第二十一章 朝会
翌朝、直樹は朝会で挙手をした。十年間、一度もしなかった行為だった。島原が、目を細めた。
月曜の朝、八時半。会議室の長机を囲んで、十数人の社員が並んでいた。納期遅れの件で、島原は再び、芝居がかった仕草で両手を広げた。
「困りましたねえ。郷田くんの工程管理、どうもこのところ精度が落ちてきた」
いつもなら、ここで直樹は黙る。今日は、違った。
彼は、ポケットの中の木彫りの欠片に、そっと触れた。
欠片は、温かかった。
その温度が彼の指先から、腕に、胸にゆっくり、伝わっていった。温度の伝達と一緒に、別世界での三月の記憶が、すべて、頭の中にふっと、戻ってきた。ジョルダン老の墨壺、ロウラの言葉、ガリスの最後の冗談、セリディアの計算用の小石、世界樹の塔の上の風。すべて、彼の中に、あった。
彼はもう独りではなかった。
別世界で過ごした三月分の、すべての記憶と、すべての関係が彼を、支えていた。彼らは彼の中に、生きていた。彼が、彼ら全員のために、ここで、声を出さなくては、ならなかった。
彼は手を、上げた。
「課長」と彼は言った。
会議室が、しんとした。十数人の社員が、皆、直樹を見た。彼が朝会で発言するのを、初めて見た者も、いるだろう。十年勤続して、一度も自分から手を上げなかった男が、今、手を上げていた。
「俺は、先週、湿度の上振れリスクを、文書でお知らせしました。社内メールで、ご報告しています」
「俺は受け取ってない」
「サーバの送信記録があります。今、ここで、画面を出します」
直樹はノートパソコンを開いて、皆に画面を見せた。社内メールの送信履歴。先週の水曜日、午後三時四十二分。宛先、島原光紀。件名、天板ロットの遅延リスクについて。本文には、湿度の予測値と、対応策の提案が、丁寧に並んでいた。
「これは」と島原は言った。
「サーバの問題、ではありません」と直樹は言った。「送信は完了しています。受信側のフォルダで、ご確認いただけるはずです」
「お前」
「課長」と直樹は遮った。「俺は十年、誰にも読まれないと知りながら、日報を書いてきました。でも、誰にも読まれない、というのは、課長の口癖でした。事実ではない。読んでいる人は、ちゃんと、読んでいる」
会議室の隅で、辞める予定の若手後輩が深く頷いた。
他の社員も、視線を交わした。誰も、口には出さなかった。だが、皆が、同じものを、感じていた。十年間、誰かが踏み込まなかった場所に、直樹が、足を踏み入れたということを。
島原は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
彼の喉から、出かかった声が、引っ込んだ。
直樹はその声を聞いた気がした。それは、別の世界で聞いた、黒ずみの声と、同じ響きをしていた。
でもそれを、聞いているのは、直樹だけだった。
そして、聞こえてももう、何ともなかった。
彼の中の黒ずみは、別世界で、砕けた。本物の島原が、いまだ何かを呟いていても、それはもう直樹を歪める力を持たなかった。
その日、朝会は予定より十五分長引いた。納期遅れの責任は、生産管理ではなく、経営側の判断ミスとして、整理された。取引先には、別ルートでの再交渉が、提案された。直樹の警告メールは、社内全員に転送された。
昼休み、若手後輩が、直樹のデスクに来た。
「郷田さん、すごかったっす」
「すごく、ない。当たり前のことを、言っただけだ」
「でも、十年、一度も、言わなかったじゃないですか」
「ああ」
「何があったんですか、郷田さん。昨日と今日で、全然、別人みたいです」
直樹は、ポケットの中の木彫りの欠片に、そっと触れた。
「ちょっと、長い夢を見た」と彼は言った。
「夢」
「ああ。三月くらい続く夢だった」
若手後輩は笑った。
「変な夢っすね」
「変な夢だった」と直樹も笑った。
その若手は、結局、辞めなかった。
昼休みのあと、彼は直樹に、辞表の取り下げを、申し出てきた。
「俺、もう少し、この会社で、働きたいです」と彼は言った。「郷田さんが、今日、ああやって、声を出した。それを見て、俺もまだ、見てみたいと思った。この会社で、何が、これから、起きるのか」
「いいのか。お前もう、決めていただろう」
「決めていました。でも、決め直しました」
直樹は若手の顔をしばらく、見つめていた。
彼自身が、十年かけて、できなかったことを、若手は、二十六歳で、できた。決め直すということを。
「分かった。じゃあ、頑張ってくれ」
「お願いします、郷田さん」
二月後、島原は地方支社に異動になった。送別会には、誰も多く集まらなかった。直樹は、義理で、最後に頭を下げただけだった。彼の声はもう別世界の黒ずみの声とは、重ならなくなっていた。
黒ずみは、別世界の応力集中点で、砕けた。
島原は、こちらの世界で、ただの中年の課長として、別の支社に異動した。
二つの存在が、別々の場所に、別々の形で、収まっていた。直樹はそのことに、安堵した。
異動の前夜、島原は、直樹のデスクに来た。短い時間だった。何かを言いに来たようだったが、結局、何も言わなかった。彼は、ただ、直樹の机の上の書類を、しばらく見つめていた。
その視線の先にはその日の直樹の日報があった。
島原はしばらくそれを読んでいた。
たぶん、十年間で初めて、彼は、直樹の日報を、ちゃんと、読んだ。
読み終わったあと、彼は何も言わずに、自分のデスクに戻っていった。直樹も、声を、掛けなかった。二人の間に、それ以上の、言葉は、必要なかった。
翌朝、島原は、地方支社に向かう車に、乗り込んだ。窓越しに、直樹を、一瞥した。直樹も、その視線を、受けた。二人は何も言わなかった。
車が走り去った。
直樹は自分のデスクに戻った。
その日、彼は、新しい日報を、書き始めた。彼の十年の続き。彼の人生の続き。
以前と同じ、地味な、誰にも読まれない、数字の並び。
でも、彼はもうその数字の意味を、知っていた。
数字の下に、彼は初めてコメントを書いた。前は、書かなかった。書いても、誰も読まない、と思っていた。だが今は、違った。彼自身が、読む。彼自身が、自分の数字に、コメントを残す。それは自分自身との、対話だった。
コメントは、短かった。「今日のロット、含水率高め。明日の朝、再測定」。それだけ。
たった、それだけのコメントだった。
だが、それは彼の人生で、最も意味のある、一行だった。
書き終わったあと、彼は、画面をしばらく、見つめた。十年と三月かけて、彼が、ようやくたどり着いた、一行。自分の数字に、自分でコメントをつける、というシンプルな行為。誰でもできるようで、誰もしない行為。彼はそれを、今日初めて、した。
彼は若手後輩の指導役を、任された。
翌週から、彼は後輩に、日報の書き方を、教え始めた。
最初に教えたのは、数字の書き方ではなかった。
まず、こう、言った。
「日報はな、誰かに読まれるために、書くんじゃない。お前自身が、自分の仕事を、読むために、書くんだ」
若手は、困った顔をした。
「分からなかったら、十年、続けてみろ。十年やれば、分かる」
「十年、すか」
「ああ。十年だ」
若手は、しばらく考えて、それから、こう答えた。
「分かりました、郷田さん。十年、続けます」
直樹は微笑んだ。
彼の十年の続きが、別の人間によって、書かれ始めようとしていた。
それは彼の十年がまた、世界のどこかで、つながり始めることを、意味していた。
彼はふと、自分の指を見た。
爪の根元に、いつものように、木屑が、挟まっていた。前世の指。十年と三月分の指。指はもう震えていなかった。
彼は、机に向かって、今夜の数字を、書き始めた。
誰にも読まれないと知りながら、しかし、世界に届くと、確信しながら。
その確信が彼の指を、軽くした。十年と三月の経験がようやく彼の指に、誇りを、与えていた。誇りは、傲慢とは違う。誇りは自分の手の動きを、信じるということだった。彼の指は、信じてよいものだった。十一年と三月かけて、彼はその事実を、知った。




