第十九章 別れ
ロウラは消えていなかった。世界が安定したからこそ、彼女は安定して存在できた。だが、それは別れを意味した。木の声が再び聞こえる世界に、別の世界から来た客人はもう、必要なかった。
矯正作業の翌朝、直樹は世界樹の塔の上で、別れの会を開いた。
集まったのは彼が三月の旅で出会った人々だった。
ジョルダン老。寺院で待機していた老人が、若い使者の馬に乗って、駆けつけてきていた。
セリディア。十九歳の貴族令嬢は、青い旅装をまだ着ていた。
カイレンの母。村から、ひと月かけて歩いてきた。彼女は息子と直樹の両方に、抱きついた。
各地の木工ギルドの代表。
そして、ロウラ。完全な姿で、白い長衣を着て、塔の中央に立っていた。
直樹は、皆の前で、頭を下げた。
「俺は、別の世界から来た者です」と彼は言った。「カイレンの体を借りて、ここまで来ました。今日、俺は、元の世界に帰ります。カイレンの体はカイレンに返します」
誰も、驚かなかった。
ジョルダン老が、ふっと笑った。
「最初から、知っとった」と老人は言った。「お前はカイレンじゃなかった。でも、俺はそれを、認めとった。なぜなら、お前はカイレンと同じ目で、木を見ていたから」
「親方」
「行ってこい。お前の世界に。だが、忘れるな。お前は、ここで、世界を救った。それは、消えない事実だ」
ジョルダン老は、最後にもう一度、直樹の肩を、軽く叩いた。十五歳の少年の肩には、老人の手の重みが深く染み込んだ。
その重みを、直樹は、生涯、忘れないだろうと思った。
セリディアが進み出た。彼女は、計算用の小石を入れた袋を、直樹に差し出した。
「これは、要らないわ」と彼女は言った。「あなたの元の世界では、こんな小石は、ただの石。でも、私のところに置いておくと、いつかまた、あなたを呼べる気がする」
「セリディアさん」
「もう、さんも要らない」と彼女は微笑んだ。「セリディア、と呼んで」
「セリディア」
「あなたの数字を、私が引き継ぐ。これからは、私が、世界の応力を読む。あなたが教えてくれた数字を忘れない」
彼女は、直樹を、軽く、抱きしめた。十九歳の貴族令嬢の抱擁は、短かった。だが、確かなものだった。
彼女は、離れる時、ささやくように、こう言った。
「私の母も、あなたをたぶん、見ていた。あの世から」
直樹は目を、ぱちくり、させた。
彼女の母は、地脈の研究をしていた。彼女の母も、彼の十年と、似た仕事を、していた。違う言葉で、同じことを、していた。
二人は、頷きあった。
カイレンの母が、進み出た。
彼女は何も言わなかった。ただ、直樹の頭を、撫でた。
その手のひらの温かさを、直樹は一生、忘れないだろうと思った。
彼女の指は、台所仕事で荒れていた。だがそれが、母の指の証だった。前世の彼の母も、同じような指を、持っていた。世界が違っても、母の指は、似た形を取る。
彼は目を閉じて、その指を、心に、焼きつけた。
もう一度、頭を撫でられる、その瞬間を、彼は、待った。
最後に、ロウラが進み出た。
彼女は、直樹に、小さな木彫りの欠片を、渡した。
「これは」と直樹は言った。
「あなたの世界には、本当は、持って帰れない物」とロウラは言った。「でも、あなたの胸の中には、残る。私からの最後の贈り物」
欠片は、桜の木に似た、淡い色の木片だった。手のひらにすっぽり収まる大きさ。表面には、葉のような模様が、彫られていた。
「あなたは、誰かに読まれるためにいない」とロウラは言った。「自分自身を、読んで生きて」
「ロウラ」
「行って。私はここでまた、木の声を聞く。あなたが残してくれた、新しい数字も、読みながら」
彼女は、直樹を、抱きしめた。
彼女の体はもう霧ではなかった。確かな体温があった。十年以上ぶりに、誰かの体温を、こんなに長く感じた、と直樹は思った。
彼女の髪から、森の匂いがした。雨上がりの苔の匂い。湿った樹皮の匂い。土に染み込む雨水の匂い。すべて、彼が三月、毎日、嗅いできた匂いだった。
彼は目を閉じて、その匂いを、深く吸い込んだ。
たぶん、もう二度と、嗅ぐことのない匂い。
彼は涙を流した。十五歳の体の涙だったが、三十四歳の魂のものでもあった。
「ありがとう、ロウラ」
「ありがとう、ナオキ」
彼女は彼から離れた。
離れる時、彼女の指が、直樹の手のひらに、ほんの一瞬だけ、軽く触れた。
その感触を、彼は、生涯、覚えているだろうと思った。
彼女は彼の前で、一歩、引いた。それから、もう一歩、引いた。最後に、塔の中央に、戻った。
彼女の体はもう霧に、戻り始めていた。世界樹の中の塔でだけ、彼女は、実体を持てた。塔の外に出ればまた、霧になる。
彼女は、霧の体で、直樹を見つめた。
「ロウラ。あなたはこれから、どうするんですか」
「また、森に戻る。世界の木の声を、聞きながら、生きていく。たぶんもう、何百年も」
「俺の数字を覚えていてくれますか」
「もちろん。私の中に、あなたの十年が、染み込んでいる。それは、消えない」
直樹は頷いた。
彼女もまた、頷いた。
二人の頷きは、もう言葉が要らない関係の、最後の確認だった。
カイレンが、塔の中央に現れた。光のような形のままだったが、はっきりと、少年の形をしていた。
「兄さん」と彼は言った。「準備、できたよ」
直樹は深く頷いた。
彼はジョルダン老の墨壺を、ジョルダン老に返した。
「これは、お前のだ」と老人は言った。
「いえ、親方、これはこの世界のものです。俺はこれを、新しい墨で、満たして、ここに置いていきます」
直樹は墨壺に新しい墨を入れ、塔の中央に、丁寧に置いた。
その墨壺はジョルダン老の親父の親父の代から、使われてきたものだった。これからも、誰かに渡される。そして、その誰かがまた、誰かに渡す。連鎖は、続いていく。
直樹はその連鎖の、ひとつの環として、自分が、含まれたことを、誇りに思った。
そして、紙束を、セリディアに渡した。
「あなたが、続けてください」
「ええ」
セリディアは紙束を、両手で、受け取った。彼女はそれを、胸に押し当てた。母から受け継いだ研究と、別の世界から来た少年が残した数字。それらが、今、彼女の手の中に、収まった。
彼女は、新しい世界の、新しい応力読みになる。
彼は、最後に、ロウラの渡してくれた木彫りの欠片だけを握り締めた。
光が彼を包み始めた。
遠ざかる視界の中で、彼は、皆の顔を、ひとつずつ、見た。
ジョルダン老。セリディア。カイレンの母。ロウラ。カイレン。
その一人ひとりが、彼にとって、別世界の家族のようなものだった。三月という短い時間に、十年分の人生を凝縮したような関係だった。彼は彼らを忘れない。彼らもまた、彼を忘れないだろう。
ジョルダン老は、最後まで、立っていた。腕を組んで、彼を見送っていた。涙を見せなかった。だが、その目だけが、彼にすべてを伝えていた。よくやった、と。お前は、立派な職人だ、と。
セリディアは、片手を上げて、振っていた。彼女の青いドレスが、風で揺れていた。十九歳の貴族令嬢の、生まれて初めての、別れの挨拶だった。彼女もまた、これから、世界を保たせる役目を、引き継ぐ。彼の数字を、彼女の魔術と組み合わせて、彼女が、続けていく。
カイレンの母は、両手を胸の前で組んで、目を閉じていた。たぶん、祈っていた。直樹のためか、息子のためか、両方のためか、彼女自身にしか分からなかった。
光は、強くなった。
最後に見えたのはロウラの微笑みだった。彼女の淡い緑の髪が、世界樹の塔の上で、風に流れた。彼女の唇が、何かを呟いた。
声はもう聞こえなかった。
だがたぶん、こう言っていた。
ナオキ、ありがとう。あなたの十年に、ありがとう。
彼の目の中で、光が、いよいよ、強くなった。視界が、白く、染まった。
最後に、ロウラの瞳が、見えた。淡い金色の瞳。彼をずっと読んでいた瞳。それが、彼に、最後の挨拶を、送った。
次の瞬間、彼は、別の場所にいた。




