリスは初めて、直樹をじっと見つめた。長い視線だった。それから深く、頭を下げた。
「あんたを疑った。許してくれ」
「俺は何も気にしていません」と直樹は言った。
「あんたは、命の恩人だ」
「ただ、数字が見えただけです」
ガリスは、ふっと笑った。
「ただ、数字が見えただけか。覚えておこう。あんたは、ただ、数字が見えるだけの男だ」
その晩から、ガリスの態度は変わった。彼は直樹を「カイレン殿」と呼ぶようになった。直樹は何度も呼び方を変えてくれと頼んだが、ガリスは聞かなかった。
「殿、というのは、年寄りに使う敬称だろう」と直樹は言った。
「年寄りの中身が入ってる十五歳には、ぴったりだ」とガリスは答えた。
直樹はその冗談に初めて、声を上げて笑った。
異世界に来てから、初めての、心の底からの笑いだった。十五歳の体が笑い、三十四歳の魂が、同じように笑った。
王都までの旅は、十二日かかった。
その間、直樹は毎日、数字を取り続けた。馬車の中の湿度。野営地の土の硬さ。森の樹皮の状態。すべて、紙束に書きつけた。
ガリスは彼が書く姿を、横目で見ていた。最初は不思議そうにしていた。やがて、慣れた。十日目になると、彼から、こう聞いてきた。
「カイレン殿。あんたの数字は世界の何を、見ている」
「世界の歪み、です」
「歪み、か」
「ええ。木の歪みも、世界の歪みも、同じ原理で起きます。だから、同じ方法で、止められる、はずです」
「あんたの数字を、俺は、信じる」とガリスは言った。「あんたは命の恩人だ。それと、変な男だが、嘘をつかない」
「嘘をつかないように、訓練されてきたんです」と直樹は答えた。「数字は、嘘をつかないから、数字を扱う者も、嘘をつけません」
ガリスはふっと笑った。
「あんたの世界の職人は、皆、そういう男なのか」
「そうですね。皆、そうです」
「俺の世界の騎士も、似ている」とガリスは言った。「剣は、嘘をつかない。だから、剣を扱う者も、嘘をつけない。剣で嘘をつこうとすると、剣の方が、先に折れる」
直樹はその言葉を、頭の中で何度か、繰り返した。
手を動かす者の言葉は世界を越えて、似た形を取る、と彼は再び思った。
ロウラは、ついてこなかった。彼女は森を離れられない。だが、直樹は出発の朝、ロウラから一枚の葉を受け取っていた。透き通った緑の葉だった。
「これを胸に入れておいて」とロウラは言った。「私はあなたの数字を、どこにいても読める」
直樹は葉を懐に入れた。
馬車が王都の城壁を見たとき、彼は立ち上がって、その光景を見た。
石造りの巨大な城が、夕焼けの中で輝いていた。彼の十五歳の体は震えていた。
三月前まで、深夜の工場で日報を書いていた男が、今、剣と魔法の世界の王城を、自分の足で訪れようとしていた。
彼は、信じられないと思った。だが彼の手は、確かに紙束を握っていた。
城壁は彼が見たどの建造物よりも、巨大だった。石材ひとつひとつが彼の身長より大きかった。それらの石を、誰が、どのように、積み上げたのか。彼は、想像も、できなかった。
ガリスが、横で、笑った。
「初めて見たか、王都を」
「ええ。すごい、ですね」
「俺も、初めて見たときは、似たような顔をしてた」とガリスは答えた。「みんな、最初は、ああいう顔をする。だが、慣れる。一月もすれば、ただの石の壁だ」
「慣れたくは、ないですね」
「慣れるなということか」
「ええ」
ガリスはまた笑った。直樹もまた、笑った。馬車は、城門を、くぐった。




