第三十五話 影に手を伸ばす夜
ヴィオレッタは、窓から差し込む月明かりの下でワイングラスを傾けていた。
美しいボルドーが、どこか血のように見える。
ふと、希望と絶望が入り混じったような感覚に襲われた。
藁にも縋る思いで、平民の娘を呼び出した。
だが、それでも駄目だったのなら——どうすればいいのだろう。
ただのお飾りの王妃として、このまま一生を終えるのか。
小さくため息をつく。
少し、飲みすぎた。
一人でいると、どうしても考えすぎてしまう。
今日はもう休もう。
静かに立ち上がった、その時だった。
窓の外を、黒い影が横切った気がした。
——今のは。
ヴィオレッタは、生まれつき高い魔力を持っていた。
そもそも貴族は平民より魔力が高いが、その中でも彼女は群を抜いていた。
性別と生まれた家が違えば、魔術師という道もあっただろう。
だが、その才が発揮されることはなかった。
両親は、ヴィオレッタが良き淑女となり、相応しい家へ嫁ぐことを望んでいたからだ。
まさか王家に嫁ぐとは、当時は思いもしなかったが。
——それでも。
先ほどの影に、なぜか心が引かれた。
何かはわからない。
だが、あれは“大きな力”だと直感した。
もし、あの力を手にできたなら。
自分には、その資格がある気がした。
これほどの魔力を持ちながら、何も為せないまま終わるなど——
そんなはずはない。
それに。
他に縋るものがない今、試してみる以外に道はないのではないか。
今日はサラも下がらせている。
王宮には、王族しか知らない抜け道がある。
上着を羽織り、ヴィオレッタは部屋を抜け出した。
影の気配を追って辿り着いたのは、東の国境近く。
手元のランプだけが頼りだが、月明かりが淡く足元を照らしている。
その時。
再び、あの気配がした。
姿は見えない。
それでも、ヴィオレッタは手を伸ばす。
これほどの力なら——
願いを、叶えてくれるのではないか。
音はない。
虫の声も、風の音すら消えている。
ただ、ヴィオレッタの周囲だけがざわめき、木の葉が舞い上がった。
次の瞬間。
得体の知れない何かが、全身を駆け巡る。
雷に打たれたような衝撃。
視界が歪む。
そのまま、意識は暗闇へと沈んでいった。
「……なんだ、これは」
リオは思わず呟いた。
彼女のことが気にかかる。
こんなところで足止めを食っている場合ではない。
それでも。
目の前の光景から、目を逸らすことはできなかった。
剣を構える。
早く先へ進まなければならない。
だが——
それは、あまりにも異様な光景だった。
無数の人影。
女のようにも見えるそれらは、何かを叫びながら、地を這うように進んでいる。
いや。
あれは人ではない。
亡霊。
そう呼ぶのが、最も近い。
その亡霊たちは、ゆっくりと——
王宮へ向かっていた。




