第二十章 元の世界への帰還
天井の蛍光灯が、一本だけ切れかかっていた。同じ灯り。同じ匂い。同じ湿度。だが、見ている自分は、もう同じではなかった。
直樹は、工場の事務所の床に倒れていた。
体が痛んだ。腰が、こめかみが、肩が、痛んだ。三十四歳の体だった。十五歳の細い手ではなく、自分の手だった。少し節くれだった指。日常の細かい傷の痕がいくつもある手。爪の根元に、木屑が挟まっていた。
彼はゆっくり身を起こした。
桟積みエリアの前だった。半分崩れた厚板の束。だが彼の体はその下敷きにはなっていなかった。
「郷田さん、大丈夫っすか」
声がして、振り向くと、後輩の若手が立っていた。来月で辞める予定の二十六歳。彼は青ざめた顔をしていた。
「俺、戻ってきた」と直樹は呟いた。
「え」
「いや、すまない。荷崩れがあった気がするけど」
「ありましたよ。郷田さんが、すんでのところで、跳ね飛んだんです。俺が叫んで、郷田さんが反応して、半分崩れた板の隙間に倒れ込んだ。打ち身ぐらいで済んでます」
「打ち身、ぐらい」
「ええ。救急車、呼びますか」
「いや、大丈夫だ」
直樹は立ち上がった。十五歳の体ではなかった。三十四歳の体だった。腰が痛い。だが、生きている。
彼は工場の床を見た。コンクリートの床。蛍光灯の青白い光。湿度計の赤いランプ。
全部、見覚えがあった。
窓の外で、雨が降っていた。来月のはずだったのにまだ、月曜の夜だった。あの雨だ。納期遅れの雨だ。彼が、十五歳の体に転生する、直前の雨だった。
時間は、ほとんど、進んでいなかった。
彼が異世界で過ごした三月は、こちらでは、ほんの数秒のうちに、終わっていたらしい。
いや、もしかすると、こちらの世界の時間と、向こうの世界の時間は、まったく違う速度で、流れているのかもしれない。向こうの三月が、こちらの数秒に圧縮されていた、というよりも、向こうの三月と、こちらの数秒は、それぞれの世界での、独立した時間として、別々に、進んでいた、と考えるべきかもしれなかった。
どちらにせよ、彼は、今、ここに、いた。三十四歳の体で。腰の痛みと、こめかみの打ち身を、抱えて。
若手は彼の前でまだ、心配そうな顔をしていた。
「郷田さん本当に、大丈夫ですか」
「ああ。大丈夫だ」
「立てますか」
「立てる」
直樹は若手の肩を、軽く叩いた。
「ありがとう。叫んでくれて」
「いえ、当たり前です」
「いや。当たり前じゃない」と直樹は言った。「お前が叫んでくれたから、俺は、こうして、立っている。お前がいなかったら、俺はたぶんもう、立っていない」
若手は目を、まばたかせた。
直樹の言い方が、いつもの彼とは違っていた。十年間、無口で、礼の言葉も少なかった先輩が、今まっすぐに、礼を伝えていた。
「郷田さん」
「ああ」
「いえ、何でもないっす。とりあえず、座ってください」
直樹は、ふらつきながら、事務所に戻った。机の引き出しをゆっくり、開けた。
十年分の生産日報のファイルが、そこにあった。
誰にも読まれなかった日報。
彼はその一枚を取り出して、読んだ。
五年前の、三月の、ある日の数字。湿度六十二パーセント。気温十八度。あばれ予想発生数、三台。実際の発生数、二台。
たった、それだけの記録。
彼はしばらくその紙を見つめた。
涙が、落ちた。
誰にも読まれない数字。でも、彼は、書いた。十年、書き続けた。
そして、その十年が、別の世界で、世界を救った。
彼は紙を丁寧に引き出しに戻した。
その時、彼は、机の隅に置いてあった、もう一冊のファイルに、気づいた。
会社の正式な、生産日報のファイルではない。彼が、個人的に、机の隅で、五年前から、続けていた、もう一つの記録だった。
タイトルは、なかった。
彼は、それを開いた。
ページの一枚目に、彼自身の手で、こう書かれていた。
「自分のための記録」
その下に、五年分の、別の種類の記録があった。会社の正式な日報には、書けない種類の記録。後輩を辞めさせないために、彼が、独自で、その日の若手の様子をメモした記録。島原の発言の、日付と要点。彼の判断ミスを、自分の中で、いつ、どう取り戻したか。そういう、人間関係の記録。
彼はそれを、五年、続けていた。
そして、それも、誰にも、読まれなかった。
いや、今、彼が、それを読んでいた。
彼自身が、五年分の自分を、読んでいた。
ロウラの言葉が、頭の中でまた、響いた。
あなたは、誰かに読まれるためにいない。あなた自身を、読んで。
彼は、ファイルを閉じた。
そして、引き出しに丁寧に、戻した。
彼の自分への記録はこれからも、続くだろう。誰にも、読まれなくても。だがそれで、いい。それで、彼の人生は、続く。
ポケットの中で、何かが、固い感触を伝えてきた。
彼は、ポケットに手を入れた。
小さな、木彫りの欠片が、入っていた。
桜の木に似た、淡い色の木片。手のひらにすっぽり収まる大きさ。表面に、葉のような模様が、彫られていた。
ロウラの欠片だった。
持って帰れないはずの、欠片。でも、彼の胸の中、ではなく、ポケットの中に確かに、入っていた。
彼はその欠片を、しばらく握り締めた。
欠片は彼の手のひらの中でわずかに、温かかった。
彼は目を閉じた。
遠くで、ロウラの声がする気がした。気のせいかもしれない。だが、その気のせいは彼にとって、十分な真実だった。
別の世界での三月が、本当にあったのだ。十五歳の少年の体で、彼は森の数字を取り、世界のあばれを矯正し、黒ずみと向き合った。あの体験は、夢ではなかった。
あれは彼の十年が、世界に届いた、その時間だった。
彼はゆっくり目を開けた。
工場の床。蛍光灯の青白い光。湿度計の赤いランプ。
全部、戻ってきていた。
彼が異世界に行く前に、見ていた光景。彼が、桟積みの隙間に挟まれて、頭を打って、意識を失う直前に、見ていた光景。それが、すべて、戻ってきていた。
たった、数秒の不在だった。だが、彼にとっては、三月の旅だった。
時の流れの、奇妙な歪み。
彼はその歪みを、理解しようとは、しなかった。理解できる種類のものではなかった。彼は、ただ、その歪みを、受け入れた。
その日の朝までに、彼は何度も、ポケットの欠片に触れた。確かにあるのを、確かめた。指で形をなぞった。表面の葉の模様を、撫でた。
あれは、夢ではなかった。
窓の外で、雨はまだ降り続いていた。
だが、彼はもう怖くなかった。
怖くなかった、というのは、雨そのものが怖くないのではない。雨の中で、自分が何者か、分からないことがもう怖くないのだ。
彼は自分が、誰なのか、知っていた。
郷田直樹。三十四歳。家具メーカーの生産管理職。十年以上、誰にも読まれない日報を書いてきた男。そして、別の世界で、その日報の力で、世界を救った男。
誰にも、その後者の事実は、信じてもらえないだろう。
でも、彼には、ポケットの欠片があった。
それで、十分だった。
彼はもう一度、机に座って、目の前のパソコンを見た。画面には、未完成の日報が、表示されていた。あの夜、彼が、打ち込みかけていた、最後の数字。湿度七十八。気温十九。樹種オーク。あばれ予測九台。
その数字を、彼はゆっくり読み直した。
別世界で、最後の応力点を、矯正した、その数字。
そう、知っている彼が、今、ここでもう一度、その数字を、見ていた。
彼はその数字を、保存した。
画面の中で、保存完了のアイコンが、光った。
その光を、彼はしばらく見つめた。前世の世界の、デジタルの光。別世界の、ろうそくの光と、よく似た青さ。違う技術、違う材料、だが、青さの中に、似た光があった。
彼はその青さの中に、自分の十年と三月の、すべてを感じた。
窓の外で、雨はまだ降り続いていた。
彼は、椅子に、もたれた。十年以上、椅子の同じ場所に、もたれてきた。彼の体重でわずかに、凹んでいる場所。明日の朝までに、彼はまたここに、座るだろう。明後日も、その次の日も、同じ椅子に、座るだろう。
彼の仕事は、続く。
彼の十年の続きが、これから、始まる。
窓の外で、雨はまだ降り続いていた。




