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異世界に転生した木工屋は、世界の歪みを矯正する  作者: もしものべりすと


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第七章 あばれの予兆を読む

直樹は紙束を作っていた。羊皮紙ではない。樹皮を薄く削った代用品だ。そこに彼は、来る日も来る日も数字を書き込んでいった。湿度、温度、土壌の硬さ、葉の色――それは、生産日報だった。


 毎朝、夜が明ける前に起きた。十五歳の体は朝が辛い。布団の中で目を開けて、それから無理やり起き上がる。母が朝粥を作ってくれた。直樹は粥を食べながら、昨夜の最低気温と最高気温を、自作の温度測定器で確認した。


 測定器はジョルダン老の工房から借りた古い水差しに、油と樹液を混ぜたものを入れた、簡単な装置だった。前世のアルコール温度計の原理を、この世界の材料で再現したものだ。完全に正確ではないが、相対的な変化は読める。


 道具を、ゼロから、作り出す喜びを、直樹は、久しぶりに、味わっていた。前世の工場では、すべての道具が、既製品として、用意されていた。彼はそれを、使うだけだった。


 ここでは、違った。彼は自分の手で、道具を、作った。それは、まだ拙かった。だが、彼自身の手で、組み立てた道具だった。


 その道具で、彼は世界を、測ろうとしていた。


 午前中は森の北側を歩いた。午後は西側を歩いた。樹皮の手触り、空気の匂い、土の湿り、苔の色。直樹はすべてを記録した。


 毎日、二時間以上、彼は森を歩いた。十五歳の体にはそれは、辛かった。最初の一週間は、夜になると、足がつった。それでも、彼は、止めなかった。


 歩きながら、彼は、前世の自分の散歩を、思い出していた。前世でも、彼は、よく工場の敷地内を、歩いていた。製品検査、原料倉庫の確認、桟積みエリアの巡回。歩くことが、仕事の一部だった。歩きながら、彼は、現場の状態を、目で、鼻で、肌で、感じてきた。


 歩く距離が、千歩、万歩と積もるほど、現場の感覚は、深くなった。十年で、彼の足は、工場の地面の起伏を覚えていた。


 今、彼の足は、森の地面の起伏を、覚えようとしていた。


「カイレン、また書いとるのか」


 ジョルダン老の問いに、直樹はうなずいた。


「もう三週間です。データが溜まってきました」


「データ」


「数字の集まりです。何かの傾向が見える、というか」


「お前、見えとるか」


「見え始めています」


 直樹は紙束を広げた。日付ごとに、四つから七つの数字が並んでいた。ジョルダン老は数字を読めなかったが、紙の上に並んだ字の連なりを、しばらく眺めていた。


「俺たちの仕事はな」と老人は言った。「目で見るだけじゃないんだ。指で覚えて、鼻で嗅いで、耳で聴いて、最後は、心の奥に蓄えるんだ。お前のその紙はたぶんお前の心の奥なんだろうな」


「ええ」と直樹は言った。「俺の心の奥は、こんな形をしています」


 その晩、直樹は紙の上の数字を眺めて、ある相関に気づいた。湿度が三日連続で五パーセント上がると、四日目の朝、土の硬さが急激に変わる。土の硬さが変わると、その日のうちに、近くの樹皮が剥がれる。


 あばれの発生まで、おおむね五日。


 もし、湿度の上昇を最初の一日で察知できれば、あばれの発生地点を予測できる。


 これは、前世の経験と、構造が同じだった。前世の工場でも、湿度が三日連続で上がると、四日後に天板の反りが、ピークに達した。スケールが違うだけで、原理は同じだった。


 異世界に来てから、直樹は、ある仮説を立てていた。


 物理法則はたぶん世界を越えて、共通している。応力という物体内部の力の振る舞いは、こちらでも同じ原理で動いている。違うのはその力を読む者と、それを呼ぶ言葉だけ、なのかもしれない。


 前世の工場の片隅で、誰にも読まれずに彼が蓄積してきた知識は、別の世界でも、有効だった。


 その事実が彼の心の深い場所にわずかな光を灯した。


 直樹はロウラのところへ走った。森の奥、苔の上に座っていたロウラは、直樹の手にした紙束を見て、目を細めた。


「数字、もうそんなに溜まったの」


「ロウラ。次のあばれは、四日後の朝、北東の沢で起きます」


「どうして分かる」


「湿度が三日連続で上昇しています。地面の状態と合わせて、応力の偏りがちょうど北東に集まっています」


 ロウラは霧の手で、紙束に触れようとした。だが、彼女の手は紙をすり抜けた。


「私には触れないけど、私には読める」と彼女は言った。「あなたの数字、合ってる。私の予感とも一致する」


「予感」


「精霊の予感。でも、最近はその予感だけでは、もう間に合わない。あなたの数字は、私の予感を補強する。お互いに、必要だね」


 四日後の朝、直樹は数人の村人を連れて、北東の沢へ向かった。沢の手前で足を止めた。風がない。空気が重い。直樹は腕時計のような小さな砂時計を腰から外して、土に置いた。


「いつ起きるか」と若者の一人が聞いた。


「あと一時間以内です」と直樹は答えた。


 四十五分後、地響きがした。沢の対岸の崖が、わずかに歪んだ。崖の中腹から、白い水が噴き出した。続いて、岩がいくつか転がり落ちた。


 あばれが起きていた。


 しかし、直樹の予測の通り、あばれの発生地点は沢の対岸だった。村人たちは安全な側にいた。誰一人、傷つかなかった。


「これ、すげえ」と若者は呟いた。


 直樹は静かに、その様子を観察した。あばれの発生メカニズムを、目で確認した。前世での木材の応力解放と、同じ動きをしていた。スケールが違うだけで、原理は同じ。


 彼は腰に挿していた小さな紙を取り出して、目の前で起きた現象を、簡単に記録した。発生時刻、規模、方向、収束までの時間。たった四つの数字。だが、それは前世の工場の生産日報と、同じ形式だった。


 書き終わったあと、彼は紙をしまった。


 手が、ほんの少し、震えていた。十五歳の体が、興奮していた。三十四歳の魂が、その興奮を、噛みしめていた。


 俺の数字が、当たった。


 誰かを救った。


 その事実を、彼は紙の上に、書きとどめた。


 その夜、村に戻ると、隣村からの使者が来ていた。隣村でも、似たようなあばれが起きそうだと言う。村長は直樹を見て、丁寧に頭を下げた。


「カイレン坊。あんた、隣村にも来てくれんか」


「行きます」と直樹は答えた。


 その晩から、噂が広がった。森に若い「あばれ読み」がいる、と。


 ジョルダン老は自分の弟子の評判が広がるのを、複雑な表情で見ていた。だが、止めはしなかった。むしろ、彼は毎晩、直樹のために夕食を二人前用意し、彼が帰ってくるのを待った。


 ある夜、ジョルダン老は、直樹に、こう言った。


「俺の親父も、若い頃、似たようなことをしてた。木が反るのを、止める方法を、独自に編み出して、近隣の村を、回って歩いた。最後は、村人から、感謝されて、死んだ」


「親方の親父さんも、ですか」


「ああ。お前を見てると、親父を、思い出す」


 その言葉を、直樹はしばらく味わった。


 彼は世界中の、無名の職人たちの、無名の積み重ねが、自分の今に、繋がっていることを感じた。彼は、独りではなかった。前世でも、今世でも、彼は、独りではなかった。彼の前にも、後にも、同じことをしている、誰かが、いる。


「お前は、もう村だけの弟子じゃないな」と老人は呟いた。


「親方」


「行ってこい。だが、忘れるな。木の声を聞く心だけは、絶対に手放すな」


 直樹はうなずいた。彼の懐には、自作の紙束が、もう二十枚以上になって入っていた。誰にも読まれない数字。だがロウラは読んだ。ジョルダンは触れた。隣村の人々は信じはじめた。


 彼の日報は初めて誰かに届いていた。


 その夜、村のあちこちで、ろうそくの光が、ともった。村人たちは彼に、感謝していた。直接、口にはしなかったが、彼が通ると、皆が、頭を下げた。


 直樹はその光景に、慣れなかった。


 前世では彼が通っても、誰も、頭を下げなかった。彼は、空気のような存在だった。誰にも気づかれない、誰にも認識されない、無色透明の存在。それが彼の十年だった。


 ここでは、違った。彼が通ると、村人が、視線を、上げる。下げる。彼を、認識する。それは、不思議な感覚だった。


 慣れないということが彼をわずかに戸惑わせた。


 だが、その戸惑いを、彼は、心地よく、感じてもいた。

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