第六章 木取りで村を救う
「これは木取りの問題だ」と直樹は言った。村人たちは意味が分からないという顔をしていた。だが、その一週間後、村の周囲のあばれは止まっていた。
森林日報をつけ始めて六日目の朝、直樹は気づいたことをジョルダン老に話した。
「村の西、川沿いの方角に、応力が集中しています」
「応力。それは木の中の力か」
「はい。木に限らず、土も、石も、空気も、生きている物体の内側には力が走っています。普段はそれが分散しているから、何も起きない。でも、一カ所に集中すると、そこから歪みが始まる」
「ロウラさんと似たことを言うな、お前は」
直樹は微笑んだ。だが、すぐに真面目な顔に戻った。
「親方。村を救うやり方を、ひとつ思いつきました」
その作戦は、村人にとってきわめて奇妙なものだった。村の境界に沿って、適切な配置で倒木を並べる。倒れた木を、ただ並べるのではない。樹種、太さ、樹齢、繊維の向き。それぞれを計算して、応力を逃がす配置にする。
ジョルダン老は最初、首を傾げた。
「呪術の類じゃないんだろうな」
「親方が普段、家具の部材を組むときに、木目の向きを合わせるでしょう。あれを、村の規模でやるんです」
「村の規模で」
「ええ。家具の天板が反らないように木目を合わせるなら、村の地面が歪まないように倒木を並べることも、できるはずです」
老人はしばらく黙ったあと、ふっと笑った。
「お前は本当に、変わったやつだな。じゃあ、人を集めるか」
その日のうちに、村の若者と中年男たちが集められた。直樹は地面に簡単な見取り図を描いて、説明をした。十五歳の少年の声で、しかし内容は大人の論理だった。最初は皆、半信半疑だった。だが、ジョルダン老の口添えで、作業が始まった。
倒木の選定。直樹は森の周辺から、必要な樹種だけを選んだ。心材が硬く、樹齢が三十年を超え、内部の応力がまだ落ち着いていない木。応力が落ち着いていない、というのは、内部に力が残っていて、配置すれば外側の力を引き寄せる性質を持つということだ。
彼は、木を選ぶ時、樹皮に手を当てた。前世の工場で、何百本の丸太の表皮に触れてきた指が、各々の木の応力分布を、感じ取った。十五歳の指は、まだ若かったが、三十四歳の魂の感覚は、確実だった。
樹皮の表面温度は、樹種によって、わずかに違う。応力が高い木は、表面温度が、低い。なぜなら、内部の力が、外気との熱交換を、阻害するからだ。直樹はその違いを、指先で、読んだ。前世では彼が、ほとんど唯一、この感覚を持っていた職人だった。前世の工場で、彼以外に、この感覚で、木を選ぶ者は、いなかった。
ここではその感覚がまた、必要とされていた。
二日かけて、二十七本の候補木を、選び出した。
配置。直樹は、村を中心とする放射状のパターンで、倒木を七本配置した。配置の角度は、毎朝測ってきた風向きと、湿度の変化と、土の硬さの記録から導いた。子どもたちが木の角度を測る手伝いをした。村の女たちは縄を引いて、距離を測った。
「ここに一本」と直樹は言った。「これは樺の若材。繊維の向きを、村の中心に向ける」
子どもが縄を引いた。
「ここに一本。これは樫。繊維を、川の流れと逆に」
男たちが汗を流した。
配置の作業は、丸一日かかった。直樹は最後の一本を、自分の手で動かそうとして、村人に止められた。
「カイレン坊、お前は計算する人だ」と村の長老が言った。「重い物を持つのは、俺たちだ」
直樹はうなずいた。十一年前、新人の頃の自分を、思い出した。当時、彼は現場の作業員と同じように、重い天板を運んでいた。やがて、生産管理に配属され、机の上の数字を扱うようになった。当時の自分は、机の仕事を、軽い仕事だと思っていた。だが、実際にやってみると、机の上の数字は、現場の人々の汗と、対応関係にあった。一行の数字が、十人の作業員の半日に、相当することもあった。
ここでも、同じだった。
直樹は計算した。村人が、その通りに動いた。お互いに必要な、お互いを支える関係だった。
三日が過ぎた。
四日目の朝、村の西側の井戸が、初めてまともに水を吐いた。それまで濁っていた水が、澄んでいた。村の女たちが、最初に気づいた。彼女たちは、井戸の周りに集まって、水を見つめた。誰かが、嬉しそうな声を上げた。
五日目、村の畑の苗が、一斉に首を上げた。
六日目、ジョルダン老の工房の壁が、軋まなくなった。
七日目、直樹は森の小道を歩いてみた。歪んでいた樹根が、わずかに元の方向に戻ろうとしていた。地面の傾きが、緩んでいた。応力が、抜けていた。
村人たちは、最初は半信半疑だった顔を、いつのまにか別のものに変えていた。畏れと、希望と、戸惑いが混ざった顔だった。
「カイレン坊。お前、何者だ」と村の漁師が言った。
直樹はうなずいて、こう答えた。
「ただの木工屋です」
夜、ジョルダン老が直樹を呼んで、自分の工房に連れていった。古びた工具が壁に並んでいた。鉋、鑿、墨壺。墨壺というのは、木に直線を引くための道具だ。糸に黒い墨を含ませて、ぴんと張って、はじくと、木の表面に真っすぐな線が残る。墨付けの基本道具だ。
老人は墨壺を取って、直樹に渡した。
「これは俺の親父が使っていたものだ。今日からお前に貸す」
「親方。これは」
「貸すだけだ。返してもらうぞ。でも、こいつは、お前の手にあるべきだ」
直樹は墨壺を両手で受け取った。手にずしりと重みがあった。年月の重みだった。三十年、四十年、もしかしたら百年。誰かの手の脂が染み込んだ木の柄が彼の手にあった。
彼の目から、涙が落ちた。
なぜ、十五歳の少年の体は、こんなに簡単に泣くのだろうと思った。だが、それは少年の体だけのものではなかった。三十四歳の魂もまた、長い間我慢していた何かを、ここで初めて、緩めていた。
彼の前世の工場の老親方は、誰かに道具を譲ることなく、定年で会社を辞めていった。彼の道具は、退職の日、ロッカーから持ち帰られた。誰の手にも、渡らなかった。
ジョルダン老は、違った。彼は自分の親父の道具を、直樹に、渡してきた。それは、技術と歴史を、次の世代に、託すということだった。前世の工場ではもう見られなくなっていた光景だった。
もしかしたら、前世の世界も、もともとは、こうやって、技術が、次の世代に、渡されていたのかもしれない。だが、いつからかそれが、途切れた。道具を譲る者がいなくなり、譲られる者もいなくなった。彼の十年が、誰にも読まれなかったのはたぶんその断絶の延長線上にあった。譲ることができないものを、受け取ることが、できない時代。彼はその時代の、真ん中に、いた。
でも、ここでは、違った。
ジョルダン老は彼に、墨壺を、渡した。それは彼が、いなくなった時もう一度、誰かに、渡される。その連鎖が、こちらの世界にはまだ生きていた。
直樹はその光景の中に、自分が、いた。
託される側に、自分が、いた。
「親方」と直樹は言った。「俺、もっと、できる気がします」
「何ができる」
「世界中のあばれを、止められる、かもしれない」
老人は何も言わなかった。ただ、頷いた。
その夜、ロウラが森から村へやってきた。霧の体で、ジョルダン老の家の窓辺に座って、直樹を見つめていた。声は出さなかった。
だが、目だけで、こう告げていた。
次は、もっと大きな問題が来る。
直樹は彼女の目を、見返した。
彼女の目に、これまでとは違う、緊張の色があった。森の周辺の、村ひとつ分のあばれを止めたことは彼女にとっても、嬉しいことだった。だが、それはまだ始まりだった。本当の問題はこれから来る。彼女は、そう言いたかった。
直樹は頷いた。
彼もたぶんそれを、感じていた。
窓辺のロウラはしばらく消えなかった。彼女は、夜が深くなるまで、そこにいた。そして、未明、夜が明ける前に、消えた。
窓の外で、夜鳥が鳴いた。同じ鳥だ、と直樹は気づいた。最初に目を覚ました夜、聞いた鳥と、同じ声。彼が、この世界に来てからずっと聞いていた声。




