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異世界に転生した木工屋は、世界の歪みを矯正する  作者: もしものべりすと


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第十五章 鉋を研ぐ

鉋の刃を研いだ。これは前世で何百回も繰り返した動作だ。だが、今日の刃は世界を削る。


 世界樹に向かう途中、直樹たちは、王都の北西にある古い寺院に立ち寄った。そこは、教会勢力の中でも穏健派が拠点とする場所で、ジョルダン老の伝手で、しばらく身を隠せる場所だった。


 寺院の庭で、直樹は工具を整えた。鉋、鑿、墨壺、そして自作の応力計測器。彼はそれらを、丁寧に磨いた。


 鉋の刃を研ぐ作業を、彼は朝から続けていた。


 鉋というのは、木の表面を薄く削って平滑にする道具だ。職人にとって、最も基本的で、最も奥が深い工具のひとつだ。刃を立てる角度、研ぐ砥石の番手、刃の出し具合、台の調整。すべてが揃って、初めて「向こうが透けて見える削り華」が生まれる。


 三十四歳の魂の指は、十五歳の体の指を、確実に動かしていた。砥石の上を、刃が滑った。水を一滴垂らし、また滑らせた。指で刃の角度を確かめた。十年以上、毎週末、彼は会社の工房で、こうやって刃を研いできた。


「いつ来るかわからない、自分のための時間だ」と昔、先輩が言っていた。


 その時間を、彼は今、世界のために、使っていた。


 研ぎ終わった刃に、薄く油を引いた。鏡のような表面が、夕日を反射した。彼はその表面に、自分の顔を映した。十五歳のカイレンの顔だった。でも、目だけは、三十四歳の直樹の目だった。二つの命が、ひとつの体に、収まっていた。


 彼は、刃を、工具袋に納めた。


 寺院の庭の、地面の苔の匂いがした。前世の工場の、油と木屑の匂いとは違っていた。だが、どこかで、似てもいた。手を動かす者の匂い、というものが、世界を越えて、似た形を取るのかもしれない、と彼は思った。


 夕方、寺院の門が叩かれた。


 セリディアが応対に出た。


 戻ってきた彼女の顔は、青ざめていた。


「キルヴァスがもうここを嗅ぎつけたわ」


「人数は」


「百人。聖騎士団、本隊」


「明日、来るのね」


「ええ。明日の昼までに、ここを包囲する」


 直樹はうなずいた。鉋の刃をゆっくり、納めた。


「親方を呼んでください」と彼は言った。


 ジョルダン老が呼ばれた。寺院の中で、直樹は彼に頭を下げた。


「親方。明日の朝、俺は出ます。世界樹までの最後の道は、一日です。間に合わせます」


「俺も行く」


「いえ、親方は」


「俺は、最後まで、お前の傍で見ていたい」


「親方には世界中の村々の指揮を、お願いしたい」


 老人は、しばらく黙った。それから深く、頷いた。


「分かった。お前の言うとおりにする。俺は世界中の弟子たちと一緒に、お前の合図を待つ」


「ありがとうございます」


 ジョルダン老は彼の墨壺を、直樹に渡した。


「これは、貸すと言ったがもうお前のものだ」


「親方」


「俺の親父の親父の時代から、この墨壺は使われてきた。これを使った職人は、皆、まっすぐな線を引いた。お前も、まっすぐな線を引け」


 直樹は墨壺を両手で受け取った。


 その日の夕食を、二人は、寺院の食堂で、共にした。ジョルダン老は、村から、自分の妻まで連れてきていた。彼女は、もう七十を過ぎた老婆だったが、料理の手は、まだ早かった。食堂のテーブルに、肉と野菜の煮込み、麦のパン、それから蜂蜜が並んだ。


「明日、世界樹に行く子の最後の晩餐よ」と彼女は笑った。「最高のものを食べてもらわないと」


 直樹は頭を下げた。


「ありがとうございます。でも、俺は必ず生きて戻ります」


「分かっとる」とジョルダン老が言った。「だが、もし、戻れんかったら、こいつが用意してくれた料理を、最後の食事として、覚えておいてくれ」


「親方」


「もちろん、戻ってきたらもう一度、食わせてやる。何度でも、食わせてやる」


 ジョルダン老の妻が、笑った。皺の深い顔が優しく、緩んだ。


 直樹は、長い間、何も言わずに、皿の上の料理を、見つめていた。


 前世で、最後に、誰かの家で、こういう食事を、食べたのは、いつだったか。思い出せなかった。少なくとも、十年以上、彼は、こういう食事を、食べていなかった。一人で、コンビニの弁当を、食べる夜が、何百回も、続いていた。


 涙が、出そうになった。


 彼はそれを、堪えた。


 代わりに、フォークを取って、肉を、一切れ、口に運んだ。


 味は、まずまずだった。だが、それ以上に、温度が彼を、温めた。


 その夜、寺院の床に座って、彼は墨壺の墨を新しく入れ替えた。新しい墨は、まだ生臭い匂いがした。だが、それが彼の指に染み込むまでに、そう時間はかからなかった。


 墨壺というのは、糸を巻いた小さな箱状の道具だ。箱の中に墨を含ませた綿が入っていて、糸を引き出すと、糸が黒く染まる。その糸を木材の上で張って、ぴんとはじくと、まっすぐな黒い線が、木の表面に、残る。


 ジョルダン老の墨壺は、樺の木で作られていた。表面は何代もの職人の手の脂で、深い茶色に黒ずんでいた。墨壺の縁には、小さな彫り傷がいくつかあった。たぶん、誰かが、不意に床に落とした跡だった。職人の道具は、皆、こういう傷を持っている。傷も含めて、道具だ。


 直樹はその傷の一つに、指を当てた。


 彼の前世の工場の、墨壺ではない墨つぼ、つまり工業用のチョークホルダーも、同じような傷をいくつも持っていた。前任者の癖、その前の任者の癖、そのまた前の任者の癖。傷が、誰かの仕事の痕跡を、語っていた。


 道具は、職人の歴史を覚えている。


 窓の外で、月が出ていた。


 彼は最後にもう一度、ロウラの葉を取り出した。葉は、まだ温かかった。十年分の数字が、葉脈にくっきりと並んでいた。


「ロウラ。明日、俺は世界樹に行く。あなたの森にもう一度、声を戻す」


 葉がわずかに温かくなった。


 彼は、葉をもう一度、胸に戻した。


 部屋の外で、馬の蹄が地面を叩く音がした。最後の協力者の到着だった。各地から駆けつけてきた木工職人の代表たちが、寺院の中庭に、集まり始めていた。


 直樹は立ち上がった。


 窓から見える庭に、ろうそくの光が、いくつも並んでいた。それぞれが、誰かの手で、灯されたものだった。彼の数字を信じて、彼の合図を待つために、世界中から集まってきた人々の、灯した光だった。


 彼はしばらくその光景を見ていた。


 誰にも読まれないと思っていた日報が、こうして、世界中の灯を、集めていた。


 その光景を、彼はしばらく心の中に、刻んだ。たぶん、彼が世界に残せる、最も美しい光景だった。


 彼の十年の、形ある証拠。十年間、誰にも読まれなかったと、彼は思っていた数字。だが、その数字は確かに誰かに、届いていた。届いた者たちが、今夜、ろうそくを、灯していた。


 彼の頬を、涙が、伝った。声は、上げなかった。


 彼は目を閉じた。


 ありがとう、と、誰に対してでもなく、呟いた。


 その「誰でもなく」とは彼自身の十年に対しての、感謝でもあった。十年、誰にも読まれない数字を書き続けた、彼自身の十年。その十年がなければ、彼は、ここに、立てなかった。今夜、寺院の窓から、世界中から集まってきた職人たちの灯すろうそくを、見ることが、できなかった。


 彼自身の十年が彼を、ここに、連れてきた。


 彼の十年に、彼は、感謝した。


 直樹は葉を懐に戻して、目を閉じた。


 明日。彼の人生で、最も長い一日が、始まろうとしていた。


 その夜、彼は、よく眠れなかった。だが、不安ではなかった。むしろ、静かな期待が彼を眠らせなかった。明日、世界中で、七十一の楔が、同時に、振り下ろされる。その合図を、彼が、出す。それを思うと、十五歳の体がわずかに震えた。


 恐れではない、震え。長い準備の末に、本番を迎える者の、震え。前世でも、彼は何度か似たような夜を、過ごしたことがあった。大きな納品の前夜。新しい工程の導入の前夜。今夜はその延長線上にあった。


 彼は、毛布をもう一度、かけ直した。


 目を閉じた。


 眠りは、浅かったが確かに、訪れた。

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