第三十一話 王妃の檻
部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに冷えた気がした。
身分の低い者は、許しがなければ顔を上げることも、言葉を発することも許されない。
「顔を上げなさい」
「……はい、恐れ入ります」
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは、ルクシオンの女性の頂点に立つ者。
ヴィオレッタ・エルディア。
かつて社交界の花と呼ばれた侯爵令嬢。
その面影は、今もなお損なわれていない。
かつて、社交界で幾度か顔を合わせたことがある。
武の道にあったアウレリアは華やかな場に長く留まることはなかったが、それでも彼女の存在は強く印象に残っていた。
気高く、隙のない立ち振る舞い。
誰の視線も自然と集めてしまう、華のある少女だった。
――だが。
目の前にいる彼女は、どこか違う。
美しさは変わらない。
気品も失われていない。
それなのに。
何かが、静かに歪んでいる。
「お前が、『木漏れ日』の店主……アメリア・ルシアか」
「左様でございます、王妃様。お初にお目にかかります」
視線が絡む。
値踏みするようでいて、どこか粘りつくようだ。
「ただの街娘と聞いていたが……作法は身についているようだな」
「恐れ入ります」
「……まあいい」
興味を失ったようでいて、完全には逸らされない視線。
「お前を呼んだのは、セレナ・アルフェンのことを聞くためだ」
「セレナ夫人、でございますか」
「そうだ」
ヴィオレッタはゆっくりと指を組む。
白い指先がわずかに力を帯びる。
「セレナは、カイルを産んでから体調を崩していた」
淡々とした声音だ。
だが、その奥に滲むものをアウレリアは感じ取る。
「だが、お前と関わりを持ってから……再び子を授かった」
――やはり。
アウレリアは内心で息を整える。
十年。
それだけの時間があっても、王妃には子がいない。
エドガルドは今回の件に関与していない。
そしておそらく、自分の正体にも気づいてはいない。
胸の奥で、わずかな安堵が広がる。
「お前は、セレナにしたことを……私にもするのだ」
静かな命令だった。
逃げ道など、最初から存在しない声音。
「恐れながら……私ごときが、公爵夫人様や王妃様に出来ることなど――」
言い終わる前に、鋭い音が響いた。
ヴィオレッタの手が卓を打ちつけていた。
「お前に選択肢はない」
低く押し殺した声。
その瞳が強くアウレリアを射抜く。
「出来るか出来ないかではない」
ゆっくりと、言葉を刻む。
「やるのだ」
その声音には、焦りと、拭いきれない渇きが滲んでいた。
沈黙が落ちる。
「……出来なければ」
ヴィオレッタは、わずかに笑った。
美しいままの、その笑みで。
「生きてこの王宮を出られると思うな」
かつての可憐な少女は、もういない。
王妃でもない。
侯爵令嬢でもない。
ただ一人の女。
満たされることのないまま、追い詰められた存在。
恐怖はない。
ただ、その姿をアウレリアは少し哀れに思った。




