第十七章 最後の樹皮紙
塔の頂で、ロウラが言った。「ナオキ、最後の数字を読んで」直樹は震える指で、自分が三月書き溜めた樹皮紙の最後の一枚をめくった。そこに書かれていたのは自分でも見覚えのない数字の列だった。
黒ずみとの対決の後、直樹は世界樹の幹の中の塔へ登った。世界樹の幹は中空で、内部に、太古からの塔が組み込まれていた。塔の頂上に、彼は登った。
塔の階段は、急で、暗かった。十五歳の体にはそれでも、登れた。彼は、一段ずつ、登っていった。途中何度か、足を止めた。胸が、苦しかったが、痛みは、ほとんど、なかった。
黒ずみと対決した直後の、奇妙な軽さが彼の中に、あった。
長年抱えてきた重みが消えた、軽さ。
その軽さは、空腹に、似ていた。食べ物が、何も入っていない胃のような、空っぽな感じ。だが、その空っぽさは、悪いものでは、なかった。これから、何か新しいものを、受け入れる準備の、空っぽさだった。
頂上には、誰もいないはずだった。
だが、ロウラがいた。
完全な姿で。霧ではない、実体のある体で。
白い長衣を着て、彼女は塔の縁に座っていた。直樹を見て、微笑んだ。
「ロウラ」
「久しぶり、ナオキ」
「あなた、消えたはずだ」
「消えたわ。でも、世界樹の中なら、私はまだ、いる。世界樹が私の本体だから」
直樹は彼女のところへ歩いた。霧ではない、実体のある手で、彼女は彼の手を取った。あたたかかった。
「最後の数字を読んで」と彼女は言った。「あなたの紙束の、最後の一枚」
直樹は紙束の最後をめくった。
そこには、見覚えのない数字が並んでいた。
彼は書いた覚えがなかった。
「これは」
「あなたの体が、書いた」とロウラは答えた。「前世の十年の数字が、転生のときに、新しい体に染み込んだ。その数字が、新しい紙の上に、染み出ている」
直樹は震える指で、数字を読んだ。
それは彼の前世の、十年目の生産日報の、最後の数字だった。
彼が事故で死ぬ前夜の、深夜の数字。誰にも読まれないと知りながら、彼が最後に書いた数字だった。
「これが、世界を救った数字よ」とロウラは言った。
「俺の、十年目の、最後の数字」
「ええ。あなたが、最後に書いた、ひとつの数字。それが、最後の応力集中点を、ちょうど矯正できる強度を持っていた」
直樹は微笑んだ。
彼の十年は本当に、世界を救った。
彼はその数字をもう一度、声に出して読んだ。湿度七十八。気温十九。樹種オーク。あばれ予測九台。
たった、それだけの数字だった。前世の事務所で、雨の音を聞きながら、彼が打ち込んだ、最後の数字。
その数字が、別の世界で、最後の応力点を、矯正した。
偶然ではない、と直樹は思った。最初から、これは彼のために、用意されていた問題だった。彼の十年の最後の数字が、ぴたりと、別の世界の最後の問いの、答えになっていた。
それは彼の十年が、世界に対してずっと計算され続けていたということだった。誰にも読まれなかったとしても、世界は彼の数字を、読んでいた。
ロウラの言葉の意味がようやく彼の中で、完全に、結晶化した。
あなたは、誰かに読まれるためにいない。あなた自身を、読んで。
彼は自分を読んだ。
そして、世界は彼を、読んでいた。
その両方が、同時に、起きていた。それで、十分だった。
彼の心の中で、長い間引きずってきた問いがようやく静かに、収まった。
俺の仕事は、意味があったのか。
その問いに、彼は、今、確信を持って、答えることができた。
あった。
誰にも読まれなくても、あった。十年の積み重ねは世界のどこかで必ず何かに、繋がっていた。それを直接見ることがあるかは、別問題だった。直樹は、たまたま、別の世界で、それを直接見る機会を、与えられた。だが、見なくても、繋がっている。それが、職人の十年のたぶん、真実だった。
彼は紙束を閉じた。胸に押し当てた。
「ロウラ」と彼は言った。「俺、帰ります」
「ええ。元の世界に」
「あなたは」
「私はここに残る。世界樹と一緒に、ずっと」
その時、塔の入り口から、一人の少年が現れた。
カイレンだった。
直樹がここまで借りていた、十五歳の少年の体。だが、目の前にいるのはその体の元の魂だった。光のような形を取った、十五歳の少年カイレンの魂。
「兄さん」とカイレンは言った。「僕の体、借りてくれて、ありがとう」
直樹はしばらく声を失った。
「カイレン」
「兄さんがいたから、僕の村は救われた。森も救われた。みんなが生きている。だから、ありがとう」
「俺は、お前の体を」
「使ってくれた、んだよ。僕は三月前、頭を打って、死んでた。本当は。でも、兄さんが来てくれたから、僕の体は動いた。母さんに、もう一度会えた。親方に、もう一度会えた。それで、十分なんだ」
直樹は、涙を堪えた。
「俺の体に戻ったら、お前は」
「僕の体に戻る」とカイレンは微笑んだ。「兄さんの記憶も少しだけ、持っていく。木の数字の見方。あれは、すごく勉強になった。これからは、僕がこの村を、守るよ」
「カイレン」
「いってらっしゃい、兄さん」
少年の魂は、淡い光を放っていた。彼が三月前に死んだはずだった事実が、直樹の心に、静かな痛みを残した。直樹はこの少年の人生の三月を、借りていた。返さなくてはいけない。返したあとは、少年は自分の人生を、自分で歩いていく。それで、いい。それが、正しい。
直樹は、最後にもう一度、カイレンに、頭を下げた。
「お前の体を、大切に使った、つもりだ」
「分かってる、兄さん」
「お前の村のことを、お前の母さんのことを、お前の親方のことを、全部、覚えている」
「忘れないでくれて、ありがとう」
カイレンの魂は微笑んだ。光のような輪郭が優しく、揺れた。
「兄さんの世界でも、誰かが、兄さんを、待ってる」
「ああ」
「行ってあげて」
「ああ」
ロウラがそっと、直樹の手を握った。
「準備はできた」と彼女は言った。「いつでも、最後の楔を、打てる」
直樹は、最後にもう一度、塔の上から、世界を見渡した。
空の傾きがまだ続いていた。世界中で、木工職人たちが、それぞれの場所で、彼の合図を待っていた。応力はまだ世界全体で、暴れていた。
空が、傾いていた。
遠くの森が、見えた。彼が最初に目を覚ました村。母が粥を作ってくれた家。ジョルダン老の工房。ロウラが座っていた苔の上。すべて、見えた。
その光景を、彼は、目に、焼きつけた。
まだ、世界は、救われていない。彼は、今、塔の頂上で、最後の楔を、握っていた。これからそれを、打ち込む。
彼は深く息を吸った。
別世界の空気が、肺に入ってきた。
彼はその空気の中に、彼の三月の、すべての記憶を感じた。馬車の中の湿度、野営地の土の匂い、岩穴の冷たさ、世界樹の幹の温度、すべて、その空気の中に、混ざっていた。
彼は目を開けた。
そして、こう、呟いた。
「行きます」
ロウラが彼の隣で、頷いた。
「楔を、お持ちなさい」と彼女は言った。
直樹は、楔を握り直した。
別世界の決戦の朝が、今、始まろうとしていた。
彼の十年、彼の三月、彼のすべての日々が、今、ひとつの楔の中に、凝縮していた。彼はそれを、握っていた。
手のひらの中で、楔は、温かかった。
各地の職人の祈りが、楔に染み込んでいた。それを、彼の指が、感じ取った。十年、紙の上で数字に触れてきた指は、今、別の何かの温度を、読み取っていた。
彼は、目の前の、最後の応力集中点を見つめた。
空はまだ傾いていた。
だが、これからそれを、直す。
彼は深く息を吸って、吐いた。
ロウラが彼の隣に、立っていた。
彼はもう独りでは、なかった。
その事実だけで、十分だった。
彼の前世の三十四年、十一年の社会人生活、十年の日報。そして、別世界の三月。すべての時間が、今、彼の隣にいるロウラの、霧の体の輪郭に、収斂していた。
彼は、楔を握り直した。
力を、込めた。指の関節が、白く、なった。それはもう絶望の白さではなかった。これから、世界を、動かす者の、決意の白さだった。
ロウラが彼の手の上に、自分の手を、軽く、添えた。霧の手だったが、触れた感触は確かにあった。彼の手のひらに、優しい冷たさが、染み込んだ。




