第十六章 黒ずみとの対決
黒ずみは、もはや声だけではなかった。世界の中心で具現化したそれは島原光紀の顔をしていた。スーツを着て、ネクタイを締めて、ニヤリと笑っていた。「やあ、郷田くん。残業ご苦労さま」
世界樹の根本は、想像していたよりも静かな場所だった。巨大な幹が、空を貫いて伸びていた。直径百メートルを超える幹の根本に、巨大な根が広がっていた。その根の中心、洞のような空間があった。応力集中点が、そこにあった。
直樹はセリディアを後ろに残し、洞の中に入った。十五歳の体は、いつになく軽かった。
洞の中央に、黒ずみが立っていた。
四十五歳の、丸顔の、目の細い男。
完全な、島原の姿だった。
スーツを着て、ネクタイを締めていた。手にはコーヒーカップを持っていた。会社の給湯室にあった、ありふれた紙コップだった。
「やあ、郷田くん」と黒ずみは言った。「残業ご苦労さま」
直樹は答えなかった。
「ずいぶん遠くまで来たな。だが、ここで終わりだ。お前は俺に勝てない。なぜなら、俺はお前の心の中で生まれた。お前自身が、俺を生んだんだ。お前を一番よく知っているのは、俺だ」
「あなたは、俺じゃない」と直樹は答えた。
「俺はお前の上司だ」
「あなたはもう俺の上司じゃない」
黒ずみは笑った。コーヒーをひと口、飲んだ。仕草が、完全に島原だった。
「お前は、十一年間、俺に黙ってきた。俺がお前の手柄を奪っても、お前は何も言わなかった。お前の後輩が辞めたとき、お前は俺を恨んだが、それも口にしなかった。お前はいつも黙る男だった。今もそうだ」
「俺は、もう」
「もう、黙らない、と言うのか」と黒ずみは遮った。「言ってみろ。俺の前で、自分の意見を言ってみろ。お前にできるか」
直樹は息を吸った。十五歳の肺が、震えていた。
「俺は」と彼は言った。「十年間、誰にも読まれない日報を書いてきた」
「知ってる」
「あなたは、それを馬鹿にした」
「もちろん。馬鹿にした」
「でもそれは、無意味じゃなかった」
「無意味じゃなかった、と」
「俺の十年は、無意味じゃなかった。あなたに認められなかったから、無意味だったわけじゃない。俺自身が、自分の十年を、認める。俺は自分の十年を、無駄にしない」
黒ずみがわずかにぐらついた。
その揺らぎを、直樹は見逃さなかった。
「あなたは、俺の心の弱さで太った」と直樹は続けた。「俺が自分を否定するたびに、あなたは大きくなった。でも、俺は今日、自分の十年を肯定する。だから、あなたは縮む。あなたを養う餌がもうない」
「ナオキ」
「俺は、ナオキだ。郷田直樹だ。十年間、誰にも読まれない日報を書いてきた男だ。それで、いい」
黒ずみは、コーヒーカップを取り落とした。
紙コップが、洞の地面に落ちて、こぼれた。コーヒーの色をした液体が、地面に広がった。
「やめろ」と黒ずみは言った。声が少し震えていた。
その震えを、直樹は初めて聞いた。本物の島原は、声を震わせたことがなかった。少なくとも、直樹の前では、震わせなかった。今、目の前の黒ずみは震えていた。
ということはこれは、本物の島原ではない。
これは、直樹自身が、生み出した、別の何かだ。
「あなたはもう俺じゃない」と直樹は言った。
「俺は、お前だ」
「いや。あなたは、俺じゃない」
「俺なしで、お前は何者でもない」
「あなたなしで、俺は、俺だ」
黒ずみが、叫んだ。声はもう島原のものではなかった。何か、別のものだった。世界そのものの、悲鳴に似ていた。
その悲鳴を聞きながら、直樹は、別のことを考えていた。
彼は、本物の島原のことを、思い出していた。
十一年前、まだ若かった頃の島原は、こんなに歪んだ人間ではなかった。直樹が新人で配属されたとき、最初に挨拶した先輩が島原だった。当時の島原は、優しいわけではなかったが、少なくとも、人の手柄を奪うような男ではなかった。仕事熱心で、上昇志向の強い、ただの中堅社員だった。
いつから、彼は変わったのか。
たぶん、彼自身も、傷を負ったのだ、と直樹は思った。
会社という組織の中で、彼もまた、誰かに認められないことに、傷ついてきたのかもしれない。その傷が、別の人間の手柄を奪うという形で、表に出てきたのかもしれない。彼を歪めたのは彼の周囲だった。そして、彼が歪んだ結果、直樹が、彼によって歪められた。
歪みは、伝染する。
黒ずみの叫びを聞きながら、直樹はその伝染の連鎖を、断ち切る決意をした。
彼が、ここで、自分の歪みを矯正しなければ、誰かがまた、彼によって歪められるだろう。前世の世界で、彼が後輩を指導するとき、知らず知らずに、自分の歪みを伝染させるかもしれない。それを、止めなければならない。
「黙れ。お前は、俺じゃない」と直樹はもう一度、言った。
今度の声は、確信に満ちていた。
その時、洞の中央の地面が震えた。
応力集中点が、活性化していた。直樹の言葉が、応力に作用していた。彼の自己肯定が、世界の応力を、解放しはじめていた。
「楔を」と直樹は呟いた。
彼は墨壺を取り出した。ジョルダン老の墨壺。何代も使われた古い道具。直樹は、地面に、墨で線を引いた。一本のまっすぐな線が、洞の中央を貫いた。
線を引く瞬間、彼は目を細めた。糸を張る指の力加減を、十年以上、何度も練習してきた。糸がゆるければ、線がぼやける。きつすぎれば、糸が切れる。ちょうど良い張りで、糸を地面に向けてはじく。墨が、地面に、まっすぐな黒い線を残す。
その線は彼の十年の指の記憶が、引いた線だった。
その線の上に、直樹は最後の楔を打ち込んだ。
楔は世界樹の根の中心にまっすぐに、入った。
黒ずみが、砕け始めた。
最初、顔から。次に、肩。胸。
砕け落ちる破片は、すべて黒い砂だった。
「待ってくれ」と黒ずみは言った。「俺は」
「あなたは、俺の中で生きた」と直樹は答えた。「もう、外に出る必要はない」
「俺は」
「ありがとう」と直樹は言った。
黒ずみが止まった。
その目に初めて、人間の表情が浮かんだ。
「ありがとう、だと」
「俺を、ここまで連れてきたのは、あなただった」と直樹は言った。「あなたへの怒りが、俺を立ち上がらせた。あなたへの恐れが、俺を慎重にさせた。あなたなしでは、俺は、十年で辞めていたかもしれない。だから、ありがとう」
黒ずみはしばらく直樹を見つめていた。
その視線に初めて、敵意ではない、別の何かが、宿っていた。
「お前、変わったな」
「ええ」
黒ずみは砂になって、崩れた。
残った砂粒が、地面に落ちる音は、ほとんど、聞こえなかった。それは、十一年間、直樹を苦しめてきた存在の、最後の音だった。
彼はその音をしばらく、聞いていた。
砂の山は、地面でもう、動かなかった。
動かない砂の山を、直樹はしばらく見つめていた。
彼の中で、長い間引きずってきた怒りも、恐れも不思議に、静まっていた。怒りは、砂と一緒に、地面に、落ちた。恐れはもう彼の中に、いなかった。
彼は、十一年分の重さから、解放されていた。
その軽さは、不思議な、軽さだった。長年抱えてきた重みが、急に、なくなった。代わりに、彼の中には、空っぽな場所が、できた。だが、その空っぽさは、悪いものではなかった。これから、何か新しいものを、受け入れる準備の、空っぽさだった。
洞の中央の地面が、安定した。応力が抜けた。
直樹は、ゆっくりと、立ち上がった。
洞の外で、世界中の木工職人たちが、同時に楔を打つ準備を整えていた。
直樹は、洞の外に出て、空を見た。
まだ、傾いていた。
だがもう落ちてはこなかった。
彼は深く息を吸った。
そして、合図を出した。
合図はロウラを通じて、世界中に、伝わった。各地の協力者たちがそれを、受け取った。彼らは、それぞれの場所で、楔を握り直した。今夜、彼らが、世界を救う。
直樹は、空を、見上げた。
空は、まだ傾いていた。だがもう長くは、ない。あと一手で、すべてが、整う。
その一手を、彼はこれから、打つ。




