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異世界に転生した木工屋は、世界の歪みを矯正する  作者: もしものべりすと


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22/22

第二十二章 終わりの光景

夜の事務所。蛍光灯は新しいものに替わっていた。生産管理課の郷田直樹は、今日の作業実績票を一枚ずつめくり、数値をパソコンに打ち込んでいた。窓の外では雨が降り始めている。明日の含水率は跳ね上がるだろう。


 深夜十一時。あの夜と同じ時刻だった。あの夜と同じ場所だった。だが、机の上には、もう一台、パソコンがあった。隣の席で、後輩の若手が、同じように作業実績票をめくっていた。


 もう、辞める予定の若手ではなかった。辞表を取り下げた若手。直樹が指導役になったあの日から、彼はずっと、隣の机にいた。


 窓の外で、雨が、規則的な音を立てていた。あの夜と、同じ雨だった。湿度計はまた七十八パーセントを示していた。明日の含水率はまた跳ね上がるだろう。明日の納品もまた、ぎりぎりだろう。


 でももう、怖くなかった。


 彼は自分のやり方を、知っていた。十年以上、毎日、書き続けてきたやり方。世界を、保たせる方法。家具の天板を、百年、保たせる方法。そして、自分自身を、保たせる方法。


 工場の天井で、新しい蛍光灯が静かに、青白い光を、降らせていた。


 あの夜、切れかかっていた蛍光灯は、先月、交換された。あの夜と同じ場所に、新しい蛍光灯が、同じ青白い光を、降らせていた。


 その光の下で、直樹は、次の数字を、打ち込もうとしていた。


「郷田さん」と若手が言った。


「ん」


「この日のロット、含水率が高いのに、あばれの発生数、二台で済んでます。なんで」


 直樹はその日のデータを覗き込んだ。三年前の、ある日のデータだった。彼は、すぐに答えた。


「桟積みの隙間を、その日、変えたんだ。湿度が高いときは、隙間を広げる。空気の流れを増やすと、応力の偏りが、軽くなる」


「そんなの、どこにも書いてない」


「俺の頭の中にしか、書いてない」


「教えてくださいよ」


「今、教えただろう」


「もっと、ちゃんと」


「だから、日報を、書け。書きながら、考えろ。日報はな、誰かに読まれるために書くんじゃない。木と自分の対話の記録なんだ」


 若手は笑った。


「郷田さん、なんで、そんなに楽しそうに書くんですか」


 直樹はしばらく考えた。


 それから、こう答えた。


「俺の日報は世界を救ったことがあるんだ」


 若手は、冗談だと思って、笑った。


「そりゃ、すごい日報っすね」


「ああ。すごい日報なんだ」


 窓の外で、雨が、少し強くなった。


 直樹は、机の引き出しを、そっと、開けた。


 誰にも見せない場所に、小さな木彫りの欠片が、入っていた。


 桜の木に似た、淡い色の木片。手のひらにすっぽり収まる大きさ。表面に、葉のような模様が、彫られている。


 彼は、欠片に、指で、触れた。


 欠片はわずかに、温かかった。


 遠い、別の世界の森で、ロウラがまだ彼の数字を、読んでいるのだろう。


 彼女の透き通る金色の瞳がまだ見ているのだろう。


 森の精霊が彼の十年の日報を、読み続けている限り、彼の十年は、無駄ではない。


 もしかしたら、世界中の、無名の職人の、無名の日報も、どこかの精霊がずっと読んでいるのかもしれない。誰にも気づかれないところで、誰かの十年が、別の世界で、誰かの世界を、救っているのかもしれない。


 その想像は彼を、温かくした。


 彼は、引き出しを閉じた。


 窓の外を見た。


 雨はまだ降っていた。


 あの夜と同じ雨だった。でももう、怖くなかった。


 彼は、パソコンに向き直って、次の数字を、打ち込んだ。


 数字の下に、彼はコメントを書いた。


「樺の若材、含水率十六パーセント。応力分布、良好。桟の隙間、推奨二寸五分。あばれ予測、ゼロ」


 今夜の日報の、最後の一行だった。


 今日も俺は、誰にも読まれない日報を書いている。


 それは世界で一番自由な仕事だ。


 窓の外の雨音が、深夜の事務所を、優しく包んでいた。


 明日の朝また、納期がある。


 彼の仕事は、続いていく。


 彼の十年は世界を、保たせた。


 そして、これから先の人生も、彼は彼自身を、読みながら、生きていく。


 誰にも読まれない数字を、今夜もまた、丁寧に並べた。


 最後の数字を打ち込んだあと、彼は深く息を吐いた。


 それから、隣の若手に、こう言った。


「お前の日報、後で、見せてくれ」


「え、見るんですか」


「ああ。今日から、俺は、お前の日報を、読む」


 若手は目を丸くした。それから、笑った。


「お願いします、郷田さん」


 その夜、二人は、それぞれの日報を、書き終えたあと、お互いの紙を、交換した。直樹は若手の日報をゆっくり、読んだ。


 若手の日報はまだ粗かった。誤字も多かった。数字の取り方も、まだ甘かった。だが、書こうとする意志が彼の数字には、染み込んでいた。


 十年前の、彼の最初の日報と、似ていた。


 直樹は微笑んだ。


 彼は若手の日報の最後の行に、コメントを書いた。


「ここは、湿度を取る時間が、午前と午後で、ばらついている。次は、固定の時刻にしよう」


 たった、それだけのコメントだった。


 だがそれは、十年前の彼が、最も欲しかった種類の、先輩からの言葉だった。


 彼が、十年前、誰からも、もらえなかった言葉。


 それを、彼は、今、若手に、渡した。


 歪みも、変化も、伝染する。


 彼は彼の歪みを、若手に伝染させなかった。代わりに、彼の十年の積み重ねを、若手に渡した。それは、変化の伝染だった。


 二人の机の上の蛍光灯はまだ青白い光を、降らせていた。誰にも読まれない日報を、二人は、それぞれ、書いていた。


 でも、お互いに、読み合うことを、今日から、始めた。


 誰にも読まれない、はもう、終わった。


 別世界の森でロウラが、こちらの世界で若手が彼の十年を、読んでいた。それで、十分すぎるほど、十分だった。


 しばらくして、若手が、ぽつりと、こう言った。


「郷田さん」


「ん」


「俺、辞めないで、よかったです」


 直樹は、画面から、目を上げた。


「ああ」


「郷田さんが、あの朝、声を出さなかったらたぶん、俺、今ここにいません」


「お前が、辞表を取り下げたんだ。俺じゃない」


「いえ、郷田さんが、先に、変わったんです。だから、俺も、変われた」


 直樹はしばらく答えなかった。


 その言葉をゆっくり、心の中で、噛みしめた。


 俺が、先に、変わった。


 その認識は彼の中で、新しい意味を持っていた。


 彼が、変わった。それを誰かが見て、その誰かがまた、変わった。一人が、変わることは、誰かを、変えることでもあった。歪みが伝染するのと同じように、変化も、伝染する。


 ロウラが言っていた、誰かに読まれるためにいない、という言葉は、誰にも届かないということではなかった。読まれることを期待しなくても、結果として、誰かには、届くということだった。読まれることを期待していたら、書けないものが、世の中には、ある。読まれることを期待しないからこそ、書けるものが、ある。そして、そのものは、結局、誰かに、届く。


 別世界での三月は彼に、その逆説を、教えてくれた。


 今、彼はその逆説の中を、生きている。


 彼は若手の顔を見た。


「お前も、これから、誰かを変える」と彼は言った。


「俺が、ですか」


「ああ。お前はもう変わった。お前が変わったところを、いつか、別の新人が、見るだろう。その新人がまた、変わる」


「うーん。あんまり、ピンと来ないっす」


「来なくていい」と直樹は笑った。「来なくても、伝染する。それが、変化、っていうもんだ」


 窓の外で、雨が、続いていた。


 工場の天井で、新しい蛍光灯が静かに、青白い光を、降らせていた。


 彼の長い長い十年と三月の旅は、ここで、終わった。


 そして、新しい一日がまた、始まろうとしていた。


 彼はもう一度、画面に向かって、最後の数字を、確認した。


 数字はまっすぐに画面の中に、並んでいた。墨壺で引いた線のように、まっすぐに。


 その数字の上を、雨音が優しく、流れていった。


 彼の指はもう震えていなかった。


 彼は、明日の朝の、最初の納期のことを、考えた。明日も、彼はまたここに来る。また、数字を、打つ。また、誰かと、話す。それが彼の続いていく人生だった。


 その続きを、彼はこれから、書いていく。


 誰にも読まれない数字をそれでも、丁寧に。

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