第五章 森の奥のロウラ
森の奥には光があった。それは直樹がこれまで見たどんな光とも違っていた。湿った苔の上に、少女の形をした透き通る存在がうずくまっている。彼女は泣いていた。
直樹は足を止めた。十五歳の体は震えていた。鼓動が鎖骨のあたりで脈打っているのが、はっきりと感じられた。直樹は怯えていたが、同時にひどく落ち着いてもいた。三十四歳の脳が、目の前の現象を仕分けようとしていた。
少女の体は、半分が霧のように薄かった。腰から下が、まるで陽炎みたいに揺れている。長い髪は淡い緑をしていて、葉脈のような細い筋が走っていた。
彼女の周囲の空気は、わずかに冷たかった。苔の上には彼女の体重で凹む跡が、なかった。重さがない存在だった。だが、その存在は確かに目の前にあった。直樹は自分の世界の物理法則が、ここでは半分ほど、当てはまらないことを、認識した。
「あなた、誰」と少女は言った。
声は耳には届かなかった。直接、頭の中で響いた。
「俺はカイレン。村の木工見習いだ。あなたは」
少女は涙を拭いた。
「私はロウラ。森の声を聞く者」
「精霊、ですか」
「そう呼ばれることもある。あなたたちの言葉では、近いと思う」
ロウラは立ち上がった。立ち上がるにつれて、足元が一瞬だけ実体を持ち、苔の上に薄い影を落とした。それからまた、霧に戻った。直樹は固唾を呑んで見守った。
「最近、声が聞こえないの」とロウラは言った。「木の声が、ぜんぜん聞こえない。何百年も、私はずっと聞いてきた。風の話も、樹根の話も、土の中の虫の話も。でも、ここ三月、世界が黙ってしまった」
「あばれですね」
「知ってるの」
「ええ。木の世界の言葉で、それは聞き慣れている言葉です」
ロウラは少し首を傾けて、直樹を見つめた。瞳が淡い金色だった。直樹はその目に、品定めではない別の何かを感じた。観察。深い、根のような観察。
彼女の視線は、直樹の表面ではなく、もっと奥を、見ていた。前世の彼が、新人の頃、最初の老親方から、似た視線を受けたことがあった。彼はその視線を覚えていた。職人が、別の職人の、技術ではなく、心を、見るときの視線だった。
ロウラは、見えない場所で、彼の心を、評価しようとしていた。
「あなた、別の世界から来た」
直樹の鼓動が、跳ねた。
「どうして、それを」
「あなたの体には、別の世界の数字が書き込まれている。私はそれを読める」
「数字」
「ええ。たくさんの数字。十年分くらい。湿度、温度、応力、刃物の摩耗、樹種ごとのあばれ発生率。あなたの肉体に染み込んでいる。今のあなたの体は十五歳の少年だけど、魂が運んできた数字は、もっと長い」
直樹は両手を見下ろした。少年の手が、今は別人のものに見えた。たしかにこの十年、彼は毎日数字を書いてきた。日報という形で、誰にも読まれないと知りながら、それでもやめなかった数字を。
「俺の日報を、あなたが」と直樹は言った。「読めるということですか」
「魂に刻まれた記録なら、私には読める。生きていた木の記録なら、私の領分だから」
ロウラはふっと笑った。少しだけ、悲しい笑いだった。
「あなたの世界ではその記録は何のためにあったの」
「何のため、ですか」
「誰のために書いていたの」
直樹は答えに詰まった。前世の事務所の蛍光灯の光が、頭をよぎった。深夜の机の、湯気の立たないマグカップ。誰も読まないと知っていた紙の山。あれは、誰のために、書いていたのか。
業務命令ではなかった。会社の制度ではなかった。少なくとも、彼の書く詳細さのレベルでは、誰も求めていなかった。
彼の独自の判断で、続けてきたものだった。
「……たぶん、誰のためでも、なかったです」
「じゃあ、なぜ書いていた」
「習慣だった、と言えば、それで終わるんですけど」
「終わらないわよ」とロウラは言った。「習慣で十年は続かない。あなたは何かのために書いていた」
直樹は沈黙した。風が森を抜けた。葉のこすれる音だけが、しばらく続いた。
ロウラは急かさなかった。彼女は彼の沈黙を、長い時間、待っていた。霧の体のまま、苔の上に座って、彼を、見上げていた。淡い金色の瞳が彼の顔の、表面ではない、もっと奥の場所を、見ていた。
やがて、直樹は呟いた。
「俺は自分が、現場の木と対話していた、と思いたかったのかもしれません」
「対話」
「ええ。木が嘘をつかないことだけ、知っていたから。数字はその日その日の木の声でした」
ロウラは長い時間、黙っていた。それから、こう言った。
「あなたは誰かに読まれるために生きていない。木を読むあなた自身を、まず読みなさい」
その言葉は、直樹の胸の真ん中で、小さく重い音を立てた。意味がすぐには分からなかった。だが、忘れることはできない種類の言葉だった。
彼はその言葉を、頭の中で、何度か繰り返した。木を読むあなた自身を、まず読みなさい。意味を解こうとしたがまだ分からなかった。だが、その言葉は、まるで彼の十年の日報の、すべてのページに同じ言葉で書いてあったように、自然と、彼の中に、収まった。
帰り道、直樹は地面の樹根をひとつずつ見ながら歩いた。歪んだ根。ねじれた幹。空気の中の湿気は、村に近づくにつれて少し落ち着き、森の奥ほど不安定だった。
彼の足取りは、行きよりずっと軽かった。
精霊と話した、という事実が彼を不思議に、軽くしていた。前世では考えられなかったことが、ここでは、ごく普通に、起きていた。森の奥に、何百年も生きてきた精霊がいて、彼の前世の数字を、読んでくれた。それは、奇跡だった。
だが、その奇跡は彼にとって、ずっと前から、起きていたことだった。彼が知らなかっただけで、彼の数字は、十年間ずっと誰かに読まれていたのかもしれない。それを、ロウラが初めて、彼に教えてくれた。
帰り着くと、村の門の前にジョルダン老がいた。腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「精霊と話したか」
「分かるんですか」
「お前の目が、変わっとる。森の奥に行ったら、変わる目をしているやつがいる。だいたい、ロウラさんと会っとる」
「みなさんは彼女のことを」
「知っとるさ。何百年もこの森に住む人だ。最近、お声が出ないと聞いとった」
直樹はうなずいた。
「親方」と直樹は言った。「俺、明日から、森の数値を取り続けます。記録します。何百日分でも」
「やってみろ」と老人は言った。「お前の親父も、木目を百枚比べてからしか刃を入れんかった。お前のやり方、嫌いじゃない」
その夜、直樹は床に伏せて、ノートを作った。樹皮を薄く削った代用紙だった。表紙に、自分の手で書いた。
森林日報。
第一日。
ペン先のような道具で、彼は最初の数字を書きつけた。湿度。気温。土の硬さ。樹皮の状態。たった四つの数字だった。だが、それは前世で書いてきた日報の、まったく同じ形式だった。
彼は微笑んだ。
別世界に来ても、彼の指は、同じ形式の数字を、書き始めた。それは彼の十年の習慣が、世界を越えて、続いているということだった。彼が、誰になっても、誰の体に入っても、彼の指は、同じ動きを、する。指は、覚えていた。十年分の積み重ねを覚えていた。
彼は、ペンを置いた。
今夜、彼は、別の世界で、新しい第一日を、始めた。
窓の外で、月がゆっくりと傾いていた。地球の月とは少しだけ違う形だったが、その傾きの速さは、地球とほぼ同じだった。月の動きは世界を越えて、似ていた。
彼は、月を見ながら、自分の十一年と、今夜のこの瞬間が、繋がっていることを感じた。
誰にも読まれない数字を、今夜もまた、丁寧に並べた。
ロウラだけが、それを読むだろう。
遠く、森の奥で、霧の体のロウラが彼の数字に、目を、向けていた。彼の最初の数字を、彼女は、最初の読者として丁寧に、読んでいた。




