第四章 病める森
村の長老が言った。森が病んでいる、と。それは比喩ではなかった。直樹が翌朝、井戸の隣にあった樫の若木に触れたとき、樹皮が砂のように崩れた。
「これは」と直樹は呟いた。
樫は乾燥に強い樹種だ。樹皮がこんなふうに崩れることは、まずない。指でこすった部分の内側は、白く粉を吹いていた。応力が抜けている。内側の繊維が、互いを支えあう力を失っている。
ジョルダン老が後ろから歩いてきて、肩越しに同じ木を見た。
「これがな。森のあちこちで起きている。ここ三月のことだ」
「人為的なものですか」
「いや。森のあばれ、と長老は言うとる」
あばれ。
その単語が、直樹の喉の奥で引っかかった。聞き間違いではない。この世界の言葉で、ジョルダンは確かに「あばれ」と発音した。直樹の知っている、あの「あばれ」と同じ響きだった。
いや、響きどころか、意味まで、同じだった。
言語が違うはずなのに、なぜ同じ単語が同じ意味で使われているのか。直樹はその違和感を、しばらく頭の中で転がした。それから、ある可能性に思い至った。
もしかしたら、職人の使う言葉は世界を越えて、似た形を取るのかもしれない。
手を動かす者の言葉は、現実の物質の振る舞いから生まれる。物質の振る舞いが似ていれば、それを呼ぶ言葉も似てくる。世界が違っても、木が反るという現象が同じなら、それを呼ぶ言葉は、自然と似た音を持つ。
彼の前世の工場でも、新人の頃、各地の老親方の話を聞いた。九州の家具職人と東北の建具職人が、同じ現象を、ほぼ同じ言葉で語っていた。土地が違うのに、言葉が、似ていた。
ここでもたぶん、同じことが起きていた。
「あばれ、というのは」
「木が暴れる、と書く言葉だ。乾きすぎたり、湿りすぎたりすると、木の中で力が暴れて、反ったり、割れたりする。職人なら誰でも知っとる現象だ。だがな」
ジョルダンは枯れた樫を撫でた。
「最近のあばれは、木だけじゃない。山が、川が、空気そのものが、あばれとる」
直樹は、しばらく言葉を失った。
異世界に来た。それは認めた。少年の体にいる。それも認めた。だが、ここで自分の仕事の名前が、世界規模の災厄の名前として使われている。それは、なんだ。なんの符合だ。
偶然ではない、と彼は感じた。
偶然というには、出来すぎていた。
彼が前世で職にしていたこと、彼が毎日相手にしていた現象、その名前が、この世界の救済の鍵になる現象の名前と、ぴたりと一致する。これを偶然と呼ぶなら、世界には偶然しかないことになる。
もしかして、この世界に呼ばれたのは彼の専門知識が必要だったから、なのか。
その仮説は、十五歳の少年の体には、重すぎた。直樹はとりあえず、その問いを、保留にした。今は目の前の樫の木を、観察することの方が、先決だった。
その日の昼、村の若者三名が、森の奥へ調査に向かったきり戻らなかった。
夕方、捜索隊が出た。直樹も、十五歳の体で加わった。森の小道は途中から斜めに歪んでいた。地面の樹根が、まるで誰かに引きずられたように一方向にねじれている。応力が抜けて、地面ごと反っているのだ。
直樹はそこで足を止めた。
ジョルダン老が後ろから来て、何を見ているのか、と問うた。
「親方。ここの土を測りたいんです。湿度が分かる道具はありますか」
「湿度を測る」
「土の中の水分です。それと、空気の湿り気と、樹皮の表面温度も。少なくとも三つ」
老人は驚いた顔をした。だが、すぐに目を細めた。
「お前は頭を打ってから、変わったな、カイレン」
直樹は黙った。
「いい変わりかただ」とジョルダンは言った。「お前の親父も、そういう目をして木を見てた」
カイレンの父親、という言葉を、直樹は、少年の記憶の中から、引き出した。十年前に、流行り病で亡くなったらしい。当代きっての木工職人だったが、息子に技術を残す前に、世を去った。少年カイレンは、父の顔を、ほとんど覚えていなかった。ただ、父の指の感触だけを覚えていた。
ジョルダン老は、そういう少年の事情を、すべて知っていた。
今、目の前にいる「カイレン」が、本当のカイレンではないこともたぶん、感じていた。だが、それを口に出さなかった。
その晩、直樹は村の中央広場で、ジョルダンと並んで腰を下ろした。星が出ていた。地球のそれとは少しだけ違う星座だった。だが空気の匂いは、雨上がりの木材倉庫と、よく似ていた。
二人の間にはしばらく沈黙があった。
その沈黙は奇妙に、心地よかった。直樹は前世で、こういう沈黙を、何度も味わったことがあった。ベテランの作業員と、新人の自分が、休憩時間に並んで座って、何も話さずに、同じ景色を見ている、そんな時間。
ジョルダンは、そういう、沈黙の中で何かを伝えられるタイプの、老人だった。
その沈黙は、言葉よりも、たくさんのことを伝えていた。お前のことを、信じている、と。お前が、これから何かを始めるのを、応援している、と。だがそれは、決して、軽い気持ちからの応援ではない、と。すべてを、覚悟して、お前を、見守っている、と。
直樹はその沈黙の中に、自分が、新しい何かを始める許可を、得たことを感じた。
「親方」と直樹は言った。「俺、明日から森の中の数字を取りに行きたい。湿度と、温度と、土の硬さ。毎日記録して、変化を読みます」
「読んで、どうする」
「あばれの動きが、予測できるかもしれない」
老ジョルダンは長い間、答えなかった。やがて、湯飲みをゆっくり、机に置いた。木の机がわずかに軋んだ。
「百年使える家具はな。職人が木の声を聞いた家具なんだ。だが、最近の若いやつは数字ばかり見て、声を聞かん。お前は数字を見ろ。だが、最後は、声も聞け」
直樹はうなずいた。
老人は、続けた。
「お前の親父は頭を打ったあと、二月ほど、寝込んでた。目を覚ましたとき、別の人間みたいになっとった。木の見方が、まるで変わっとった」
直樹はその言葉に、息を呑んだ。
もしかしたら、と彼は思った。
もしかしたら、カイレンの父も、彼と同じように、別の世界の魂を、その体に受け入れていたのかもしれない。だから、頭を打ったあと、別の人間のように、木の見方が変わった。
「親父は何を見ていたんですか」と直樹は聞いた。
「数字だ」とジョルダン老は答えた。「数字を見ていた。お前と同じだ」
直樹はしばらく答えられなかった。
話したことはなかった人物。だが、その人物は彼と、似たことをしていた。木目を百枚比べてからしか刃を入れない、という言葉。それは彼の前世での日々と、まったく同じだった。
彼の前世の十年は、ここで、誰かの十年と、共鳴していた。
「親方」と直樹は呟いた。
「お前の親父は、八年前に、流行り病で死んだ」と老人は静かに言った。「死ぬ前、こう言うとった。俺の数字を、誰か、読んでくれるなら、俺はそれで救われる、と」
「……」
「お前が、その読み手になるかもしれん。お前の親父の数字まだ、家のどこかに、しまってある」
直樹は目を伏せた。涙が、出そうになった。
「親方。俺、明日から、森の数値を取り続けます。記録します。何百日分でも」
「やってみろ」と老人は言った。「お前の親父も、木目を百枚比べてからしか刃を入れんかった。お前のやり方、嫌いじゃない」
その夜の沈黙の中で、直樹は自分の前世の日報の山と、カイレンの父の数字の山が、同じ意味を持っていることを感じた。それは世界が違っても、職人の心が、同じ形を取るということだった。
彼が一人ではないことを初めて、彼は、確信した。
翌朝、彼は森の奥へ歩き出した。十五歳の足で、しかし三十四歳の眼で。
森の入口に、朝霧が、立ち込めていた。彼の足が、湿った苔を、踏んだ。
第二幕が、始まっていた。




